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月光の師と未完の魔術師 ― 世界はまだ、繋がっている ―  作者: 平子 天陽


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迎えに来ました

こんにちは! “あまはる”です!

この作品を見つけていただき、ありがとうございます。

最終話になりますm(__)m


 三日後。


 四次元魔法陣の実験結果を受け、レグルスが第五星環への立ち入りを手配した。

 封鎖されている地下最深部へ入ることと、万一に備えて地上へ警戒の人員を置くこと。

 その二つだけを整え、四人は第五星環へ戻ってきた。


 朝の薄明かりの中、幾本もの白石柱が地上に大きな円を描いて並んでいた。


 柱群は、三年前と変わらない姿だった。

 その内側にある地下遺跡への入口には、警戒に当たる騎士たちが立っている。

 周囲の石床には新しい白石を継いだ跡が残り、ここで起きたことまで消えたわけではないと伝えていた。


 アルノは白石の柱群を見渡したあと、胸元へ抱えていた筒を持ち直した。

 中には、完成した四次元魔法陣の原図が収められている。


「行きましょう」


 返事を待たず、入口へ足を踏み入れる。


 リネとレグルスが続き、最後にアレクシスが周囲を確認して扉を閉じた。

 地上には、王国から派遣された魔術師と騎士が待機している。

 だが、地下最深部へ入るのは、三年前にエルディオンが消える瞬間を見届けた四人だけだった。


 長い石段を降りるにつれ、外の光は遠ざかっていく。

 壁へ取り付けられた光石が一定の間隔で足元を照らし、四人分の靴音を冷たい通路へ響かせていた。


 同じ道を、アルノは何度も夢に見た。


 夢の中では、どれほど走っても最深部へたどり着けない。

 ようやく扉が見えた時には、いつも白い光があふれ、銀色の髪が向こう側へ消えてしまう。


 今日は、夢ではない。


 背負ってきた三年間の重さも、腕の中にある魔法陣も、すべて現実だった。


 最深部の扉が開く。


 かつて邪竜の咆哮に震えていた空間は、息苦しいほど静かだった。

 瓦礫は片付けられ、壊れた壁も補修されている。

 床には戦いの傷が幾つか残されていたが、知らずに訪れた者なら、ここで王国の存亡を懸けた戦いがあったとは思わないだろう。


 それでも、アルノには見えた。


 部屋の中央から少し外れた場所。

 空間の端に、途切れた糸のような蒼い残光が揺れている。


 三年前より細い。

 光そのものは、今にも消えそうなほど弱くなっていた。

 けれど、その奥へ折り畳まれた歪みは失われていない。


 あの日、エルディオンが立っていた場所だった。


「ここです」


 アルノの声に、三人が足を止めた。


 アルノは抱えてきた筒から、四枚の原図を取り出した。


 一枚目は、離れた二点を結ぶ接続の層だった。

 その周囲には、距離に左右されず道を保ち、通した魔力を循環させる円環が重ねられている。


 二枚目は、接続先の位置と状態を読み取る観測の層だった。

 アウレリアで確かめた、途切れた道筋を残された側から辿る構造も、今はその中へ組み込まれている。


 三枚目は、こちら側と向こう側の空間を留め、渡る者の形を崩さず移す、固定と遷移の層だった。


 四枚目には、Limesで境界を定め、その向こうへ渡る経路と、開いた境界を閉じる構造が組まれている。


 どの紙にも、三年間で集めた幾つもの神代スペルと、それらを働かせる円環や補助線が重ねられていた。

 役割の異なる四つの層が噛み合い、今は一つの術式として薄い紙の上へ収まっている。


 実験室で確かめられたのは、四つの層を魔力が巡り、何も開かずに始点へ戻ることまでだった。

 実際の痕跡へ触れた時、何が返ってくるのか。

 そこから先は、誰にも分からない。


 アルノは原図を見直し、静かに巻いて壁際へ置いた。

 ここから魔法陣を作るのは、工房でも道具でもない。

 アルノ自身だった。


 床へ指を向け、小さな円を一つ描く。

 そこから蒼い残光の手前まで銀色の線を伸ばし、始点へ戻るための流れを閉じた。


「レグルス。この線をお願いします。僕が向こうへ入ったあと、扉をこちら側へ繋ぎ止める線です」


 レグルスは円の前へ膝をつき、片手を銀色の光へ添えた。


「大した魔術は使えませんが、この線を保つ程度の魔力はあります」


「強める必要はありません。今の流れを途切れさせないでください」


「承知しました。四つの層の状態も、この位置から確認します」


 アルノは残る二人へ向き直った。


「リネとアレクシスさんは、僕とエルさん以外のものが扉から出てきたら、止めてください」


「任せて。アルノは後ろを気にしなくていいよ」


 リネが両の拳を握り、アレクシスも白銀の剣を抜いた。


「ここは我々が守る」


「向こうで何があっても、一人で何とかしようとしないで。必ず、エルさんと二人で戻ってきて」


 今度は、すぐに答えられなかった。


 約束できる根拠など、まだ一つもない。

 それでも、曖昧な返事をするためにここまで来たのではなかった。


「必ず戻ります」


 リネはアルノの顔を見つめ、最後に一度だけ頷いた。


 ◇


 アルノは蒼い残光の前へ立ち、右手を上げた。


 指先が空間をなぞる。


 最初に現れたのは、接続を担う円だった。

 中心のスペルから幾本もの導線が伸び、その周囲へ、道の維持と魔力の循環を担う小さな円環が連なっていく。


 その上へ、接続先の位置と状態を読み取る観測の層が、異なる角度から重なった。


 三つ目の光には、空間の固定と遷移を担う円環が幾重にも現れた。

 こちら側と向こう側を一時的に留め、渡る者の形を保ったまま移すための構造だった。

 異なる角度で浮かんだ三枚の魔法陣が、アルノを中心にゆっくりと回り始める。


 三枚目から伸びた一本の線が、人には知覚できない方向へ滑り込む。


 何もなかった場所へ、四枚目の光が現れた。


 見えているのに、どこにあるのかは捉えられない。

 その先で新たな円が閉じ、四つ目の軸が術式へ加わった。


 リネが息を詰める。

 レグルスは光の流れを追い、アレクシスは白銀の剣へ掛けた手へ力を込めた。


 三枚の内側でも外側でもない。

 すべてへ重なりながら、どの面にも触れていない。

 光の線が互いの裏側から現れ、円の外周を通ったはずの導線が、途切れることなく中心へ戻っていく。


 三年前にエルディオンが描いた四次元魔法陣を、そのまま再現したものではない。

 あの術式から受け継いだのは、人には知覚できない第四の方向へ道を開く考え方だけだった。

 接続、観測、空間の固定と遷移は、三年間で集めた神代スペルを用い、アルノが新たに組み上げた。


 アルノは四枚の外周へLimesを重ね、こちら側の境界を定めた。

 ごく細く魔力を流すと、観測の層に組み込んだNodusが銀色に輝き始める。


 指先を蒼い残光へ向けた。


 光を押し込まない。

 アウレリアで確かめたように、こちら側へ残った端から、途切れた道筋を逆に辿る。


 銀色の線が一本、残光の手前まで伸びた。

 触れた瞬間、空間の奥で何かが大きく震える。


 折り畳まれていた痕跡がほどけ、そこから二つの反応が返ってきた。

 最初に現れたのは、あまりにも大きな歪みだった。


 床の上へ黒い影が走り、四枚の魔法陣が激しく震える。

 接続の円を巡る光が急速に薄くなった。


 アルノは術式へ送る魔力を即座に絞り、巨大な流れへ力が渡る直前で止めた。

 力で押し返すことはしない。

 床を這っていた黒い影が薄れ、円環の揺れも少しずつ収まっていく。


「反応が、二つある」


 アルノは二つの流れから目を離さずに告げた。

 レグルスに見えているのは、床を走る黒い影と、激しく震える四枚の魔法陣だけだった。


 痕跡の奥には、異なる二つの流れが残されている。

 一つは、周囲の空間ごと引きずるほど巨大で、荒々しく膨れ上がる流れ。

 もう一つは、その内側を通り、術式の中心へ細く戻っていく蒼い線だった。


 邪竜と、エルディオン。


 二つとも、同じ魔法陣によって向こう側へ移動した。

 Nodusが示したのは、一本の道に残された二つの流れだけだった。

 どちらを道標にして進むのかを定めることは、その働きではできない。


「四つの層は保たれています。中断しますか」


 薄れかけた円環の光も、そのまま保たれている。


 アウレリアで、危険を感じた瞬間に接続を切った。

 あの経験がなければ、反応を確かめようとして、さらに力を流していたかもしれない。


「続けられます」


 アルノは呼吸を整え、残った蒼い線へ意識を戻した。


 邪竜へ伸びていたのは、移動させる対象を囲む線だった。

 中心から外へ向かうばかりで、一度も始点へ戻っていない。


 もう一つは違う。


 四つの層を巡り、魔法陣を描いた者へ戻っている。

 術式の中心と繋がり、最後まで流れを制御していた者の線だった。


 場所ではない。

 邪竜とエルディオンを閉じ込めた空間そのものでもない。

 あの日、道を描いた人へ繋ぐ。


 アルノは中央の円環の外周から、巨大な流れへ向かう分岐を一つずつ閉じた。

 残したのは、中心へ帰ってくる細い線だけだった。


 道筋は見つけた。

 あとは、座標の代わりになる道標を置く。


 アルノは、中央へ刻んだ一語に魔力を重ねた。


「Le-Vinculum」


 銀色の光が神代文字を巡り、エルディオンへ続く蒼い線と結ばれた。

 何もない場所へ新しい道を作ったのではない。

 二人のあいだに残っていた繋がりが、座標のない空間で進むべき方向を示している。


 四枚の魔法陣が、もう一度回転を始めた。


 光の面が互いの内側を抜け、存在しない方向へ折り畳まれる。

 蒼い線を道標に、銀色の光がその先へ伸びていった。


 四枚の円環を巡る光は安定している。

 黒い影は、もうどの層にも混じっていなかった。


「黒い影は消えています。四つの層にも異常はありません」


 レグルスが告げた。


 アルノに見える反応も、中心へ戻る蒼い線ただ一つになっていた。


 その瞬間、四枚の中心へ白い光があふれた。


 裂け目のように空間を引き裂くことはなかった。

 光は縦に細く伸び、輪郭を持ち、やがて人が一人通れるほどの白い面となって、アルノの前へ立ち上がった。


 扉だった。


 向こうの景色は見えない。

 白い光だけが満ち、その奥へどれほどの距離があるのかも分からない。


 アルノは手を伸ばし、光の表面へ触れた。


 温かかった。


 何度触れても冷たい歪みしか返さなかった場所から、人の体温に似た熱が伝わってくる。


「繋がっています」


 胸の奥から込み上げるものを抑え、アルノは振り返った。


 レグルスは始点の円へ片手を添え、戻るための線を保ちながら、四枚の流れを見守っている。

 リネとアレクシスは、白い扉の両脇で、それぞれ拳と白銀の剣を構えていた。


 三人がこちらにいるから、アルノは向こうへ行ける。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 リネの声は、震えていなかった。


 アルノは白い光へ向き直り、一歩を踏み出した。


 ◇


 足の裏から、床の感触が消えた。


 落ちてはいない。

 けれど、立っているとも言い切れなかった。

 前も後ろも、上も下もない暗闇の中へ、扉から続く一本の銀色の道だけが伸びている。


 道の外では、砕けた白石が止まっていた。

 飛び散った蒼い光も、黒い鱗の表面を滑る火花も、空中へ縫い留められたように動かない。


 遥か遠くから、邪竜の咆哮が引き延ばされた低い音となって届いていた。


 三年という時間は、ここを同じ速さでは流れていない。


 アルノが足を進めるたび、銀色の道の周囲だけへ時間が戻っていく。

 止まっていた光がわずかに揺れ、黒い翼の先が少しずつ動き始める。


 道の終わりに、一人の人が立っていた。


 腰まで流れる銀色の髪。

 白い外套。

 その周囲には、消える直前の四次元魔法陣が蒼い光を残している。


 エルディオンは、邪竜へ向き直ったままだった。


 あの日から、まだ一歩も動いていないように見えた。


「エルさん」


 アルノは呼んだ。


 声が銀色の道を渡っていく。


 エルディオンの肩が動いた。

 ゆっくりと振り返り、深い碧眼が光の中に立つアルノを捉える。


 その目が、大きく見開かれた。


「……アルノ?」


 あの日と同じ声だった。


 アルノは笑おうとした。

 けれど、目の前にいる人の姿が滲み、うまく表情を作ることができない。


 何度も夢に見た。


 呼んでも振り返らない背中を、何度も追いかけた。


 今は、名前を呼べば返事がある。


「迎えに来ました」


 声は少し震えていた。

 それでも、あの日からずっと伝えたかった言葉を、はっきりと告げることができた。


 エルディオンはアルノの顔を見つめた。

 伸びた背丈と、幼さの抜けた輪郭。

 あの日にはなかった変化から、二人の間に過ぎた時間を読み取っていく。


「アルノなら、来てくれると思ってた」


 エルディオンの表情が、ゆっくりとほどけた。


「はい。三年、かかりました」


 エルディオンの手が伸び、アルノの肩へ落ちた髪へそっと触れた。

 指先が、三年前にはなかった長さを確かめるように止まる。

 その表情が、ほんの少しだけ翳った。


「ずいぶん、遠くまで来たんだね」


「帰ったら、話したいことがたくさんあります」


 アルノは銀色の道の上へ手を伸ばした。


「だから、帰りましょう。エルさん」


 エルディオンは差し出された手を見たあと、背後の邪竜へ顔を向けた。

 止まっていた黄金の瞳が、銀色の道へ向かって動き始めている。

 巨大な前脚も、長い時間から解き放たれるように、ゆっくりと持ち上がっていた。


「あれも、道を通るんじゃない?」


「通れません」


 アルノは迷わず答えた。


「僕が繋いだのは、この空間じゃない。エルさんへ続く道です」


 邪竜の爪が振り下ろされる。


 黒い爪は銀色の道へ触れた瞬間、見えない壁へ阻まれた。

 凄まじい衝撃に周囲の暗闇が揺れる。

 それでも、道を形作る線には傷一つ入らない。


 この道の道標になっているのは、エルディオンへ続く線だけだった。


 エルディオンの瞳が、邪竜からアルノへ戻った。


 困ったような、それでいてどこか誇らしそうな笑みが浮かぶ。


「すごいね、アルノ」


「帰ってから、いくらでも褒めてください」


「うん」


 エルディオンの手が、アルノの手へ重なった。


 確かな温もりが伝わる。


 銀色の道が強く輝き、二人の足元から白い光が立ち上がった。

 邪竜の咆哮が暗闇を震わせる。

 けれど、その音は急速に遠ざかり、黒い巨体も光の向こうへ沈んでいく。


 アルノは繋いだ手を離さなかった。


 もう、見失わない。


 二人は白い扉へ向かって走った。


 ◇


 最初に白い光の中から飛び出したのは、アルノだった。


 続いて、長い銀髪が光を受けて翻る。

 エルディオンの足が第五星環の床へ着いた瞬間、アルノは二人の背後へ伸びていた銀色の線を切った。


 レグルスが始点の円から手を離す。

 帰路が閉じ、四枚の魔法陣を巡っていた光が一斉に消えた。

 アレクシスは白銀の剣を構えたまま、扉が完全に消えるまで動かなかった。


 白い扉は細い線となり、最後に蒼い光を一度だけ瞬かせて消えた。


 向こう側から、邪竜の影が現れることはなかった。


 エルディオンだけを道標にして開いた道は閉じ、邪竜へ伸びていた分岐も術式から切り離されている。

 向こうの空間からこちらの世界へ通じる線は、もう一つも残っていなかった。

 邪竜の残る空間は、こちらの世界から完全に切り離されていた。


 アルノはそれを見届け、ようやくエルディオンの手を離した。

 その途端、膝から力が抜ける。


「アルノ」


 倒れる前に、エルディオンの腕が身体を支えた。


「大丈夫?」


「大丈夫です」


「大丈夫じゃない」


 その返しを、アルノは覚えていた。


 あの日は、アルノを支えた手が離れ、その背中を追うことしかできなかった。

 今は、その手がここにある。


 アルノは支えられた腕へ、そっと指を掛けた。

 布越しに伝わる温もりが、これは夢ではないと教えてくれた。


 リネが二人の前まで来た。

 何か言おうとして口を開いたものの、声になる前に涙がこぼれた。

 リネはそれを乱暴に拭い、エルディオンの胸へ拳を一つ押し当てる。


「遅いよ」


「ごめん」


 レグルスは始点の円から立ち上がり、白い扉が消えた空間を最後まで確かめた。


「接続は完全に閉じています。邪竜の反応もありません」


 その簡潔な報告に、アルノはようやく肩の力を抜いた。


 アレクシスは、少し離れた場所に立っていた。

 長く憧れ続けた英雄が目の前にいる。

 それでも二人の再会へ踏み込むことはせず、アルノの肩を支えるエルディオンの姿を、蒼い瞳に焼き付けるように見つめていた。


 やがて白銀の剣を鞘へ収め、深く頭を下げた。


「おかえりなさいませ」


 その声を合図にするように、リネも笑った。


「おかえり、エルさん」


 レグルスも、わずかに頷く。


 エルディオンは三人を見渡した。

 最後に、アルノへ視線を戻す。


「ただいま」


 ずっと空白だった場所へ、その一言が落ちた。


 床に残っていた蒼い痕跡は、もう見えない。

 エルディオンへ続いていた道は役目を終え、世界の端で静かに閉じていた。


 それでも、繋がりまで消えたわけではない。


 アルノは目を閉じ、三年前には届かなかった温もりを、すぐ隣に確かめた。


 ◇


 ひと月後。


 王都魔術塔の神代語辞典編纂室には、紙をめくる音と、ペン先が走る音が響いていた。

 アルノは机へ向かい、アウレリアで見たNodusの用例を書き加えている。


 接続が途絶えたあとも、結節点には、かつて繋がっていた道の痕跡が残る場合がある。


 どのNodusにも当てはまると断定せず、確認できた一例として記す。

 その下へ海底で見た円環の形を描き終えた時、遠くから鈍い轟音が届いた。


 窓硝子が震え、塔内へ警戒を知らせる鐘が鳴る。

 アルノが立ち上がるより早く、廊下を駆ける足音が編纂室の前を通り過ぎていった。


 ◇


 中央演習場の上空で、青白い光が渦を巻いていた。


 複数の魔術師が同時に展開した攻撃術式が互いに干渉し、行き場を失った魔力が膨れ上がっている。

 演習場を覆う防護陣には細い亀裂が走り、術式を止めようにも、魔力を切れば、すでに放たれた力が出口を失って内側から押し返す状態だった。


 その真下へ、エルディオンが一人で歩いていく。

 帰還後、彼は王都魔術塔へ正式に復帰していた。


「そのまま。無理に切らないで」


 魔術師たちへ声を掛け、エルディオンは片手を上げた。

 広げた指の先に蒼い魔法陣が生まれ、頭上の渦よりも大きな円環となって演習場を覆う。


 膨れ上がった魔力が一気に落ちてきた。

 銀の長い髪が風に煽られて大きくなびく。

 それでもエルディオンは一歩も退かず、落ちてきた光へ向けて指先を僅かに返した。


 蒼い円環の外周が回る。

 押し戻せば破裂するはずだった力は、流れを変えられ、細い光となって空へ昇っていった。

 絡み合っていた炎も氷も雷も、互いへ触れることなくほどけ、雲の下で静かに消える。


 亀裂の入った防護陣だけが残り、演習場には怪我人一人いなかった。

 集まった魔術師たちが言葉を失う中、エルディオンは何事もなかったように手を下ろす。


「今の魔法陣は、どう組んだのですか」


 若い魔術師が、おそるおそる尋ねた。


「流れを上へ返しただけだよ」


「どの線を、どう繋げば返せるのでしょうか」


「外へ向かっていたものを捕まえて、上へ」


 若い魔術師は困った顔のまま、答えを待っている。

 エルディオンも少し考えたあと、人垣の外にいたアルノを見つけた。


「……詳しい説明は、アルノに聞いた方がいいかも」


「やっぱり僕なんですね」


 アルノは近くにあった黒板を借り、円環を一つ描いた。

 エルディオンは膨れ上がった魔力を消したのではなく、外周を巡っていた流れを受け取り、出口だけを空へ向けたのだ。

 力に逆らわず、進む方向を途中で変える。

 そう説明しながら補助線を加えると、若い魔術師の顔にようやく理解の色が浮かんだ。


 エルディオンは黒板とアルノを見比べ、満足そうに頷く。


「うん。そういうこと」


「エルさんも、最初からそう言ってください」


「言ったつもりだったんだけどね」


 三年前と変わらない返事に、アルノは呆れながらも笑った。


 ◇


 編纂室へ戻ると、長机の上には大きな籠が置かれていた。

 蓋の隙間から焼きたてのパンと香草の匂いが漂い、その隣ではリネが人数分の皿を並べている。


「遅いよ。せっかくの料理が冷めるところだった」


「ごめん。演習場で少しあって」


「見てたよ。塔の上まで光ってたから」


 リネは二人に席を勧めた。

 今日もアルノの母が持たせた籠には、四人でも食べ切れるか分からないほどの料理が詰まっている。


 食事が半ばまで進んだ頃、レグルスが細長い記録筒を抱えて入ってきた。

 空いていた席へ着いてからも、料理がなくなるまでは筒を開かなかった。


 最後のパンを食べ終えると、レグルスは長机へ北方の地図と一枚の写しを広げた。


「北方国境のさらに先で、新しい神代遺跡が確認されました」


 地図には、王国の北端を越えた山地へ小さな印が付けられている。

 写しには、辞典へまだ記録されていない文字列と、途中で欠けた魔法陣の一部が描かれていた。


 アルノは紙を引き寄せた。

 気付けば、指先が途切れた線の先を探すように、空中の点と点を結んでいる。


「もう、次の遺跡?」


 エルディオンが隣から覗き込む。


「まだ、どんな遺跡なのかも分かりません」


「辞典の項目も、また増えますね」


 レグルスの言葉に、アルノは机の上の分厚い原稿へ目を向けた。

 三年間で、辞典へ記せる言葉は増えた。

 けれど、一つの意味を記すたび、その隣には新しい疑問が生まれている。


「この辞典、いつか完成するの?」


 リネに尋ねられ、アルノは少し考えた。


「完成させるつもりで作ってるよ。でも、新しい遺跡を見つけるたび、知らない言葉が増えるんだ」


 写しへ描かれた未知の文字と、その下で途切れた魔法陣を見る。


「魔法陣も、きっと無限なんです。一つが完成しても、その先に、また新しい線が始まるから」


「それじゃあ、君はいつまでたっても未完の魔術師だ」


 エルディオンの言葉に、アルノは笑って頷いた。


「はい。でも、今はそれが楽しいです」


 あの日、何も楽しくないと答えたアルノの声を覚えているのだろう。

 エルディオンは一瞬だけ目を細め、それから北方の地図へ手を伸ばした。


「出発はいつ?」


「三日後を予定しています」


「僕も行くことになってる?」


「行くのでしょう?」


 レグルスに問い返され、エルディオンは楽しそうに笑った。


「もちろん」


 ◇


 三日後。


 夜明け前の王都北門には、聖騎士団へ復帰したアレクシスが、白い外套をまとって見送りに立っていた。


「王都はお任せください」


 エルディオンは、真っ直ぐに頭を下げるアレクシスへ笑いかけた。


「うん。頼りにしてるよ」


 アレクシスに見送られ、四人は北門から延びる街道を北へ向かって歩き始めた。

 先を行くレグルスが地図で道を確かめ、その隣ではリネが、国境の先まで何日かかるのかを尋ねている。


 アルノの鞄には、辞典へ新しい項目を書き留めるための記録帳と、何も記されていない紙が何枚も収められていた。

 アルノの隣では、エルディオンの銀髪が、月光を集めたように淡く輝きながら、夜明けの風に揺れていた。


「エルさん」


「なに?」


「また、一緒に旅ができますね」


 エルディオンはアルノを見て、柔らかく笑った。


「うん。一緒に行こう」


 四人の足音が、北へ続く道の上へ重なっていく。

 新しい遺跡も、まだ読めない言葉も、完成していない魔法陣も、その先で彼らを待っている。


 のちに、アルノが生涯をかけて編纂した神代語辞典は、神代文明研究の礎となった。

 新たな遺跡を訪れるたびに、未知の文字と新しい用例が見つかり、その項目は増え続けた。


 そして、神代文字を読み解くたびに、アルノの前には、まだ誰も知らない魔法陣が現れた。

 一つの術式を完成させても、その先には新しい線と、新しい可能性が待っている。


 魔術師としての歩みも、研究も、これから先へ続いていく。

 未完であることは、足りないということではない。

 まだ、新しいものを描けるということだ。


 魔法陣は、無限だ。

 そこから伸びる道は、縁あるものへ繋がっていく。


 世界はまだ、繋がっている。


 ― 完 ―

長い話を、最後まで読んでいただきありがとうございました!

これにて、月光の師と未完の魔術師 ― 世界はまだ、繋がっている ―

終了でございます。

感謝申し上げます!( ᴗ ᴗ)⁾⁾ぺこり


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