プロローグ 旅立ち
丘の上には、風の音だけがあった。
町外れの小さな墓地。そのいちばん奥にある墓の前へ、青年が一輪の花を置いた。名も知らない青い野花だった。町の花屋を三軒回っても気に入るものがなく、結局ここへ来る途中で摘んだものだ。
少し離れたところに、ひとりの騎士が立っていた。
帯剣してはいるが、鎧は着ていない。見送りに大盾まで持ってくる必要はないと考えたらしく、腰の剣以外は普段着だった。それでも立ち姿には、長く剣を握ってきた者の硬さが残っている。
「もう行くのか」
騎士が尋ねた。
墓前にしゃがんでいた青年は、花から手を離した。
「はい」
「明日の朝でも変わらないと思うが」
「今日行くと決めました」
「そうか」
騎士はそれ以上、引き止めなかった。
青年の荷物は少ない。肩に掛けた鞄がひとつと、剣が一本。それだけを見れば、数日先の町まで出かける旅人にも見えた。
「足りないものはないか」
「ありません」
「お前の『ありません』は、あまり信用できないんだがな」
青年が騎士を見る。
淡い青の瞳には、冗談の意味を測るような色が浮かんだ。やがて、ごく小さく息を吐く。
「困ったときには、人を頼ります」
「それならいい」
騎士は上着の内側から、小さな紙包みを出した。
「これは持っていけ」
青年が受け取る。
中には、砂糖をまぶした乾燥果実が入っていた。
「誰からですか」
「町の子どもたちだ。お前が出ると聞いて、朝からうちへ持ってきた」
「なぜ、あなたの家へ」
「俺なら見送りに来ると思ったらしい」
青年は一つ取り、口へ入れた。
騎士が眉を上げる。
「今食べるのか」
「味を確かめました」
「旅の途中で食べろという意味だ」
「残っています」
「そういう問題ではない」
青年の口元が、少しだけ上がった。
紙包みを鞄のいちばん上へしまう。
「甘い物は好きだったな」
「はい」
「それくらいは、素直に答えるようになったか」
何年も前から同じ答えを待っていたような言い方だった。
青年は鞄の口を閉じ、結び目を二度確かめた。
風が丘を上り、二人の外套を揺らした。騎士は空を見て、午後には雲が出ると告げる。青年はうなずき、雨具も入っていると答えた。どこへ行くとも、いつ戻るとも話さないまま、会話だけはごく普通の旅立ちの形をしていた。
騎士は一度だけ墓へ目を向けた。
「あいつも、そうしろと言うだろう」
「はい」
青年は立ち上がり、服についた草を払った。
丘の下には町があり、その先には街道が伸びている。空は高く晴れ、遠くの山までよく見えた。
青年は墓前でもう一度だけ足を止めた。
「行ってきます」
返事はない。
それでも青年は、しばらく待ってから墓に背を向けた。
騎士はその背中が丘を下りきるまで、黙って見送っていた。




