第零話:久遠の願い
西暦785年10月20日。
旧都:平城京には不穏な空気が流れていた。
平城京の一角にある邸宅。土地の広さは、朝廷に仕えている貴族と同等かそれ以上の規模だ。そこには様々な木造建築が立ち並んでおり、一部の建物は渡り廊下で繋いでいる。そんな邸宅を高々と築かれた築地塀で囲い込み、その東西南北の中央部には立派な門が建てられている。
そんな屋敷の門の一つ、北門に大勢の鉄や革で作られた甲を着た男たちがやってきた。男たちの手には大刀や弓を持って門の前で固まっている。その数…およそ数百。
東西南北4つの門全てに数百の男たちがいる。まるで、中にいる人たちを逃がさないように。
北の門に固まっている男たちを見つめる一人の男。他の者の同じように胴丸を着ているが、その頭には紅色の冑を被っていた。
その男の元に、一人の男がやってきた。彼もまた他の大勢の男同様、革製の甲を着ている。
「準備が整いました。いつでも行けます。」
やってきた男は冑の男に言った。
「そうか…。」
そう言うと兜の男は、右手を前に出した。
「始めるぞ。南門から順次攻め入れ。一人も逃がすなよ。」
◇◇◇
その日は、雲一つないきれいな空だった。
朝日がまだ完全に昇っておらず、空の一部がまだ黒い状態だ。
そんな時間なのに、不思議と僕は目覚めてしまった。
隣で兄さまはまだ眠っている。布団から飛び出して、崩れた大の字のような状態になっている。
僕は布団から出て、父上と母上のいる場所へ向かった。
空の僅かな光が廊下を照らしている。
少し歩くと、父上と母上のいる部屋に着いた。簾越しから父上と母上の様子を見てみる。
まず目に入ってきたのは母上だ。母上はまだ布団の中でぐっすり寝ている。
僕はその隣にある布団に目を向ける。普段ならそこで父上が眠っているはずだ。
だが、そこに父上の姿はなかった。
僕はゆっくりとその場を後にし、入り口へ向かった。
寝ている兄さまを横目に進んでいき、入り口へたどり着く。
浅沓を履き、外へ出てみる。
少し冷たい空気の中、父上を見つけるために庭中を歩いてみる。
庭には僕以外誰もいない。当然だ。まだ日が完全に昇っていないのだから。
「父上~、父上~。」
試しに読んでみたが返事がない。家にいるときは僕が読んだらすぐに来てくれるのに。
父上に何かあったのだろうか。そんな不安がよぎる。
「まさかなぁ。」
大丈夫だ。父上には″最強の能力,,がある。きっと身の危険を感じたらすぐに逃げるはずだ。
堀の外がやけに騒がしい。まだ日は完全には昇っていないはずなのに。
そんなことを思っていた時だった。
南門の方角からわずかな煙の臭いがした。
嫌な予感がしたので、南門へ向かう。煙の臭いが強くなっていく。肌寒く感じた空気も、灰色に変色した熱い空気に変わっていく。
目にはわずかな煙が見え、耳からは馬の鳴き声が入ってくる。僕は厩の方へ向かった。厩は南門の近くにあるため、煙の臭いの原因は馬小屋とみて間違いなさそうだ。
南門の近くにある厩が燃えているのが目に入った。厩からそこに住んでいる2頭の馬の叫び声が聞こえてくる。
「どうして…。」
僕はその場で立ち尽くした。もうすでに炎は厩を包んでおり、馬たちを助けることはできない。
「いたぞ!」
厩の向こうから声が聞こえた。
声の方を見てみると炎越しに鎧を着た男たちがいる。
「助け…。」
男たちは炎を避けながらこっちに向かってくる。
その手には大刀を携え、まるで得物を見つけたかのような目つきをしながら。
炎の向こうでは、弓を持った男が僕の方を見ている。弓を引き、矢を僕の方へ向けた時、僕は察した。
(殺される!)
弓の男が矢を引いた。
その矢は僕の頭上を掠め、後ろの地面に突き刺さった。
僕は尻を地面につけた。あと少し背が高ければ、自分は…。
外したのを見るや、弓を持った男は次の矢をつがえている。
僕は震える足を叩きながらなんとか立ち上がり、全力でその場から逃げ出した。
あちこちから炎が上がり、叫び声が聞こえてくる。
あちこちから矢が飛んでくる。自分の目の前や足元を通過したときは冷や汗が止まらない。
父上や母上を探したい。だが、大声で呼べば間違いなくそれ以外の人が来る。
今はとにかく、兄さまや母上に会いたい。
父上は無理だったとしても、母上や兄さまの顔が見れないのは嫌だ。
兄さまのいる場所までもう少し。そう思った時だった。
「見つけたぞ!殺せ!」
左から野太い声が聞こえた。
声の方を見てみると、刀身が赤黒く染まった刀を持った屈強な男がいた。
「小僧、そこでおとなしくしてろ。」
屈強な男は大刀を両手で持ち、こっちに向かってくる。
僕はまた、恐怖のあまり尻を地面についてしまった。
尻を身体で押しながら、少しでも男から距離をとる。
自分はここで死ぬのか。そう思った時だった。
「逃げるぞ!」
後ろから聞き馴染んだ声がした。振り返ると兄さまが右手を差し伸べていた。
兄さまは差し伸べている右手を握って立ち上がり、その場から一緒に逃げる。
「逃がすな!弓兵、早よ来い!」
後ろで男が叫んでいる。弓兵が来る前にこの場から立ち去らねば。
「覚えてるか?一緒に木登りしたあの木を。」
兄さまに目を向ける。
「兄さま!」
兄さまの左肩には矢が突き刺さっていた。左肩部分が赤黒く染まっている。
「大丈夫だ。この程度何ともない。それより覚えているか?」
「は…はい!」
「そこへ行くぞ!」
僕は兄さまの手を強く握りしめた。
その木は僕や兄さまが物心つく前からあった。父曰く、この地に引っ越してきたばかりの時にご先祖様が植えたものらしい。
北西の角に植えられているその木は、まるでその木を登って塀を乗り越えろと言わんばかりの生え方をしていた。
僕と兄さまはよくその木に登って遊んでいた。
「あったぞ!」
幸いなことにその木は焼けていなかった。
木までたどり着くと、兄さまは木の傍に堀にもたれて、矢が刺さっている左肩を抑えながら言った。
「お前が先に登れ…。」
「でも…兄さま…。」
「いいか、よく聞け。…母上は死んだ。」
兄さまは重々しく言った。
「母上だけじゃない。この家に住んでいる人みんなが殺された。」
「そんな…どうして。」
「俺は何とか逃げ出したが、このありさまだ。だから…最後に守らせてくれ。」
「嫌だよ…。兄さまも一緒に逃げよ!」
「俺は登れそうにない。ごめんな。」
「兄さま…。」
「…ちょっとこっちに来てくれ。」
兄さまは微笑みながら言った。
僕は兄さまの傍へ行く。兄さまは僕の頭を右手で優しく覆った。
「最愛の弟に…俺の願いを託す。俺の代わりに…俺たちを襲うよう仕向けたやつを殺してくれ!」
兄さまの声は、優しさと怒りが混ざったものだった。
「…はい!」
僕は兄さまを強く抱きしめた。
「おっと、まだいたか。」
向こうの建物から声が聞こえた。
声の方へ目を向ける。炎が立ち上る家を背景に1人の鉄の甲を着た細身の男がこっちの方を見ている。
「ガキ斬るのは嫌なんだけどよぉ。」
細身の男は懐に携えている大刀を抜いた。
「大君の命だ。悪く思うな。」
「はよ登れ!俺が食い止める!」
「兄さま!」
兄さまはその男の方へ向かって行った。
僕は塀を超えるため、その木のでっぱり部分を握った。
木の僅かなでっぱりを握り足をかけながら慎重かつできるだけはやく登っていく。
兄さまの命を無駄にしないために。
「邪魔だ!」
男の叫び声と同時に、水が噴き出るような音がした。
僕は振り返らず、木を登る。
目がうるんで前がよく見えない。それでも…。
「さっさと死にやがれ!」
兄さま…兄さま…!
ようやく枝を握ることができた。あともう少し。
もう片方の手で枝を握ろうとした瞬間だった。
握ろうとした右手の甲に短刀が突き刺さった。
全身が僅かに硬直し、せっかくかけていた足が抜けてしまった。
枝を握っていた左手が外れ、地面へ尻から落ちてしまった。
尻から全身に痛みが走る。僕は尻を左手でさすりながら右手を見た。
手のひらから刃の部分が飛び出している。血が絶え間なく溢れ、右手の感覚が薄れていく。
「頭を狙ったつもりだったんだがな。まぁいい、当たってくれるだけで上等。」
声の方へ視線を向ける。
細身の男が大刀の先端から血を垂らしながらこっちへやってくる。
その背後では、血だまりの上で倒れている兄さまの姿があった。
「兄さま!」
「いい兄貴を持ったな。一緒に来世で幸せになれよ。」
男は大刀を大きく振り上げた。
僕は目を閉じ、身をかがめた。
ごめんなさい兄さま。兄さまの願い、叶えられそうにないや。
ドンッ!!
聞いたことのない音がした。
その後、足元から鉄が何かとぶつかる音が聞こえた。
僕は恐る恐る目を開ける。そこには、目の前で倒れ込んでいるあの男の姿があった。男の胸には銭ほどの穴が開いており、その周りが赤く染まっている。
「何だ…これ…。」
男はそう言うと、動かなくなった。
「兄さま!」
兄さまの方へ視線を向けた。
炎は庭に植えてある草木を伝って、兄さまを包んでいる。
わずかに見えた兄さまの顔は微笑んでいた。
僕は声を押し殺しながら、下を向いた。目からしずくが絶え間なく垂れていった。
あれから少し経ったが、誰もやってこない。
木にもたれ、炎をただただ見つめていた。
右手の感覚はほとんどない。視界もぼやけ始めている。
死ぬならいっそ、楽に死にたい。そう思えてきた。
塀の向こうでは無数の足音が聞こえてくる。幸か不幸か、その足音はどんどん小さくなっていく。
兄さま、母上、父上。今行きます。
そう思った瞬間、右足が突如輝き始めた。その輝きは徐々に右足を侵食していき、やがて右足全てを覆った。
「何だよ…これ。」
僕は思わず右足を地面から持ち上げた。その輝きは様々な色を纏っており、目を細めて見るのがやっとなほどだった。
右足へ力が入らなくなり、地面に落とす。すると、その光はまた侵食をはじめた。
「待って!」
僕は思わず目を閉じた。だが、目を閉じていてもその眩しさが伝わってくる。
僕はその状況が理解することが出来ず、何もすることができなかった。




