新しい仲間
朝、アルノは妙な夢で目を覚ました。
夢の中で、知らない文字が浮かんでいた。
壁一面を埋め尽くす神代文字。
赤黒く脈打つ巨大な魔法陣。
そして、その奥。
裂け目の向こうで、誰かがこちらを見ていた気がした。
魔法陣が生き物のように脈打ち、何かを飲み込み続けている。
その光景を見ているだけで胸の奥がざわついた。
何かを思い出しそうになる。
けれど、届かない。
そこで夢は途切れた。
アルノはゆっくりと目を開ける。
窓から差し込む朝日が、宿の部屋を淡く照らしていた。
外では荷馬車が石畳を進む音が聞こえる。
鳥のさえずり。
宿の一階から漂ってくる焼きたてのパンの香り。
穏やかな朝だった。
それなのに、夢の光景だけが頭の奥へ焼き付いたまま離れない。
「……嫌な夢。」
身体を起こす。
少しだけ頭が重かった。
熱があるわけではない。
額へ手を当てても、熱さは感じない。
それでも昨日読んだ神代文字が、記憶の底でちらついていた。
神代文字が読める。
昨日まではできなかったことだ。
理由は分からない。
文字を解読している感覚もない。
見た瞬間、意味だけが頭へ流れ込んでくる。
便利な力というより。
知らないものが、自分の中へ勝手に入り込んできたような。
そんな落ち着かない感覚だった。
アルノは鏡の前へ立つ。
柔らかな栗色の髪は、寝癖で一房だけ外へ跳ねていた。
指で押さえる。
けれど、すぐに元へ戻ってしまう。
「……また。」
子どもの頃から変わらない寝癖だった。
思わず苦笑する。
鏡の中では、少したれた大きな瞳がこちらを見返していた。
淡い灰色の瞳。
朝日を受けると、その奥が静かに銀色を帯びる。
昨日までと同じ顔。
同じはずなのに。
今日は、その瞳まで少し違って見えた。
◇
食堂へ降りると、焼きたてのパンの香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
宿泊客たちの穏やかな話し声が響き、窓から差し込む朝日が木の床へ長い影を落としている。
昨日までいた地下遺跡とは、まるで別世界だった。
すでに三人は席についていた。
リネは焼きたてのパンを頬張りながら、温かなスープを口へ運んでいる。
朝日に照らされた明るい赤茶色のポニーテールが肩の後ろで揺れた。
大きな琥珀色の瞳がこちらを見る。
「おはよう。」
柔らかな笑顔だった。
その一言だけで、不思議と肩の力が抜ける。
「おはよう。」
アルノも席へ着いた。
向かいではエルディオンが静かに紅茶を飲んでいた。
白く細い指先がティーカップを持ち上げる。
さらりと流れる銀髪。
朝日を受けた横顔は、まるで絵画から抜け出してきたようだった。
深い碧眼は窓の外を映している。
ただ紅茶を飲んでいるだけ。
それだけなのに、不思議なくらい様になっている。
(なんで紅茶飲むだけで、あんなに絵になるんだろう。)
思わず見入ってしまう。
「どうしたの?」
エルディオンがこちらを見た。
碧眼と目が合う。
「あ、いえ。」
慌てて視線を逸らす。
リネがその様子を見て小さく笑った。
「見とれてる。」
「ち、違うよ。」
否定してみるものの、自分でも少し苦しいと思った。
エルディオンはくすりと笑い、もう一口紅茶を口へ運ぶ。
やっぱり絵になっていた。
食堂の隅では、レグルスが机いっぱいへ資料を広げていた。
古びた羊皮紙。
石板の写し。
神代文字を書き写した記録。
昨夜よりもきれいに分類され、一枚一枚が几帳面に重ねられている。
整えられた金髪は少しだけ乱れ、銀縁の眼鏡の奥にある灰紫色の瞳だけが妙に冴えていた。
羽ペンは止まることなく紙の上を走り続けている。
「レグルスさん、寝てないんですか?」
アルノが尋ねる。
レグルスはペンを止めないまま答えた。
「少しだけ寝ました。」
「それ、寝てないってことですよね。」
「睡眠より優先すべき事項がありました。」
あまりにも真面目な返事だった。
アルノは助けを求めるようにリネを見る。
リネはパンを飲み込み、無言で首を横へ振った。
――関わるな。
そんな表情だった。
レグルスは羽ペンを置くと、一枚の羊皮紙を手に取った。
「確認したいことがあります。」
「……なんですか?」
「これを読んでください。」
差し出された紙には、神代文字がびっしりと並んでいた。
朝食前から重い。
かなり重い。
アルノは思わず苦笑する。
「朝ごはんが食べたいです……。」
「先に読んでください。」
真顔だった。
研究者は容赦がない。
アルノは小さく息を吐き、羊皮紙へ視線を落とした。
古びた羊皮紙いっぱいに、神代文字が隙間なく刻まれている。
昨日の自分なら、ただの模様にしか見えなかった文字だった。
けれど今は違う。
視線が触れた、その瞬間。
「……星環共有文書――第四星環より。」
自然と言葉が口をついて出た。
アルノ自身も驚いたように目を瞬かせる。
やはり読める。
文字を一つずつ追っている感覚ではない。
誰かに答えだけを教えられたように、意味だけが頭の奥へ流れ込んでくる。
その感覚には、まだ慣れなかった。
レグルスの羽ペンが止まる。
眼鏡の奥の灰紫色の瞳がわずかに揺れた。
昨夜と同じ結果。
それでも、実際に目の当たりにすると驚きを隠せないらしい。
「やはり、読めるんですね。」
「……みたいです。」
アルノは苦笑する。
「僕も、まだ信じられなくて。」
羊皮紙から目を離し、もう一度見直す。
やはり変わらない。
文字は意味へ。
意味は言葉へ。
何の苦労もなく変換されていく。
それが便利というより、不気味だった。
レグルスは静かに頷き、手帳を開いた。
羽ペンを持ち直す。
紙の上へ静かに構えた。
「続きをお願いします。」
短い一言だった。
だが、その声には期待が滲んでいる。
アルノは小さく肩を落とした。
「分かりました。」
再び羊皮紙へ視線を向ける。
古びた神代文字が、次々と意味へ変わっていった。
「外側接続異常……。」
さらさら、とペンが走る。
レグルスは一言も挟まない。
聞き漏らすまいとするように、視線だけをアルノへ向けている。
「第四星環にて確認……。」
リネが小さく首を傾げた。
「第四星環?」
レグルスも反応しかけたが、言葉を飲み込む。
今は読むことを優先した。
アルノはさらに続きを読んでいく。
「封鎖処理……。」
わずかに間が空く。
「……一部失敗。」
食堂の空気が静まり返った。
窓の外では馬車の車輪が石畳を転がる音が聞こえている。
それなのに、この卓だけが切り離されたように静かだった。
レグルスのペン先が止まる。
「失敗……。」
小さく呟く。
神代文明にも、失敗という概念があった。
その事実だけでも十分に価値がある。
アルノは続きを読もうとした。
「――っ。」
その瞬間。
頭の奥へ鋭い痛みが走った。
視界がぐらりと揺れる。
思わず机へ手をついた。
「アルノ?」
リネがすぐ隣まで歩み寄る。
大きな琥珀色の瞳が心配そうに揺れていた。
「大丈夫?」
「あ……うん。」
額へ手を当てる。
脈打つような痛みだった。
紙から目を離すと、不思議なくらい少しずつ痛みが引いていく。
「ちょっと頭が痛いだけ。」
無理に笑ってみせる。
けれど、リネの表情は晴れなかった。
エルディオンも静かにティーカップを置く。
深い碧眼がアルノの様子を確かめるように見つめていた。
レグルスは羊皮紙へ目を落としたまま動かない。
やがて、小さく息を吐く。
「……すみません。」
アルノが顔を上げる。
レグルスはゆっくりと眼鏡を外し、小さく息をついた。
「無理をさせました。」
「え?」
「神代遺跡の解析になると……どうも歯止めが利かなくて。」
そう言って苦笑する。
昨夜から机へ向かい続けていた理由も、それだったのだろう。
興味を持てば、とことん突き詰める。
研究者らしい性分だった。
リネが呆れたように肩をすくめる。
「自覚あるんだ。」
「あります。」
迷いのない即答だった。
そのあまりの潔さに、アルノは思わず笑ってしまう。
悪気があってやったわけではない。
知りたいという気持ちが、人一倍強いだけなのだ。
少なくとも、それはもう十分伝わっていた。
レグルスは机へ広げていた羊皮紙を一枚ずつ丁寧に重ねていく。
端を揃え、革紐で束ねる手つきには迷いがない。
長い年月を経た資料を傷付けないよう、一枚一枚を慈しむように扱っていた。
その様子を眺めながら、アルノはふっと小さく笑う。
昨日までは初対面だったはずなのに。
そんな気がしない。
エルディオンは静かに紅茶を飲み干すと、空になったカップを受け皿へ戻した。
かすかな音が食堂へ響く。
「さて。」
穏やかに笑う。
「今日も邪竜を追わないとね。」
リネも頷いた。
「いつまでも同じ街にいるわけにもいかないし。」
その一言で、アルノの胸に昨日の光景がよみがえった。
赤黒く脈打つ魔法陣。
真っ先に前へ飛び出したリネ。
障壁を張り続けていたレグルス。
敵を圧倒していたエルディオン。
自分は、ただその背中を見ていることしかできなかった。
胸の奥が少しだけ痛む。
アルノはゆっくりと口を開いた。
「エルさん。」
深い碧眼がこちらへ向く。
「どうしたの?」
アルノは小さく息を吸った。
「昨日。」
「僕、何もできませんでした。」
食堂が静かになる。
誰も言葉を挟まない。
「リネの後ろにいることしかできなかった。」
リネは口を開きかけ、そのまま閉じた。
慰めるのは違う。
今のアルノが求めているのは、それではないと分かったからだ。
アルノは顔を上げる。
少したれた灰色の瞳が、まっすぐエルディオンを見つめた。
「足を引っ張りたくないんです。」
「僕も戦いたい。」
「攻撃魔法を教えてください。」
しばらく誰も話さなかった。
エルディオンはアルノを見つめる。
深い碧眼が、静かに揺れた。
やがて、小さく笑う。
「いいよ。」
短い返事だった。
それだけで十分だった。
◇
食堂を出た四人は、宿の裏庭へ向かった。
宿の建物を回り込むと、人の声は少しずつ遠ざかる。
裏庭には背の低い草が広がり、その先には一本の大きな木が枝を伸ばしていた。
朝の風が葉を揺らし、木漏れ日が柔らかな影を落としている。
魔法の練習をするには十分な広さだった。
「まず、やってみて。」
エルディオンは空き地の中央まで歩くと、振り返った。
アルノは小さく頷く。
右手を前へ差し出し、静かに魔力を集めた。
「Ignis(火)」
ぽう、と掌の上へ小さな火球が灯る。
炎は頼りなく揺れ、風もないのにふらふらと形を変えていた。
今にも消えてしまいそうな、小さな火だった。
四人の視線が、その火球へ集まる。
最初に口を開いたのはリネだった。
「弱い。」
率直な一言だった。
アルノは肩を落とす。
「見たら分かる……。」
エルディオンは火球をじっと見つめる。
白い指先へ顎を添え、少しだけ考え込んだ。
「……うん。」
「確かに弱いね。」
悪気はまったくない。
純粋な感想だった。
レグルスも火球を観察する。
眼鏡の奥の灰紫色の瞳が細められた。
「魔力は出ています。」
「ですが、維持ができていませんね。」
研究者らしく、淡々と分析する。
アルノは苦笑するしかなかった。
「つまり、弱いってことですよね。」
誰も否定しなかった。
エルディオンは空き地の中央まで歩くと、ゆっくり振り返る。
「じゃあ、まず見せるね。」
アルノは頷く。
リネとレグルスも少し離れた場所で見守っていた。
エルディオンは右手を軽く持ち上げる。
白く長い指先へ、淡い光が集まり始めた。
空気がわずかに震える。
「Ignis――」
次の瞬間だった。
轟ッ――!!
爆発するような音とともに、巨大な火柱が天へ突き上がる。
熱風が一気に吹き抜け、草が大きく波打った。
朝日に照らされた銀髪が炎の色を映し、金色にも見える。
炎は数瞬で消えた。
あとには焦げた地面だけが残る。
エルディオンは何事もなかったように振り返った。
「こんな感じ。」
アルノはしばらく火柱があった場所を見つめていた。
口を開きかける。
閉じる。
もう一度開く。
エルディオンは首を傾げた。
「どうしたの?」
「意味が分かりません!」
エルディオンは少しだけ不思議そうに瞬きをした。
「そう?」
本気で意外そうだった。
アルノは火柱の跡を見る。
「火が出たことしか分かりませんでした……。」
隣で見ていたリネが思わず吹き出す。
肩を震わせながら笑いをこらえていた。
エルディオンだけが、不思議そうな表情を浮かべている。
「そうかな。」
「僕は分かりやすく見せたつもりなんだけど。」
その一言に、レグルスは小さく息を吐いた。
眼鏡の位置を指先で整える。
「エルディオンさん。」
静かな声だった。
「おそらく、感覚で魔法を扱われていますね。」
エルディオンは少し考え、
「……そうかも。」
と素直に頷いた。
レグルスはアルノへ視線を向ける。
「アルノさん。」
「はい。」
「こちらへ。」
レグルスは近くに落ちていた細い枝を拾うと、その場へしゃがみ込んだ。
乾いた土の上へ、さらりと一本の円を描く。
「火球を、一つの塊として考えないでください。」
円の中心へ、小さく印を付けた。
「ここが中心です。」
次に外側をなぞる。
「こちらが外周。」
さらに円と円を結ぶように、一本の線を加えた。
「そして、これが接続点です。」
アルノは自然としゃがみ込み、図を覗き込む。
レグルスの枝先が、順番に印を指した。
「まず、中心で火を発生させます。」
枝がゆっくり動く。
「次に、外周で形を固定します。」
さらに一本、線を書き足す。
「最後に接続点を作り、自分の魔力と火球を安定させます。」
アルノは図を見つめたまま、小さく瞬きをした。
中心。
外周。
接続点。
三つが一本の流れとして頭の中で繋がっていく。
魔法陣を組み立てる時と同じだった。
必要な構造を考え、一つずつ意味を持たせる。
それと何も変わらない。
アルノは無意識に指先を動かした。
空中で点と点を結ぶように、線をなぞる。
「……そうか。」
思わず声が漏れる。
分かる。
今の説明は、はっきりと分かる。
レグルスは静かに頷いた。
「アルノさんは、構造を理解しながら組み立てる方が得意です。」
「感覚より、理論で考えた方が扱いやすいでしょう。」
アルノは何度も頷いた。
「はい。」
「もう一度、やってみます。」
レグルスは一歩だけ下がった。
「では、先ほどと同じように。」
アルノは頷く。
右手をゆっくり前へ差し出した。
目を閉じる。
先ほどレグルスが描いた図を思い浮かべる。
中心。
外周。
接続点。
頭の中で、一つずつ組み上げていく。
魔法陣を描く時と同じだった。
意味を持たせ。
流れを作り。
最後に繋ぐ。
「Ignis(火)」
ぽう、と掌の上へ小さな火が灯る。
赤く揺れる火球。
先ほどと大きさはほとんど変わらない。
それでも違った。
今にも消えそうだった炎は、静かに形を保っている。
風が吹いても揺らぐだけで、崩れない。
「……できた。」
アルノは目を見開いた。
驚きと嬉しさが、そのまま声に滲む。
リネも隣から火球を覗き込んだ。
「さっきより全然安定してる。」
火球をぐるりと眺め、満足そうに頷く。
「うん。」
「消えそうな感じがなくなった。」
アルノも火球を見つめたまま、小さく笑う。
ほんの少し。
本当に少しだけだった。
けれど昨日までの自分にはできなかったことだ。
その小さな変化が嬉しかった。
レグルスは静かに火球を見つめ、満足そうに頷く。
「やはり。」
「アルノさんは理論で理解する方が向いています。」
アルノは火球から目を離さず答えた。
「自分でも、そう思います。」
魔法陣を組み立てる時と同じ感覚だった。
構造が分かれば、自然と手が動く。
逆に、感覚だけと言われると何も分からない。
エルディオンは腕を組み、小さく首を傾げる。
「そういうものなのかな。」
レグルスは穏やかに答えた。
「魔法にも向き不向きがあります。」
「感覚で扱う方もいれば、構造を理解して扱う方もいます。」
「アルノさんは後者なのでしょう。」
エルディオンは少し考え込み、それから小さく笑った。
「なるほど。」
「だから僕の説明じゃ伝わらなかったんだ。」
リネが思わず吹き出す。
「あれじゃあ誰も分からない。」
エルディオンは照れたように笑いながら肩をすくめた。
「僕、人に教えるの苦手なのかも。」
レグルスは苦笑しながら頷く。
「おそらく。」
「感覚だけで扱える方ほど、教えるのは難しいと思います。」
エルディオンは「そうか」と呟き、もう一度アルノの火球へ目を向けた。
その碧眼はどこか嬉しそうだった。
「でも。」
穏やかに笑う。
「一歩前に進めたね。」
アルノは静かに頷く。
掌の火球は、小さいながらも安定した光を灯し続けていた。
昨日までの自分なら、すぐに消えていた炎だった。
まだ弱い。
胸を張って戦えるほどでもない。
それでも。
昨日の自分よりは、確かに前へ進めた。
アルノは小さく拳を握った。
後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!
更新は19時半です( ᴗ ᴗ)⁾⁾




