近況の情勢
1485年1月
かなり無茶振りであったが、昨年の内に簡易的とはいえ砦と兵達が寝起きする小屋を建て、日野に陣を移し年を越す事が出来、またつい最近になって、豊嶋家に、というか俺にとって嬉しい知らせが江戸からもたらされた。
嬉しい知らせ。
それは照が懐妊したとの事だ。
照は太田道灌の娘で、現在川越城に籠城している太田道真の孫にあたる。
4歳の時、人質同然に豊嶋家に嫁いで来た俺の最初の嫁だ。
うん、この豊嶋家存亡の危機と言う時に懐妊という事もあり、嬉しいは嬉しいが、心配な面もあるから複雑な心情だ。
まあ、それはさておき、川越城を囲む足利成氏軍の動向などは、逐一風魔衆から報告を受けて把握はしているが、今回は、その情報の報告と併せ、今後の風魔衆をどう動かすかを、日野の本陣の一室で俺と、風間元重、望月彩芽、服部孫六、そして小姓として控える弥一郎を、今後の事について話す為に召集したのだ。
小姓である弥一郎が何故、風魔衆との密議の場に居るのか?
本来ならば小姓を伴わないのが普通だが、弥一郎は望月彩芽の嫡男であり、俺の護衛と次期風魔衆棟梁候補として見聞を広めるために同席している。
風魔衆の情報で主だった事としては、佐竹義治率いる10000程の兵が離脱し、大掾清幹を討伐する為に常陸に向かった事、それと時を同じくして川越城を囲む成氏の陣に、風魔衆が忍び込みやすくなった事。
そして関東管領上杉顕定が成氏の軍に加わった事、そしてその数日後、上杉顕定が自ら10000の兵を率い滝野城(現在の所沢IC近く)に攻め寄せ敗走した事。
相模の三浦時高が兵を率い伊豆を抜け、駿河に向かい太田道灌と合流した事で、駿東郡から伊勢、小鹿、斯波の連合軍を追い出したと言った感じだ。
因みに滝野城を攻めた上杉軍だが、何故か長尾景春は加わらなかったようで、主に上杉家の直臣と上野の国人衆の構成だったらしい。
それにしても、上杉顕定は豊嶋家の所領の中でも要衝を押さえる城を簡単に落とせるとでも思ったのか、滝野城に着くなりすぐさま城に攻めかかったようだ。
よりによって守りの固い滝野城を攻めるとは…。
滝野城は拡張に拡張を重ねて現在は三の丸まであり、しかも堀は水堀で囲まれている。
内部もかなり手の込んだ造りになっているから、初見での攻略はかなり厳しい城だ。
当然攻め口も限られる為、城に攻め寄せた上杉軍は大手門に殺到し、門に火矢を射掛け、門を突破しようと数十人の歩兵が丸太を両側から抱え持ち突進し、門を破壊しようとする。
予想されていた抵抗は微々たるもので、上杉軍の兵が数回程門に突進し丸太を門に叩きつけた所で、大手門の閂が折れ門が開いた事で、兵達が三の丸に雪崩れ込む。
当然の如く、大手門の閂は、通常のしっかりした物ではなく、あえて細く強度の弱い物にしてある。
閂が頑丈な物だと、何度も丸太や大槌で叩かれ門が痛むし。
そうとは知らず、上杉軍は大手門を破ったで兵達が高揚し、手柄を挙げようと我先にと門を通り抜けていく。
だが門を抜けると、そこは桝形虎口となっており、兵達の足が鈍る。
拡張に拡張を重ねた滝野城の最大の特徴は、大手門を破られても、基本的に三の丸に敵を引き込み殲滅を主眼として作っている。
平時は大手門を抜け、枡形虎口を抜ければ本丸までは一本道であるが、戦時となれば二ノ丸に行く為には、三の丸をほぼ一周しないといけない。
なんせ大手門からの最短ルートにある三の丸と二ノ丸を堀にかかる橋は跳ね橋となっており、戦時は跳ね橋を上げたら、敵兵は二ノ丸への攻め口を探して三の丸を動き回り唯一ある固定された橋を渡る必要がある。
しかも、三の丸内も各所に幅が3メートル程のそれなりに深い水路が張り巡らされ、各所に跳ね橋が設置されているので、迷路状態である。
当然、味方は跳ね橋を渡らねばならないと辿り付けない場所に潜んでいるので、勢いよく三の丸に雪崩れ込んだ上杉軍は枡形虎口で勢いを失い、その後、敵の居ない迷路のような三の丸で右往左往する事になる。
面白いように滝野城の悪意ある造りに惑わされ上杉軍の内、3000近くが三の丸に突入したのを見計らい、滝野城の本丸から狼煙が上がり、太鼓が盛大に叩かれた。
直後、三の丸内に伏せていた兵が、枡形虎口の裏に伏せていた兵が、一斉に現れて上杉軍に矢を射掛け、スリングで石礫を投げつける。
突然現れた豊嶋兵に上杉軍の将兵も動揺するが、すぐさま敵を討とうと兵達に指示を出すも、豊嶋兵は堀を隔てた場所から飛び道具で攻撃するだけで、堀を渡るすべのない上杉軍は、豊嶋軍同様に飛び道具で応戦したようだ。
だが、三の丸内で起こっている戦闘は、後続の兵にすぐさま伝わらない為に、続々と上杉軍が三の丸内に雪崩れ込み、押し合い圧し合いの状態になった事で効果的な反撃が出来なくなっていた。
そして、上杉軍にとって最悪だったのが、城主である赤塚資茂が、風魔衆からの報告を受け、事前に兵を城外へ伏せており、狼煙と太鼓の合図を受けて、背後から上杉軍に襲い掛かったのだ。
当然の如く、城攻めに際し、後方で城攻めの様子を見ていた上杉顕定の兵達に襲い掛かる。
本陣に伏兵の奇襲攻撃を受けた事で、顕定の本陣が合戦の最前線となったわけだが、後方から敵が現れた事で顕定を始め上杉軍の兵達は、豊嶋軍の新手が近隣の城から援軍に来て、挟撃されたと思い、完全に浮き足立つ。
一部の兵は、果敢に後方から現れた豊嶋軍の新手に立ち向かうも、上杉顕定がいち早く僅かな兵と側近の家臣と共に逃げ出した。
大将である上杉顕定が真っ先に逃げた事で混乱し始め、遂には恐怖に駆られた足軽雑兵が、敵襲と本陣が破られたと叫び逃げ出すと、兵達に恐怖と混乱が伝番し、堰を切ったかのように川後へ向けて逃げ出していく。
だが、三の丸まで攻め込んでいた兵達は、完全に取り残される形となり、また逃げようにも大手門の前には上杉軍を蹴散らした伏兵が待ち構え、逃げようとする兵達に襲い掛かった事で、1500人近い首を挙げたとの事だ。
気になる事と言えば、なぜか上杉顕定の軍に伊賀者がおらず、伏兵の存在に気が付かなかった事だな。
稚拙な文章ではございますがお読み頂ければ幸いでございます。
宜しくお願い致します。
また評価、ブックマークありがとうございます。
評価を頂けると大変励みになります。
是非↓の★★★★★にて評価をお願い致します。




