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財布






 むかしよそ者の少年がいて、町にくる前日に彼は財布を拾ったということだった。

 それが落ちていたのは、どこでもない場所だった。

 その場所がどこだったか、彼じしんも二度と思い出すことはできなかった。のちのち彼はそれで苦しい思いをする羽目になる。


 微かに記憶に残っていることといったら、その頃の自分が惨めったらしい格好をして過ごしていたこと、無力で、少なくとも彼の理想には遠く及ばないほど力がなくて、そして、独りで暮らしていたこと。


 理想を描きはしても心のどこかではすでに諦めて暮らしていたこと、町まで走ってきた時しゃにむに走ったこと、自分の鼓動や呼吸音が耳にうるさく邪魔だと思ったこと。

 そして素足だった足の裏にあらゆる種類の痛みがはりついていて数日とれなかったこと、それで全てだ。


 少年は拾った財布をあけることで、今までずっと自分のいたところがどれだけ暗く、惨めな場所だったかを知った。

 それは長いトンネルだった。

 本来なら、そばにいるだれかが手をひいて、小さな男の子ならたとえどんなふうに日々を過ごしている男の子にしろ、出口まで付き添っていってやらなければならないような、それはそういう場所だった。

 財布を拾って、彼が知ったのは、光だった。

 光は暗闇を切り裂いた。









 彼の不自由な少年時代を、財布が終わらせた。

 夜がくるたび、財布の男の子は知識を増やし、外を散歩する楽しみを手に入れ、灯りを避けて歩くような癖も抜けた。


 ある晩少年は、小さな隠れ家の小さなランプのもと、自分に手足がある不思議、ぼんやりとしびれるような感動を覚えた。

 もっとも、その財布の中にも、もちろん孤独というものは入っていたけれど。





 財布は彼をどこへでも連れていってくれた。見事に、二段飛ばしに魅力的な少年へと彼は変わっていった。

 彼はいつも目立たない服装だったけれど、足元をよく見れば高級品のブーツだったり鳥にやるためのパンをいつもどこかに持っていたりした。

 毎日のように町のおとなたちは彼に迫った。

「その財布を見せてみろ」

 結局、この町でも彼は、はじめから出来ている地図を買って見るような者ではなかった。自分で地図を作る側の者だった。





「何を喰えばあんなにぶくぶく肥えた財布になるんだ?」

 酒場で男たちは、別段財布を取り上げてやろうとかあの少年を追い出してやろうとかいった考えがあるわけではないのだが、それでも財布の話題になると声を潜めて話をした。


 何といっても、財布の少年によって、何十という数のおとなが、しぶしぶながらも一人の浮浪児に食料品や明らかに少年に合わせた靴を作ったりしてやっているのである。同じ時、当の財布の少年の関心は、しかしまったく別の方を向いていた。


 彼は、隠れ家がこもりきりになる数日を経たあとで、自分の驚くべき心とともに、町の中心部に姿を現した。

 彼は調べ始めた。





 おもてがまだ明るいうちから外を歩くようになった財布の男の子の姿を、町の子どもたちは興味津々、母親の手で背中を押されたり、汗ばんだ不快な手で手をつかまれたり、怒鳴られたりしながらも目にした。


 男の子の姿を目撃した次の日は学校の友達たちと噂話に花をさかせた。


 くしゃくしゃな金髪の、自分たちが見下してもいい、それを多くの母親が奨励してもいる、けれど子どもたちの目からは決定的に何かが自分たちと異なっているとしか思えない男の子。


 子どもたちの中でも意見はさまざまだったけれど、奇妙なことに、多くの少年たちは彼のことをあまり悪くいうことはなく、少女たちのほうが、財布の男の子にかんしてはきついことをいう子が多く見られた。


 不自由なおとなと違い、むろん子どもたちは財布を見る見方が全く違った。

 財布を拾った男の子は、見たところ、十二、三といったところ。

 髪はベビーブロンドで、瞳の色ははっきりとはしないが、遠目にもものすごく華奢な少年で、おとなたちからいわれているような脅威なんて、子どもたちの中で感じている者はいなかった。









 世にもきれいな浮浪児が町に居着くようになって数か月、その彼が頭を抱えているところに遭遇した、とひとりの男の子がいい出した。

「それで声、かけてみたんだけど」

 まじかよ。

 少年の周りには、年上の子も年下の子も、大人数がいっぺんに集まってきていた。


 詳細を話しながら彼は、小突かれたり、チョコレートをひとかけ渡されたり。

「あいつ、こまってたよ。人をさがしてるといってた」

「うっそだあ」

「そりゃオヤだろ?」

「おまえあいつにあそばれてるんだよ。あいつは一人でいるのがすきな人間なんだ」


 お調子者で、つい財布の男の子に話しかけてしまったこの男の子は、どうしてここまで周囲の反感を買ったのかが分からないでいた。


 分かっていたのは、男の子たちが学校に持ちこんだチョコレートを見るまいと、何とも思っていない顔をしていようと努力している男の子だけ。


 この小柄な男の子は体格に見合わない、明晰な声でいつもだれかに話しかける子だった。

 声だけなら、リーダー格の男の子が話しているふうに聞こえる。

 しかし声だけが良くても小柄だった場合には、同級生たちの前で耳を傾ける価値のあることを彼が話していても、ちびが何いってんだと、意見は無視される。

 それにたとえ頭が良くて話し方も優しくても、上級生にもなって身なりに気をつかうことができないほど貧しい家の子だった場合には、男子たちからは無視される。

 それにたとえ瞬時にみんなが欲しがっていることを正確に語って聞かせ、答えを示すことができるとしても、小さな頃から家の仕事ばかりして、せっかく遊びに誘ってやっても絶対にうんといわずに帰るような男の子で、男の子のほうからは距離を縮めたいという努力もそれまで絶対に見せていなかった場合には、男子たちからは無視される。


「ちょっとみんな黙れよ。話の続きを聞こう」

 貧乏な家の男の子がそういった途端に、みんな静かになった。

 嫌われ者の男の子がそういったのをしおに、少年たちは立ち去っていき、お調子者の男の子はため息をつくと座りこんだ。





 だれかの助けが要るんだといっていた、と普段はお調子者の男の子はひとりごとのようにいった。

「財布から写真をだして、オレにみせたんだ」

「どんな写真」

「たぶん父親と、その子の写真だったよ。それが」

「それが何だい?」

 よくわからない、とお調子者の男の子はいった。


 けれど、貧乏な家の男の子はこの話にちゃんと関心を持っていた。

 加えて相手の男の子が、彼じしんが財布の何がこんなに気にかかっているか分からず混乱ぎみなのもちゃんと見抜いていた。

 学校のあと、もう一度最初から順を追って話を聞いた。





 貧乏なうちの男の子は、絵を描くのがうまい弟にも写真を見てもらい、破ってかっぱらってきた張り紙のうらに似顔絵を描いてもらった。


 それを学校の子たちのあいだで回るように少年たちは仕向けたけれど、やはり成果はなし。

 と思っていたところへ、級長の女の子から、おんぼろアパートに手紙がきた。


 少年と違い、彼女の家は一代で成り上がったことで町でも有名で、子どもの彼女でも、頼めば連絡係くらいのことをしてくれるおとなたちは大勢いたのである。財布の男の子と同じように。





 級長の女の子は、近ごろ複数の男子が財布の少年と親しげに接するようになったのを、周囲の女子のように問題視して、手紙を書いたのではなかった。

 当然、他の女子の前では男子たちのいうことなすこと全て問題行動だと見ているふうに装うしかなかったし、貧しいうちの男の子への手紙の中でも態度としてはそのように装うしかなかった。けれど、彼女の関心は別な方向を向いていた。それで彼女はパン屋や配達人に頼んで、利発ではあるが貧しくてちびの男の子とだけ、何度か秘密のやり取りをした。


「つまり彼は」

 彼女はある日の手紙のなかで、相手の男の子に訊ねた。つまり彼は今現在、財布を落としたその人の家がどうなっているのか、それを気にしているということね?









 写真には、二人の人物が写っていた。そうある日の秘密の手紙の中で、男の子は相手の少女に説明をした。

「とてつもない童顔だが父親らしき男と、金髪の幼い子ども。子どものほうは、あの財布のやつと似て見えなくもないよ。まぁこれにかんしては僕らのあいだでもいくつかの憶測が飛び交っている。それはそれとして、僕らは財布に協力することにして、動きまわってる。これは、君の想像どおりの状況なんだと思うけど?」


 そうね、と彼女は書いた。

 で、あなたならどうして私がここまでこの件について気にかけているのか、というのは想像がついている(ここまでの文を級長は倍化させた字で書いていた)と思う。なぜ、あなたたちは彼に協力するのか、ということなのよ私がいいたかったのは。





 分からないと書きたいけどでも、と男の子は次の手紙で書いた。

「でも君は僕が相手だとどうしても、分かったようなことを書くんだろうな」

 貧しい家の、ちびの、友人ひとりいないわりには生意気な、上から目線な、でもおとなが見るように物事を見ている男の子が送ってきたこの手紙で、彼女はとうとう彼女じしんでも考えていた案を持ちかけられた。


 君はいちど財布と対面してみるべきだよ。君は一人で来て、財布と話をする。僕とやるみたいに、回りくどいのはなしで。





 指定されたのは町外れにある川の近くの床屋だった。


 級長の女の子は貧乏人の男の子のことも引きずって歩いた。

「なんで僕まで。一人で会えっていっただろ」

「えぇ女の子は私一人。男の子は勘定には入らない」

「君ってそういう奴だよな。とうやそこらの男子なんか、人間のうちに入らないっていうんだろ。馬と兎の数え方が違うくらいには違う、みたいな感覚を持っているんじゃない?」

「失礼なこといわないで」

「それだって動物たちに失礼だって意味なんだろうな」

「私たちって少し、部分的には、似ているところもないことはないのよね。ぜんぜん嬉しくないけど。入るわよ。あ」

 あ、王子様。


 扉を開け、歩を止めた少年少女が見つめる中で、素足の両の足を揺らしていた少年が椅子の上からわざわざ彼らのほうを振り返った。

 口のまわりには、べっとりと白い生クリーム。

 背後に立つ床屋の中年男は、それを拭うか拭うまいかと思案しているかのように、困り顔で鏡と向き合っていた。





 彼女は今初めて財布の男の子と同じ室内にいた。これが財布の男の子を見た最初だった。

 男の子は右手にケーキの残骸を持ったまま、反対の左手には彼らの知らない、桂冠詩人が書いた本を持っていた。


「財布はもうだいぶ痩せてしまった?」

 彼女はそう切り出した。

「あぁ」

 財布は目の高さまでケーキの残骸を持ち上げた。

「この町にいられなくなるのも、もしかして遠くなかったり」

「おまえが気にすることじゃねぇよ?」

 財布の声は想像どおりによく通り、そして想像よりも甘かった。


「私の家は嫌われ者の一家なの。お金も土地も、人の話す声も食器だって余るほどある家だけど、確かなものが何もない。私は毎晩、何もかも不確かすぎて、考えてばかりで、眠れなくて、手をのばしたいの」

「へぇ。オレもそうだぜ」

 ぬっと手を、握手のための手を差し出された。

 財布の目の色は怖いほどの青だった。

 財布と彼女は握手をし、彼女の手は白く汚れた。

 彼女は自分でも気づかないまま、笑い顔になっていた。





 明くる日、彼女は財布と通じている町の少年たちとも手紙を通じ接触するようになった。おそらく、頻繁に町の外の情報を持ち帰るような真似ができるのは、今現在この町では彼女くらいだった。

 相変わらず、貧乏の家の子とも情報は共有していた。

 つるんで何かやっていただけなのだと、貧しい家の彼と金持ちの家の彼女は、男の子たちについてはすっかり見抜いていた。

 自分たちだって大差はない。結局、財布が自分たちをどう評価してくれるのかと、そればかりとまではいわないが、心のどこかでは気にしている。





 級長の女の子は、財布と会っても、訊ねてみたかったことを結局訊かないままだった。

 写真の父子を探し当てて、それからのこと。あいつはどうするつもりなんだろう。他人に恩を感じて動いているのだとは考えてにくい。

 やはり、あの財布には、あいつしか知らない、写真やメモ以上に大事なものが中に入っていた?





 財布に入っていた傷だらけの写真からは、父から子への、暖かいものが感じられた。それにメモからは、写真に写った若く、自分たちから見ても頼りなさげな父親の、しかし大きな愛情が感じられた。子どもへのプレゼント候補なのだろう、まるで世界じゅうにある全ての物を思い出そうとするようなリスト、紙いっぱいに若い父親の字で埋め尽くされていた。クエッションとバッテン、クエッションとバッテン。それなのにマルは一つもない。





 彼女は浪費家の母親の買い物に急にもの凄く付き合いが良くなった。

 噂話を仕入れてきては、他のあらゆる町まで母親が脚をのばすように仕向けるのである。

 そうして行く先々で、それまで使い道がなかったためにため込んでいた小遣いをはたいて、写真の親子について人々に聞いて回るようにした。

 早く片付けてしまわなければ、財布が痩せてしまう。

 彼女は先伸ばしにしたいと思っている。





 貧乏な家の男の子にとっては、今や級長の熱心さのほうが不思議に思える。

 おそらく、彼女は先伸ばしにしたいと思っている。

 具体的には何をといわれると、それは彼にだって分からなかったけれど。


 このごろ、少年少女は暴走状態だった。級長の女の子の案により、財布はある町の学校に潜入さえする。

 話を聞いてまわるなら昼間の学校にいる時が一番、というそれだけの理由で。


 級長と財布は波長が合うらしい。ただの貧乏少年から見れば、川の水でも使うように金を使い続ける二人にあきれ果てていた。

 もちろん、財布が一日だけという条件付きではあったものの、学校関係者を何人か買収して潜入したことは後から聞いたことだったので、止めようもなかったのだけれど。





 子どもたちは自分たちの町よりも花がたくさん咲く町があることを知っている。風のたよりでは涙が下に落ちることがなくなった町もあり、子どもたちは夜な夜な旅にでることを空想する。

 級長や貧しい男の子が学校にいっているあいだ、財布の男の子はその涙が落ちなくなった町に行った。

 彼女の家よりもチェックの甘い、彼の家のほうに手紙が送られてきたのだった。





 秘密の場所で、手紙を回し読みして、その字のきたなさをみんなして笑った。

 級長の女の子が姿を見せると、男の子たちは驚き、黙ったが、貧乏な家の男の子から手渡された手紙を読む顔があんまり可笑しそうだったので、少しほどけた。


 ここにいる誰もが少し羨ましかった。不安でもあった。

 財布は外見こそ子どもで、しかも可愛いらしい男の子だったが、間違いなく悪い人間で、でもそれも好きになる理由になりえる。

 財布の経験豊富なところ。顔立ちが整っているところ。

 おとなたちに嫌われているところもそうだ。

 間違いなく孤独で、歌が下手くそで、自分のほうが話をたくさん持っているのに学校の話を聞きたがるところ。

 手紙の字が汚いところもそうだ。


「涙が、上にいくりゆうは不めい。上にいくようになった涙が、うまれたときから少年にははらだたしい。

 ただ、少年はつかまえようとする。

 オレも、つかまえようって、彼にきょうりょくすることにした。




 町のうえには、何かがなん年も前から、いついているんだってさ。

 かさをてばさない人々がぞうかのいっと。


 えっ何それ、かんけいなくない? こうオレがいったら、町のおっさんおばさんは、ウピャアグハミィミィミィミィ。

 だけど、ちいさな連中は、まったくそのとおりだってオレにいった。

 バカみたいにみえるんで、はずかしいんだ。




 むかし、まだ涙が、目の下にきちんとおちていたころは、涙はきちんと汚れた。

 むかし、涙は、きちんと踏みにじられた。

 涙は、まるでむだなもののようにながれおち、跡ものこさず、涙をながしすぎるこどもは、それゆえにジャマっけだった。


 涙はきれいなものだと、その少年はオレにいったよ。

 涙が、いどうしようとしている、って。

 涙がにげたがっている。


 で、真下に明日がある。

 つまんない町だぜ。だけど、だれかと出会えるのは楽しい。

 もどったら、 おまえらのあつめた、いつものオレがしらない話を、きかせてほしい。

 あと財布は大じょうぶだぜ。

 あのさ、お前らさ、オレのことをしんぱいしてくれ。いっつもいっつも、財布のことばっか、さいしょにきいてくるだろ。あれ、オレきずつく。

 財布より。」









 多くの女性たちが自分の子どもに、これも教育だと、一人の少年の身に起きたことをつまびらかにした。

 だが、少年たちはまるで予期していたかのように、おとなしく話を聞いていた。

 財布の男の子が、男たちによって薬物を射たれ、二日ものあいだ姦りものにされ、左のほうの眼球は見つかっておらず、縛られた痕やむち打ちの痕や、あらゆる暴力をたった一人で受けて死んだ、その最期を知っても、ほとんどの子どもが、驚きもせず、あまり質問もせず、ただじっと話を、起こったことを正しく認識しようと努めるひとの姿勢で聞いていた。


「財布は?」

 男の子ばかりでなく女の子たちも、小さな子も、揃いに揃ってそのことを気にした。

 ねぇ、あの男の子の持ってた財布は、どうなったの?


 女たちは今回にかぎっては子どもたちに痛みを植えつけることに迷いがない、たまさか財布を拾ったからといって、生まれた家から遠いところまで子どもが逃げることなどあってはいけないことだからだ。

「連中に奪われれて、すっかり空になっていたそうよ。そうならないはずがないでしょう?」





 財布の男の子のための余白部分はたっぷりすぎるほどに彼らにはあり、そして少年たちは夢で財布に何度も会った。

 雨の日は奇妙な感じに襲われた。

 家族より真っ先に、何か良くないことが起きてやしないかと、だれかのことを思い、心が軋む。

 いつか、自分の心が一体なにを想っているのか思い出せない戸惑いを、彼らは知るだろう。





 級長の女の子は雨を見ることすら耐えがたい。ピアノも触りたくないし、本は彼を思い出してしまってだめだ。

 彼女はケーキの匂いで満たされた夢をみる。

 それから朝に目を覚まし、ケーキの焼き方を調べることに決めた。自分で焼いたケーキはけっして他のだれにも触らせない。だれにも見せないで自分だけのものにするのだ。

 そして彼女はその通りにした。





 今も貧乏暮らしを続けている、だれかさんのように運よく辛い生活から抜け出せることなんてありえないと、ごく現実的な考えを持っている男の子もまた、財布について、覚えていたいと思うことを、ひとつ持っている。


 傘についていたキスマークを、春の手でぬぐいさってくれたこと。

 勝手に彼の父親が、どこかの女に貸して返ってくるたび、彼の持ち物は汚され、傷ついた。少年の家がある辺りでは、物を使うたびに綺麗にできるような彼のやり方はとても異質だった。気味が悪いとさえいわれることがある。だが父親はよく、断りもせず彼の物を持ち出した。その時は傘で、そして、キスマークがくっついて返ってきた。

 無意味なキスマークのくせに、でかさだけは立派だった。

 その朝は、傘についたキスマークが消せず、仕方なくその日もまた笑い者になるのを覚悟して登校した。

 うつむいて歩いていると、早速きた。ボンボンっと傘をだれかが押した。


 でも、それは財布だった。

 財布は素手で、キスマークをどこかに追いやってくれた。


 驚きのあまり、貧乏なうちの男の子は礼をいう時、きちんと心からそういうことができなかった。心からの感謝を伝えるような顔をできなかった。









 でも今は、それらのことも含めて、そこは財布のための場所だった。

 忘れたいといつか思うようになったとしても忘れられない、それはそういう場所だった。

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