うつむく日々
今日わたしは午前中はずっと眠っていたし、おひるごはんも独りで食べた。それからはいつものように漫画をゆっくりと時間をかけて読んだ。
『縁側ごはん』というタイトルのその漫画の主人公を見ていて、こういう男のひととして人生を過ごしていけるのならどんなにか、という思いでわたしはいっぱいになり結構な時間考え込んでしまって、だから今日もとても良い日だ。
わたしが赤毛のアンをちゃんと嫌いになってもいいのだと知っているのは、『P.A.』を読んだから。
高校の時、うつむきっぱなしのわたしが教室でよく読んでいた漫画は『ハチミツとクローバー』、『鋼の錬金術師』、ひと昔前のそれをどこで見つけたのかが自分でも思い出せないが『眠兎』、ひぐちアサやオノ・ナツメ。今思い返すと恥ずかしい。
父親といえば『キャプテン翼』、それに叔母もコミックスの新刊を購入すると遊びにくるついでにいつも決まって持ってきてくれ、中でもわたしがいつも新刊を楽しみにしていたのは『ぴくぴく仙太郎』。
母といえば少女漫画。作家でいえば赤石路代、一条ゆかり。
母のカラーボックスの前で座りこんだ小さなわたしがよく読み返していたのは『アスターリスク』と『蒼の封印』と呪術師カイシリーズ。
今でも、夏休みの最終日、自分でも何の涙か分からぬままに、涙を流す子どもたちはまだ存在するだろうか。
その涙を肯定するような漫画を描いた、冬野さほ、松本大洋、藤野もやむのようなひとたち。
彼らのようなひとたちが、少年少女の涙のそばには、今いてくれているだろうか。
夏休み最終日のまよなかの、かつてのわたしの涙のそばには一切いなかった。だから今、松本大洋の漫画のようなものを読んでいて、あれほど共振するんだろうと思うと、孤独な子どもであったことも、そう悪くない気がしている自分がいるのはたしかなのだけれど。
中学校は三年生の夏の時に転校したせいで、わたしは二つ行っている。一つの市立中学では誰もが読んでいるような漫画でも、別の中学校では本当にまったく流行っていなかったりする。
わたしが『ヒカルの碁』を揃えているのを知って同じクラスのある男子は不思議なものでも見たような顔をした。
それで十三巻まで単行本を彼に貸し、するとその男の子は高校に行ったら囲碁部に入るとわたしにいってきた。今思い返すと恥ずかしい。
母方の実家に遊びに行くと、四人もいる伯父が残しておいている物の中にむろん漫画の単行本があったから、何か潜んでいる洞窟内と変わりないように思えた押し入れに上半身を入れて急いで探し出してきては、わたしはどんどん漫画を読んでいった。
飛びとびの『美味しんぼ』、あだち充の有名どころではないやつ、それから未知すぎてくらくらするくらいだった『たとえばこんなラヴ・ソング』。
高校に行っていた頃、いっとき母の彼氏のマンションで寝泊まりしていた時期があった。
もっともそこは、母と男性の関係が一年ももたなかったために、わたしたちは結局、市営住宅の狭い部屋に収まることになったのだけれど、そこのことは記憶に残っている。
そこにも漫画があって本棚にずらり並んでいた、あの背表紙たち、あのリビングのずしりと頑丈で動かない本棚をわたしは覚えている。
わたしは高校からまっすぐそこに帰ってきた、妹たちがクラブ活動などでおらず、マンションの部屋に独りでいる時間をつくろうとして。
まず吉田戦車、それから繰返し読んだものとしては『ピアノの森』。
山下和美の既刊もそこには全部あった。
まだ両親が離婚の気配を漂わせていなかった頃、漫画週刊誌をみんなで回して読んでいた。
みんなテレビ部屋に集まって、テレビ番組をみるともなくみながら何かしらやっていた。
母親といちばん上のわたしは漫画を読んだ。妹たちはそれぞれ何かもっと動きのあることをやって遊んでいた。
我が家では少年誌は『少年マガジン』、青年誌は『ヤングジャンプ』だった。
もっともその頃はとにかく『少年ジャンプ』が凄まじく、二年間わたしのいた中学校では男女共に何かしらは読んで知っていないとまずいというような雰囲気さえあったくらいなのだが、当時、真島ヒロの初めての長期連載作品を、世界いち面白いと感じていたわたしはずれた子どもだったと思う。
母とわたしは、竹田エリの漫画を毎週楽しみにしていたが、父が何を毎週楽しみにしていたのかわたしは知らなかった。
父が一番好きな連載は『華麗なる食卓』なんじゃないかとは思っていたものの、声に出して訊ねることはしなかった。まだ両親が離婚の気配を漂わせていなかった頃、わたしは、父は、母のことが一番大事なんだと本気でそう思っていた。
大学に入って、写真を撮っている男の子と何人か知り合った。
撮った男の子の顔は忘れても、見せられて忘れられない一枚がある。ティーシャツ姿の十代後半の女の子、『変身のニュース』という漫画のカバーを本体からとって床に広げている前で彼女の顔が近い。
むき出しの二つの腕が重なっている。
彼女の目はカメラを見ておらず、漫画のある方も見ておらず、明るく生活感があるけれどアルバムのジャケット写真のように何が起きているのか分からない。
男の子連中にレズだと思われていたわたしなので、それを欲しがったら誤解を生みそうなので欲しいといい出せなかったのに違いないのだが、今でもあの彼女の写真が手元にないことをわたしは残念に思うことがある。
ある日とうとう書店をめぐって、小口が灼けている『変身のニュース』を見つけ、うちに連れ帰った。手離せない一冊というのはいつもこういうふうにしてできる。
両親の部屋にある本棚に一杯に詰め込まれた単行本をずっと離れて眺めていた自分の姿を覚えている。それから意を決し、母におずおずとお伺いをたてている姿。それから、本箱の前で独りで座って、一冊いっさつ手にとりながら表紙やらカバー裏やらを眺め回している姿。
バイト先での休憩室でも、独りで漫画を読んでいた。初めての受験を控えた中学三年の冬期講習でも『BLEACH』の単行本をコンビニで買ってきて、昼休みに読んでいた。
こういう姿は、誰とも喋らない代わりになると思っているように見えるだろうし、ここから出ていくことばかり考えているように見えただろう。
でもわたしは知っていた、だれでも知っていることをわたしは知っていた、ここにいるための努力を怠りはしても。わたしはここにいる、ただ、大部分をうつむく日々にしてしまう。
最初は影すらなかった。でもじょじょに、じょじょにできてきた影もあった。
いつも雨の匂いの漂う、いつからかそれが当然のようになった狭くて立っているだけで苦しくなる玄関。たんに靴を脱いだだけ、着替えもしない、それで買ってきたばかりの山中ヒコの漫画をそこで、玄関マットに腰を下ろして読んで少し泣いて、そのままうたた寝を始めるかのようにうつ伏せになるわたしも、いまだにいる。
もう前ほどはうつむくことも少なくなったが、たとえば崖っぷちにいるような状態に追い込まれて、それでもだれに連絡するわけでもないわたしがとる行動は『プニちゃん』を読むことだったりする。
読み終わると顔を両手でごしごしと擦り、それから、黙ってそこから立ち去った。
わたしとしては思っていたいのだ。
うつむく日々にしたい、うつむく日々にしたくない。
そしてわたしとしては、それは交互にやって来るものだと思っていたい。
それは交互にやって来る、ちゃんと交互にやって来て、わたしはその度揺れ動く。
わたしはページに指を挟んで立ち上がる。誰か来た。また最初のところから、その時の自分の選べるやり方で、読み直せばいい。




