迎えに来ました
こんにちは! “あまはる”です!
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最終話になりますm(__)m
三日後。
四次元魔法陣の実験結果を受け、レグルスが第五星環への立ち入りを手配した。
封鎖されている地下最深部へ入ることと、万一に備えて地上へ警戒の人員を置くこと。
その二つだけを整え、四人は第五星環へ戻ってきた。
朝の薄明かりの中、幾本もの白石柱が地上に大きな円を描いて並んでいた。
柱群は、三年前と変わらない姿だった。
その内側にある地下遺跡への入口には、警戒に当たる騎士たちが立っている。
周囲の石床には新しい白石を継いだ跡が残り、ここで起きたことまで消えたわけではないと伝えていた。
アルノは白石の柱群を見渡したあと、胸元へ抱えていた筒を持ち直した。
中には、完成した四次元魔法陣の原図が収められている。
「行きましょう」
返事を待たず、入口へ足を踏み入れる。
リネとレグルスが続き、最後にアレクシスが周囲を確認して扉を閉じた。
地上には、王国から派遣された魔術師と騎士が待機している。
だが、地下最深部へ入るのは、三年前にエルディオンが消える瞬間を見届けた四人だけだった。
長い石段を降りるにつれ、外の光は遠ざかっていく。
壁へ取り付けられた光石が一定の間隔で足元を照らし、四人分の靴音を冷たい通路へ響かせていた。
同じ道を、アルノは何度も夢に見た。
夢の中では、どれほど走っても最深部へたどり着けない。
ようやく扉が見えた時には、いつも白い光があふれ、銀色の髪が向こう側へ消えてしまう。
今日は、夢ではない。
背負ってきた三年間の重さも、腕の中にある魔法陣も、すべて現実だった。
最深部の扉が開く。
かつて邪竜の咆哮に震えていた空間は、息苦しいほど静かだった。
瓦礫は片付けられ、壊れた壁も補修されている。
床には戦いの傷が幾つか残されていたが、知らずに訪れた者なら、ここで王国の存亡を懸けた戦いがあったとは思わないだろう。
それでも、アルノには見えた。
部屋の中央から少し外れた場所。
空間の端に、途切れた糸のような蒼い残光が揺れている。
三年前より細い。
光そのものは、今にも消えそうなほど弱くなっていた。
けれど、その奥へ折り畳まれた歪みは失われていない。
あの日、エルディオンが立っていた場所だった。
「ここです」
アルノの声に、三人が足を止めた。
アルノは抱えてきた筒から、四枚の原図を取り出した。
一枚目は、離れた二点を結ぶ接続の層だった。
その周囲には、距離に左右されず道を保ち、通した魔力を循環させる円環が重ねられている。
二枚目は、接続先の位置と状態を読み取る観測の層だった。
アウレリアで確かめた、途切れた道筋を残された側から辿る構造も、今はその中へ組み込まれている。
三枚目は、こちら側と向こう側の空間を留め、渡る者の形を崩さず移す、固定と遷移の層だった。
四枚目には、Limesで境界を定め、その向こうへ渡る経路と、開いた境界を閉じる構造が組まれている。
どの紙にも、三年間で集めた幾つもの神代スペルと、それらを働かせる円環や補助線が重ねられていた。
役割の異なる四つの層が噛み合い、今は一つの術式として薄い紙の上へ収まっている。
実験室で確かめられたのは、四つの層を魔力が巡り、何も開かずに始点へ戻ることまでだった。
実際の痕跡へ触れた時、何が返ってくるのか。
そこから先は、誰にも分からない。
アルノは原図を見直し、静かに巻いて壁際へ置いた。
ここから魔法陣を作るのは、工房でも道具でもない。
アルノ自身だった。
床へ指を向け、小さな円を一つ描く。
そこから蒼い残光の手前まで銀色の線を伸ばし、始点へ戻るための流れを閉じた。
「レグルス。この線をお願いします。僕が向こうへ入ったあと、扉をこちら側へ繋ぎ止める線です」
レグルスは円の前へ膝をつき、片手を銀色の光へ添えた。
「大した魔術は使えませんが、この線を保つ程度の魔力はあります」
「強める必要はありません。今の流れを途切れさせないでください」
「承知しました。四つの層の状態も、この位置から確認します」
アルノは残る二人へ向き直った。
「リネとアレクシスさんは、僕とエルさん以外のものが扉から出てきたら、止めてください」
「任せて。アルノは後ろを気にしなくていいよ」
リネが両の拳を握り、アレクシスも白銀の剣を抜いた。
「ここは我々が守る」
「向こうで何があっても、一人で何とかしようとしないで。必ず、エルさんと二人で戻ってきて」
今度は、すぐに答えられなかった。
約束できる根拠など、まだ一つもない。
それでも、曖昧な返事をするためにここまで来たのではなかった。
「必ず戻ります」
リネはアルノの顔を見つめ、最後に一度だけ頷いた。
◇
アルノは蒼い残光の前へ立ち、右手を上げた。
指先が空間をなぞる。
最初に現れたのは、接続を担う円だった。
中心のスペルから幾本もの導線が伸び、その周囲へ、道の維持と魔力の循環を担う小さな円環が連なっていく。
その上へ、接続先の位置と状態を読み取る観測の層が、異なる角度から重なった。
三つ目の光には、空間の固定と遷移を担う円環が幾重にも現れた。
こちら側と向こう側を一時的に留め、渡る者の形を保ったまま移すための構造だった。
異なる角度で浮かんだ三枚の魔法陣が、アルノを中心にゆっくりと回り始める。
三枚目から伸びた一本の線が、人には知覚できない方向へ滑り込む。
何もなかった場所へ、四枚目の光が現れた。
見えているのに、どこにあるのかは捉えられない。
その先で新たな円が閉じ、四つ目の軸が術式へ加わった。
リネが息を詰める。
レグルスは光の流れを追い、アレクシスは白銀の剣へ掛けた手へ力を込めた。
三枚の内側でも外側でもない。
すべてへ重なりながら、どの面にも触れていない。
光の線が互いの裏側から現れ、円の外周を通ったはずの導線が、途切れることなく中心へ戻っていく。
三年前にエルディオンが描いた四次元魔法陣を、そのまま再現したものではない。
あの術式から受け継いだのは、人には知覚できない第四の方向へ道を開く考え方だけだった。
接続、観測、空間の固定と遷移は、三年間で集めた神代スペルを用い、アルノが新たに組み上げた。
アルノは四枚の外周へLimesを重ね、こちら側の境界を定めた。
ごく細く魔力を流すと、観測の層に組み込んだNodusが銀色に輝き始める。
指先を蒼い残光へ向けた。
光を押し込まない。
アウレリアで確かめたように、こちら側へ残った端から、途切れた道筋を逆に辿る。
銀色の線が一本、残光の手前まで伸びた。
触れた瞬間、空間の奥で何かが大きく震える。
折り畳まれていた痕跡がほどけ、そこから二つの反応が返ってきた。
最初に現れたのは、あまりにも大きな歪みだった。
床の上へ黒い影が走り、四枚の魔法陣が激しく震える。
接続の円を巡る光が急速に薄くなった。
アルノは術式へ送る魔力を即座に絞り、巨大な流れへ力が渡る直前で止めた。
力で押し返すことはしない。
床を這っていた黒い影が薄れ、円環の揺れも少しずつ収まっていく。
「反応が、二つある」
アルノは二つの流れから目を離さずに告げた。
レグルスに見えているのは、床を走る黒い影と、激しく震える四枚の魔法陣だけだった。
痕跡の奥には、異なる二つの流れが残されている。
一つは、周囲の空間ごと引きずるほど巨大で、荒々しく膨れ上がる流れ。
もう一つは、その内側を通り、術式の中心へ細く戻っていく蒼い線だった。
邪竜と、エルディオン。
二つとも、同じ魔法陣によって向こう側へ移動した。
Nodusが示したのは、一本の道に残された二つの流れだけだった。
どちらを道標にして進むのかを定めることは、その働きではできない。
「四つの層は保たれています。中断しますか」
薄れかけた円環の光も、そのまま保たれている。
アウレリアで、危険を感じた瞬間に接続を切った。
あの経験がなければ、反応を確かめようとして、さらに力を流していたかもしれない。
「続けられます」
アルノは呼吸を整え、残った蒼い線へ意識を戻した。
邪竜へ伸びていたのは、移動させる対象を囲む線だった。
中心から外へ向かうばかりで、一度も始点へ戻っていない。
もう一つは違う。
四つの層を巡り、魔法陣を描いた者へ戻っている。
術式の中心と繋がり、最後まで流れを制御していた者の線だった。
場所ではない。
邪竜とエルディオンを閉じ込めた空間そのものでもない。
あの日、道を描いた人へ繋ぐ。
アルノは中央の円環の外周から、巨大な流れへ向かう分岐を一つずつ閉じた。
残したのは、中心へ帰ってくる細い線だけだった。
道筋は見つけた。
あとは、座標の代わりになる道標を置く。
アルノは、中央へ刻んだ一語に魔力を重ねた。
「Le-Vinculum」
銀色の光が神代文字を巡り、エルディオンへ続く蒼い線と結ばれた。
何もない場所へ新しい道を作ったのではない。
二人のあいだに残っていた繋がりが、座標のない空間で進むべき方向を示している。
四枚の魔法陣が、もう一度回転を始めた。
光の面が互いの内側を抜け、存在しない方向へ折り畳まれる。
蒼い線を道標に、銀色の光がその先へ伸びていった。
四枚の円環を巡る光は安定している。
黒い影は、もうどの層にも混じっていなかった。
「黒い影は消えています。四つの層にも異常はありません」
レグルスが告げた。
アルノに見える反応も、中心へ戻る蒼い線ただ一つになっていた。
その瞬間、四枚の中心へ白い光があふれた。
裂け目のように空間を引き裂くことはなかった。
光は縦に細く伸び、輪郭を持ち、やがて人が一人通れるほどの白い面となって、アルノの前へ立ち上がった。
扉だった。
向こうの景色は見えない。
白い光だけが満ち、その奥へどれほどの距離があるのかも分からない。
アルノは手を伸ばし、光の表面へ触れた。
温かかった。
何度触れても冷たい歪みしか返さなかった場所から、人の体温に似た熱が伝わってくる。
「繋がっています」
胸の奥から込み上げるものを抑え、アルノは振り返った。
レグルスは始点の円へ片手を添え、戻るための線を保ちながら、四枚の流れを見守っている。
リネとアレクシスは、白い扉の両脇で、それぞれ拳と白銀の剣を構えていた。
三人がこちらにいるから、アルノは向こうへ行ける。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
リネの声は、震えていなかった。
アルノは白い光へ向き直り、一歩を踏み出した。
◇
足の裏から、床の感触が消えた。
落ちてはいない。
けれど、立っているとも言い切れなかった。
前も後ろも、上も下もない暗闇の中へ、扉から続く一本の銀色の道だけが伸びている。
道の外では、砕けた白石が止まっていた。
飛び散った蒼い光も、黒い鱗の表面を滑る火花も、空中へ縫い留められたように動かない。
遥か遠くから、邪竜の咆哮が引き延ばされた低い音となって届いていた。
三年という時間は、ここを同じ速さでは流れていない。
アルノが足を進めるたび、銀色の道の周囲だけへ時間が戻っていく。
止まっていた光がわずかに揺れ、黒い翼の先が少しずつ動き始める。
道の終わりに、一人の人が立っていた。
腰まで流れる銀色の髪。
白い外套。
その周囲には、消える直前の四次元魔法陣が蒼い光を残している。
エルディオンは、邪竜へ向き直ったままだった。
あの日から、まだ一歩も動いていないように見えた。
「エルさん」
アルノは呼んだ。
声が銀色の道を渡っていく。
エルディオンの肩が動いた。
ゆっくりと振り返り、深い碧眼が光の中に立つアルノを捉える。
その目が、大きく見開かれた。
「……アルノ?」
あの日と同じ声だった。
アルノは笑おうとした。
けれど、目の前にいる人の姿が滲み、うまく表情を作ることができない。
何度も夢に見た。
呼んでも振り返らない背中を、何度も追いかけた。
今は、名前を呼べば返事がある。
「迎えに来ました」
声は少し震えていた。
それでも、あの日からずっと伝えたかった言葉を、はっきりと告げることができた。
エルディオンはアルノの顔を見つめた。
伸びた背丈と、幼さの抜けた輪郭。
あの日にはなかった変化から、二人の間に過ぎた時間を読み取っていく。
「アルノなら、来てくれると思ってた」
エルディオンの表情が、ゆっくりとほどけた。
「はい。三年、かかりました」
エルディオンの手が伸び、アルノの肩へ落ちた髪へそっと触れた。
指先が、三年前にはなかった長さを確かめるように止まる。
その表情が、ほんの少しだけ翳った。
「ずいぶん、遠くまで来たんだね」
「帰ったら、話したいことがたくさんあります」
アルノは銀色の道の上へ手を伸ばした。
「だから、帰りましょう。エルさん」
エルディオンは差し出された手を見たあと、背後の邪竜へ顔を向けた。
止まっていた黄金の瞳が、銀色の道へ向かって動き始めている。
巨大な前脚も、長い時間から解き放たれるように、ゆっくりと持ち上がっていた。
「あれも、道を通るんじゃない?」
「通れません」
アルノは迷わず答えた。
「僕が繋いだのは、この空間じゃない。エルさんへ続く道です」
邪竜の爪が振り下ろされる。
黒い爪は銀色の道へ触れた瞬間、見えない壁へ阻まれた。
凄まじい衝撃に周囲の暗闇が揺れる。
それでも、道を形作る線には傷一つ入らない。
この道の道標になっているのは、エルディオンへ続く線だけだった。
エルディオンの瞳が、邪竜からアルノへ戻った。
困ったような、それでいてどこか誇らしそうな笑みが浮かぶ。
「すごいね、アルノ」
「帰ってから、いくらでも褒めてください」
「うん」
エルディオンの手が、アルノの手へ重なった。
確かな温もりが伝わる。
銀色の道が強く輝き、二人の足元から白い光が立ち上がった。
邪竜の咆哮が暗闇を震わせる。
けれど、その音は急速に遠ざかり、黒い巨体も光の向こうへ沈んでいく。
アルノは繋いだ手を離さなかった。
もう、見失わない。
二人は白い扉へ向かって走った。
◇
最初に白い光の中から飛び出したのは、アルノだった。
続いて、長い銀髪が光を受けて翻る。
エルディオンの足が第五星環の床へ着いた瞬間、アルノは二人の背後へ伸びていた銀色の線を切った。
レグルスが始点の円から手を離す。
帰路が閉じ、四枚の魔法陣を巡っていた光が一斉に消えた。
アレクシスは白銀の剣を構えたまま、扉が完全に消えるまで動かなかった。
白い扉は細い線となり、最後に蒼い光を一度だけ瞬かせて消えた。
向こう側から、邪竜の影が現れることはなかった。
エルディオンだけを道標にして開いた道は閉じ、邪竜へ伸びていた分岐も術式から切り離されている。
向こうの空間からこちらの世界へ通じる線は、もう一つも残っていなかった。
邪竜の残る空間は、こちらの世界から完全に切り離されていた。
アルノはそれを見届け、ようやくエルディオンの手を離した。
その途端、膝から力が抜ける。
「アルノ」
倒れる前に、エルディオンの腕が身体を支えた。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
その返しを、アルノは覚えていた。
あの日は、アルノを支えた手が離れ、その背中を追うことしかできなかった。
今は、その手がここにある。
アルノは支えられた腕へ、そっと指を掛けた。
布越しに伝わる温もりが、これは夢ではないと教えてくれた。
リネが二人の前まで来た。
何か言おうとして口を開いたものの、声になる前に涙がこぼれた。
リネはそれを乱暴に拭い、エルディオンの胸へ拳を一つ押し当てる。
「遅いよ」
「ごめん」
レグルスは始点の円から立ち上がり、白い扉が消えた空間を最後まで確かめた。
「接続は完全に閉じています。邪竜の反応もありません」
その簡潔な報告に、アルノはようやく肩の力を抜いた。
アレクシスは、少し離れた場所に立っていた。
長く憧れ続けた英雄が目の前にいる。
それでも二人の再会へ踏み込むことはせず、アルノの肩を支えるエルディオンの姿を、蒼い瞳に焼き付けるように見つめていた。
やがて白銀の剣を鞘へ収め、深く頭を下げた。
「おかえりなさいませ」
その声を合図にするように、リネも笑った。
「おかえり、エルさん」
レグルスも、わずかに頷く。
エルディオンは三人を見渡した。
最後に、アルノへ視線を戻す。
「ただいま」
ずっと空白だった場所へ、その一言が落ちた。
床に残っていた蒼い痕跡は、もう見えない。
エルディオンへ続いていた道は役目を終え、世界の端で静かに閉じていた。
それでも、繋がりまで消えたわけではない。
アルノは目を閉じ、三年前には届かなかった温もりを、すぐ隣に確かめた。
◇
ひと月後。
王都魔術塔の神代語辞典編纂室には、紙をめくる音と、ペン先が走る音が響いていた。
アルノは机へ向かい、アウレリアで見たNodusの用例を書き加えている。
接続が途絶えたあとも、結節点には、かつて繋がっていた道の痕跡が残る場合がある。
どのNodusにも当てはまると断定せず、確認できた一例として記す。
その下へ海底で見た円環の形を描き終えた時、遠くから鈍い轟音が届いた。
窓硝子が震え、塔内へ警戒を知らせる鐘が鳴る。
アルノが立ち上がるより早く、廊下を駆ける足音が編纂室の前を通り過ぎていった。
◇
中央演習場の上空で、青白い光が渦を巻いていた。
複数の魔術師が同時に展開した攻撃術式が互いに干渉し、行き場を失った魔力が膨れ上がっている。
演習場を覆う防護陣には細い亀裂が走り、術式を止めようにも、魔力を切れば、すでに放たれた力が出口を失って内側から押し返す状態だった。
その真下へ、エルディオンが一人で歩いていく。
帰還後、彼は王都魔術塔へ正式に復帰していた。
「そのまま。無理に切らないで」
魔術師たちへ声を掛け、エルディオンは片手を上げた。
広げた指の先に蒼い魔法陣が生まれ、頭上の渦よりも大きな円環となって演習場を覆う。
膨れ上がった魔力が一気に落ちてきた。
銀の長い髪が風に煽られて大きくなびく。
それでもエルディオンは一歩も退かず、落ちてきた光へ向けて指先を僅かに返した。
蒼い円環の外周が回る。
押し戻せば破裂するはずだった力は、流れを変えられ、細い光となって空へ昇っていった。
絡み合っていた炎も氷も雷も、互いへ触れることなくほどけ、雲の下で静かに消える。
亀裂の入った防護陣だけが残り、演習場には怪我人一人いなかった。
集まった魔術師たちが言葉を失う中、エルディオンは何事もなかったように手を下ろす。
「今の魔法陣は、どう組んだのですか」
若い魔術師が、おそるおそる尋ねた。
「流れを上へ返しただけだよ」
「どの線を、どう繋げば返せるのでしょうか」
「外へ向かっていたものを捕まえて、上へ」
若い魔術師は困った顔のまま、答えを待っている。
エルディオンも少し考えたあと、人垣の外にいたアルノを見つけた。
「……詳しい説明は、アルノに聞いた方がいいかも」
「やっぱり僕なんですね」
アルノは近くにあった黒板を借り、円環を一つ描いた。
エルディオンは膨れ上がった魔力を消したのではなく、外周を巡っていた流れを受け取り、出口だけを空へ向けたのだ。
力に逆らわず、進む方向を途中で変える。
そう説明しながら補助線を加えると、若い魔術師の顔にようやく理解の色が浮かんだ。
エルディオンは黒板とアルノを見比べ、満足そうに頷く。
「うん。そういうこと」
「エルさんも、最初からそう言ってください」
「言ったつもりだったんだけどね」
三年前と変わらない返事に、アルノは呆れながらも笑った。
◇
編纂室へ戻ると、長机の上には大きな籠が置かれていた。
蓋の隙間から焼きたてのパンと香草の匂いが漂い、その隣ではリネが人数分の皿を並べている。
「遅いよ。せっかくの料理が冷めるところだった」
「ごめん。演習場で少しあって」
「見てたよ。塔の上まで光ってたから」
リネは二人に席を勧めた。
今日もアルノの母が持たせた籠には、四人でも食べ切れるか分からないほどの料理が詰まっている。
食事が半ばまで進んだ頃、レグルスが細長い記録筒を抱えて入ってきた。
空いていた席へ着いてからも、料理がなくなるまでは筒を開かなかった。
最後のパンを食べ終えると、レグルスは長机へ北方の地図と一枚の写しを広げた。
「北方国境のさらに先で、新しい神代遺跡が確認されました」
地図には、王国の北端を越えた山地へ小さな印が付けられている。
写しには、辞典へまだ記録されていない文字列と、途中で欠けた魔法陣の一部が描かれていた。
アルノは紙を引き寄せた。
気付けば、指先が途切れた線の先を探すように、空中の点と点を結んでいる。
「もう、次の遺跡?」
エルディオンが隣から覗き込む。
「まだ、どんな遺跡なのかも分かりません」
「辞典の項目も、また増えますね」
レグルスの言葉に、アルノは机の上の分厚い原稿へ目を向けた。
三年間で、辞典へ記せる言葉は増えた。
けれど、一つの意味を記すたび、その隣には新しい疑問が生まれている。
「この辞典、いつか完成するの?」
リネに尋ねられ、アルノは少し考えた。
「完成させるつもりで作ってるよ。でも、新しい遺跡を見つけるたび、知らない言葉が増えるんだ」
写しへ描かれた未知の文字と、その下で途切れた魔法陣を見る。
「魔法陣も、きっと無限なんです。一つが完成しても、その先に、また新しい線が始まるから」
「それじゃあ、君はいつまでたっても未完の魔術師だ」
エルディオンの言葉に、アルノは笑って頷いた。
「はい。でも、今はそれが楽しいです」
あの日、何も楽しくないと答えたアルノの声を覚えているのだろう。
エルディオンは一瞬だけ目を細め、それから北方の地図へ手を伸ばした。
「出発はいつ?」
「三日後を予定しています」
「僕も行くことになってる?」
「行くのでしょう?」
レグルスに問い返され、エルディオンは楽しそうに笑った。
「もちろん」
◇
三日後。
夜明け前の王都北門には、聖騎士団へ復帰したアレクシスが、白い外套をまとって見送りに立っていた。
「王都はお任せください」
エルディオンは、真っ直ぐに頭を下げるアレクシスへ笑いかけた。
「うん。頼りにしてるよ」
アレクシスに見送られ、四人は北門から延びる街道を北へ向かって歩き始めた。
先を行くレグルスが地図で道を確かめ、その隣ではリネが、国境の先まで何日かかるのかを尋ねている。
アルノの鞄には、辞典へ新しい項目を書き留めるための記録帳と、何も記されていない紙が何枚も収められていた。
アルノの隣では、エルディオンの銀髪が、月光を集めたように淡く輝きながら、夜明けの風に揺れていた。
「エルさん」
「なに?」
「また、一緒に旅ができますね」
エルディオンはアルノを見て、柔らかく笑った。
「うん。一緒に行こう」
四人の足音が、北へ続く道の上へ重なっていく。
新しい遺跡も、まだ読めない言葉も、完成していない魔法陣も、その先で彼らを待っている。
のちに、アルノが生涯をかけて編纂した神代語辞典は、神代文明研究の礎となった。
新たな遺跡を訪れるたびに、未知の文字と新しい用例が見つかり、その項目は増え続けた。
そして、神代文字を読み解くたびに、アルノの前には、まだ誰も知らない魔法陣が現れた。
一つの術式を完成させても、その先には新しい線と、新しい可能性が待っている。
魔術師としての歩みも、研究も、これから先へ続いていく。
未完であることは、足りないということではない。
まだ、新しいものを描けるということだ。
魔法陣は、無限だ。
そこから伸びる道は、縁あるものへ繋がっていく。
世界はまだ、繋がっている。
― 完 ―
長い話を、最後まで読んでいただきありがとうございました!
これにて、月光の師と未完の魔術師 ― 世界はまだ、繋がっている ―
終了でございます。
感謝申し上げます!( ᴗ ᴗ)⁾⁾ぺこり




