閉じない
こんにちは! あまはる です!
この物語を手に取っていただきありがとうございます。
――違う。
アルノ・ルーメルは、床いっぱいに描かれた巨大な魔法陣から目を離せなかった。
幾重にも重なる円。
途切れることなく伸びる導線。
精密に組み上げられた補助術式。
そのどれもが美しく、王国最高峰の魔術師たちが五年を費やしただけの完成度だった。
だからこそ、たった一本の線が気になった。
ほんのわずかに角度が違う。
他の誰かが見れば誤差にもならない。
それでもアルノには、その一本だけが全体の調和を崩しているように見えた。
無意識に指先が宙を動く。
点と点を結び、頭の中で魔力の流れをなぞる。
外周から内周へ。
内周から中心へ。
流れを変え、角度をずらし、何度組み直しても答えは変わらなかった。
「……閉じない」
思わず漏れた声は、周囲のざわめきへ溶けていく。
今日、この場所では王国の命運を懸けた儀式が行われようとしていた。
王都近郊に残る、五百年前の封印地。
五百年前、伝説の魔術師エルディオン・ルクス=アルヴァレスが邪竜を封印し、そのまま深い眠りについたと伝えられる場所だった。
あれから五百年。
魔術塔は長年の研究を重ね、新たな封印術式を完成させた。
五百年前の封印を解き、新たな魔法陣へ封印を引き継ぐ。
そして目覚めた伝説の魔術師を救い出し、邪竜を現代魔術で改めて封印する。
それが、この国家規模の儀式だった。
遺跡へ集まった魔術師は百名を超える。
誰もが成功を疑っていない。
この場で一人だけ冷や汗を流しているのは、十五歳の見習い魔術師アルノだけだった。
アルノは魔法陣が好きだった。
王都で本屋を営む家に生まれ、父が仕入れてくる専門書を何度も読み返した。
母に夕飯を呼ばれても返事だけして、本を閉じるのはいつも最後だった。
魔法陣のことになると時間を忘れる。
それは子どもの頃から変わらない。
だから今日も、誰より先に違和感へ気付いてしまった。
視線が同じ場所へ戻る。
やっぱり違う。
あの線では、魔力を受け止めきれない。
「アルノ」
名を呼ばれ、肩が小さく跳ねた。
銀縁眼鏡の男が歩いてくる。
主任魔術師、ロイド・フェルナーだった。
「何をしている?」
アルノは息を整え、床へしゃがみ込む。
一本の線を指差した。
「ここ、見てください」
「封印が解けると、魔力が全部ここへ集まります」
ロイドも隣へしゃがみ込む。
「理由は?」
「この線では受け切れません。」
「だから、ここで逆流します。」
アルノの指先は止まらない。
外周から内周へ。
内周から中心へ。
頭の中で何度線を繋ぎ直しても、同じ場所で魔力が逆流する。
「ここを少しだけ変えれば逃がせます。」
ロイドは黙ったまま魔法陣を見つめていた。
その沈黙が長く感じられる。
アルノは思わず唇を噛んだ。
「……僕の勘違いなら、それでいいんです。」
ロイドが口を開こうとした、その時だった。
「何をしている。」
低い声が青空の下へ響いた。
アルノは反射的に立ち上がった。
白髪交じりの壮年の男が、護衛と上級魔術師を従えて歩いてくる。
豪奢なローブには、魔術塔最高統制官の紋章が縫い取られていた。
ガルディア・ノルヴェン。
この再封印計画の責任者だった。
「儀式直前に、見習いが中心術式へ触れているように見えたが。」
アルノは慌てて手を引いた。
「す、すみません。触れてはいません。」
「なら何をしていた。」
喉が乾く。
周囲の視線が、一斉にこちらへ集まっているのが分かった。
「……外周第三式を、見ていました。」
「外周第三式?」
ガルディアの眉がわずかに動く。
「そこに何か問題でも?」
その一言で、場の空気が変わった。
魔術塔が五年を費やして完成させた封印術式。
王国中の魔術師が成功を信じ、この日のために準備を重ねてきた国家規模の儀式。
その中心で、ただの見習いが「問題がある」と口にしたのだ。
アルノは指先を握り込む。
さっきまで空中へ線を描いていた指が、かすかに震えていた。
「……接続が、浅いと思います。」
ざわり、と周囲が揺れた。
ガルディアの目が細くなる。
「思う?」
「はい。」
アルノは床の魔法陣を見つめたまま続ける。
「封印が解けた瞬間、中心へ流れ込む魔力が想定より大きければ、この外周第三式では受け切れません。」
一本の線を指差す。
「ここが焼けると、魔力は内周へ逆流します。」
一度言葉を切る。
「……そうなると、再封印式は閉じません。」
言ってしまった。
背中を冷たい汗が伝う。
ガルディアはすぐには答えず、隣に立つロイドへ視線を向けた。
「ロイド主任。」
「はい。」
「彼は君の班だったな。」
「補助班です。」
「君も同じ見解か。」
ロイドは一瞬だけ黙る。
その沈黙だけで、アルノは答えを悟ってしまった。
「……確認の余地は、あるかと。」
ガルディアは静かに頷いた。
「確認なら終えている。」
その声は落ち着いていた。
だからこそ、揺るがなかった。
「この術式は五年をかけて完成させた。」
「二十七名の上級魔術師が計算し、百を超える試験を重ね、王国の承認を得て今日を迎えている。」
アルノは何も言えない。
五年。
二十七名。
百を超える試験。
その積み重ねの前では、自分の言葉などあまりにも軽かった。
それでも。
視線は、あの一本の線から離れない。
「……それでも。」
声は小さかった。
けれど、止めることはできなかった。
「このままだと、閉じません。」
周囲のざわめきが一段大きくなる。
誰かが呆れたように息を吐き、誰かが苦笑する。
アルノは俯きそうになるのを堪えた。
何度見ても、答えは変わらない。
あの線では、受け止めきれない。
「アルノ。」
ロイドが静かに名を呼ぶ。
その声でようやく、自分が前へ出過ぎていることに気付いた。
「持ち場へ戻りなさい。」
「……はい。」
深く頭を下げる。
悔しいのか。
怖いのか。
自分でも分からなかった。
ただ胸の奥だけが、冷たく沈んでいく。
もっと知識があれば。
もっと立場があれば。
もっと、誰かに信じてもらえる人間だったなら。
昨日遅くまで補助術式を書き写していたせいで、指先にはまだ薄くインクの跡が残っている。
その手を強く握り締めた。
鐘が鳴る。
一度目。
重い鐘の音が魔法陣一帯へ広がり、魔術師たちが持ち場へ散っていく。
二度目。
ざわめきが消えた。
ガルディアが中央へ進み、杖を掲げる。
「これより、邪竜再封印儀式を開始する。」
三度目の鐘が鳴った。
床いっぱいに描かれた魔法陣が、淡い金色の光を放ち始める。
始まってしまった。
アルノは外周補助の位置へ立ち、震える息を吐く。
誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「……お願いだから。」
ゆっくりと目を閉じる。
「僕の勘違いであって。」
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
次回もよろしくお願いいたします!




