エピローグ 佐川書店の年末
片岡邸での楽しいひと時も過ぎ、次の日の夕方乙彦は佐川書店へと立ち寄った。雅弘の顔を見たかったというのもあるが年末年始は稼ぎ時、それほどもてあましている時間もないだろう。レジで一言二言挨拶交わした上で遊びの約束でも入れるつもりでいた。
「あ、おとひっちゃん!」
思った通りレジでぱたぱた働いている雅弘を発見した。てっきり店内混みあっているのでは思いきやそれほどでもなさそうだ。ただのんびりおしゃべりできる雰囲気でもない。レジで雅弘のお父さんとお母さんにそれぞれ挨拶をし労われた後、
「じゃあ雅弘、せっかくだからおとひっちゃんと少し遊んでおいで。うちに上がってもらいなさい」
お許しを得てさっそく二階へと上がっていった。
「タイミングよかったよ。さっきまでものすごく混み合っててさ。大変だったんだ」
雅弘は箱からみかんを籠に詰め込み、オレンジジュースを持ってきた。グラスに入れて意味もなく乾杯し、
「けど、もう一年あっという間だよなあ」
しみじみつぶやいた。
「ほんとだな。去年の今頃は高校受験勉強で死に物狂いだった」
「俺もだよ、けどおとひっちゃんにはかなわなかったな」
みかんをぼりぼり剥いて皮のまま口に放り込んだ。雅弘が、
「あれ、筋はがさないの」
怪訝そうな顔をしたのであっさり答えた。
「そんな無駄なこと誰がするか!」
雅弘とのんびり話をするのも久しぶりだった。学校祭で顔をちょこっとあわせた程度、本当はいくらでも会いにいける距離に住んでいるのだがいかんせん生徒会活動が始まってからはそんな暇などない。話しているうちに、まだ雅弘には報告していなかったことに気がついた。
「そっか! そうなんだ。おとひっちゃんやっぱり生徒会に入ったんだ!」
拳を握り締め雅弘が満面の笑みで祝福してくれた。やはり親友、わかってくれている。
「いろいろ考えたんだが、やはり俺には委員会活動よりもそっちの方が合っていると思ったんだ」
「そうだよ、絶対そうだよ。おとひっちゃんは生徒会やってるほうが輝いてるよ」
うきうき気分のまま雅弘が乙彦のグラスにジュースを注いで続けた。
「お前はどうなんだ。結構生徒会の奴らと仲がいいって。立候補しなかったのか」
「するわけないよ。そんな俺、頭よくないし」
頭がよい悪いの問題ではないと思うのだが。とりあえず流して雅弘の話に集中した。
「それで思い出したよ。実はさ、さっきたんにこの前会ったんだけど」
雅弘が無理やり話の方向を変えた。ざわりと心が揺らぐ。
「水野さんか」
「そう。さっきたん、今、可南女子高の生徒会に入ったんだって」
「まじかそれは!」
グラスをたたきそうになり慌てて立ち上がった。太い棒が身体の中を縦に突き抜けたような衝撃を感じている。そんな経験ないがたぶん近いと思う。
雅弘はこっくり頷きながら三個目のみかんを剥いた。
「そうだよ。俺もびっくりしちゃってさ。詳しく聞いたんだ。さっきたん永遠の生活委員って感じで、少なくとも生徒会長する感じじゃないよね」
「生徒会長?」
おそるおそる確認する。書記とか渉外とかそのあたりかと思うのだが。
「役職も聞いたのか」
「うん、生徒会長」
あっさりと雅弘は答えた。
「これもびっくりだったんだけど、さっきたん、まじめで先生たちからもすっごく高く評価されてて、ぜひにってことでしかたなくそうなっちゃったみたいなんだ。さっきたんも困ってたけど、しょうがないよね」
「だが一年だぞ。うちの学校の生徒会も会長含め全員一年になったのは事実だが」
「そうだよね。けど、あの学校荒れてて、誰もまじめにやろうとする人いないんだって。極端な話、さっきたんくらいしかまじめな人がいないんだって」
──まじめなだけで生徒会に押し込まれる世界なのか……。
最初の衝撃よりも乙彦には、水野さんへの不安と同情がこみ上げてくる。雅弘の言葉を借りるわけではないが水野さんの性格上、生徒会長としてリーダーシップを発揮するタイプでは決してない。むしろそばにおいて静かに見守ってくれるほうが圧倒的に向いている。そんな、明らかに向いていない環境にどうやって水野さんは順応していくのだろう。
「おとひっちゃん、俺思うんだけど」
雅弘はもぐもぐみかんを食べ続けつつ続けた。
「さっきたんすっごく困ってると思うんだ。俺と話をした時もかわいそうなくらい落ち込んでたもん。中学時代は生活委員しか経験してないだろ。だから思い切っておとひっちゃん、さっきたんの相談に乗ってあげたらいいんじゃないかなって」
「俺が、か?」
まだ貫かれた棒の感覚が残っているようで、それでも座りなおした。雅弘を習ってみかんに手を伸ばす。
「俺もせいぜい水鳥中学の副会長どまりだが」
「十分だよ! やっぱりおとひっちゃんでないとこういうの無理だよ!」
雅弘は力説した。
「もしよかったら年明けにでも俺、さっきたんに連絡するから一緒に会おうよ。それでいろいろさっきたんの心配事聴いてあげようよ。俺もできることなら協力したいけど、やっぱりここはおとひっちゃんでないとできないんだ! 頼むよおとひっちゃん!」
──水野さんが生徒会長か。
どういう事情があるのかわからない。雅弘の話を聞くだけでは水野さんがどういう事情でもって推薦されてしまったのか見当もつかない。右往左往しているだけなのかもしれない。学校が違えば生徒会の雰囲気も異なる。果たして乙彦のアドバイスが役立つのだろうか。
「ね、おとひっちゃん、いいだろ?」
雅弘が顔を覗き込んでくる。考え込む乙彦に畳み掛けるように、
「俺では無理なんだ。おとひっちゃんなら絶対に出来るよ。俺、やっぱりおとひっちゃんでないと頼めないんだ。総田ではだめなんだよ」
乙彦は両手をテーブルに着いた。大きく頷いた。
「わかった、俺に出来る限りのことはする」
しばらく時間をつぶした後、そろそろというところで立ち上がった。そうだ、まだ言い忘れていたことがある。たぶん今年も雅弘と会えるのは最後だろう。水野さんの件でまた来年早々に会える可能性もあるがそれはそれだ。忘れないうちに伝えておこう。
「雅弘、ずっと気になっていたんだが」
「なんだろ」
「やっとお前の濡れ衣がうちの学校でも完璧に晴れたようだな」
ぽかんとした雅弘に乙彦なりの労いを込めて。
「ほら、佐賀さんいただろう。青大附中の生徒会長を務めていて、新井林とその」
「うん、何度も会ってるけど」
ピントの外れた答えをする雅弘に乙彦は続けた。
「俺も新井林には詳しい事情を聞いていないんでわからないんだが、少なくともお前があの彼女と付き合っているといった噂は払拭されているんだ」
「え、そもそもどういうことなのかな。俺全然わかんないけど」
一時期えらく誤解された雅弘の彼女。単純に相談相手であり、新井林とも親しく付き合っているというのに、主に立村から「佐賀はるみと佐川雅弘は付き合っている」的な誤解をされてしまっていた。新井林も笑い飛ばしていたものの、実際雅弘も佐川書店で佐賀と顔をあわせていることもあって百パーセントの誤解とは言い切れないところもあった。潔白を信じたいもののまだもやもやしたものが残っている。もしクロであればとことん張ったおすしかないし、一度は誤解して制裁を加えたこともある。だが、もうそれはあっさり流せるということだ。
「雅弘、あの時は本当に悪かったな」
頭を下げた。雅弘が恐縮しているがその点は無視だ。
「やはり雅弘、お前あの彼女となんでもなかったんだな」
「当たり前だけど、なんで今更そんな昔のことを?」
戸惑う雅弘に乙彦はすべてを伝えた。
「実はな、うちの学校の奴が佐賀さんと一緒に俺の知っている奴と手をつないで歩いているとこ見たって言ってたんだ。それもどこで見かけたと思う?」
「どこって?」
少しだけ間を持たせた。
「お前の家だ、いや、店だ」
ぽかんとしたまま言葉も出ない雅弘。わけがわかってなかったのだろう。さらに詳細を伝えた。
「そいつが言うには、たまたま佐川書店で買い物していたらあの彼女と俺の知っているある男子とが仲むつまじく買い物をして、手を取り合って出て行ったようだ。単なる友だちならまだしも、手を握るというのは普通の付き合いではそうないだろう。正直、新井林は辛い思いをしているのではとも同情禁じえないところもあるのだが、とりあえずお前とは無関係だということは証明された。もし新井林が心配するようだったらその時は俺が証人になってやるから安心しろよ」
新井林には同情禁じえない。はたして霧島もどういう気持ちでそういうことをしたのかわからない。ただ少なくとも自分にとって一番の親友の屈辱的な誤解を解けたというそれだけだった。誰かに伝えるでもない、ただ、純粋に雅弘の潔白を信じられる、それ以上の心地よさはない。あやまっても、何度頭を下げてもいい。
「おとひっちゃん、そんな、いいよ俺」
「もうお前を疑うなんてことはしない。安心した。立村にも誤解しないようによくよく伝えておく。それじゃ、水野さんのことについては後で連絡頼む」
戸惑っている様子の雅弘に手を振り、乙彦は外へ出た。
うす曇の空からかすかな雪が降り注いできた。少しずつつもり始めているその路から雅弘は空を眺めた。丸い太陽らしき影がゆっくり動いているのがわかる。
──走るか!
この辺一周してから家に戻ろうと決めた。
駆け出してすぐふと頬にひりつく風を感じた。
ほんの少し痛くてなぜか心地よかった。
──やはりこれが冬だ。年末だ。締めくくりだ。
──終──