私はなごやんが、なごやんは私が
なごやんは将来の見込みがまるでない甥みたいな匂いがする。目を離すとなぜか、必ず誰かに押し潰されているので昼も夜も見守っていてやる必要がある。そして、見守るほどの価値は無論ない。
なごやんは個包装されていて、便利と思い、セット売りの箱から一つ取り出して鞄の中に入れると、しかし後で捨てる羽目になりがちだ。それも三日後くらい後にだ。
なぜか、なごやんは部屋にあっても存在主張を異常にしない。
一口目で、必ず止まる。
とっくにこの銘菓のチープさはしみじみ伝わっていた。
放り投げるほどのものではないが、二口目に行くのもためらわれる。
だから、手のなかのなごやんをじっと見下ろしている人がいても、そういうことでは絶対にない。
ひとまず、お茶が飲みたい。
なのになぜか、なごやんのあるところではお茶が同時に出てくるということが稀である。
口に広がる甘さはうすぼんやりとしていて、立ってまで取りに行こうという気もせず、大人しくしている、お喋りに興じながら飲み物を準備している女性たちの背中をちらっと見るだけで留めている、そういう白餡。
園児時代から互いに見知った仲だった。でも高校生になると、彼は分岐点だ。
そこで、彼を気の良い話し相手だと見るか、この先もう上辺だけの会話しかできない相手だと突然分かり今晩だけは部屋に上がることを許可するか、というようななごやんの夜が高校の入学前後に必ずくる。
顔を作っている女性は総じてなごやんに苦手意識を抱くだろう。
逆にいうなら、なごやんは優しかった。
なごやんを前にした時の人々の表情のバリエーションのなさは観察するのに値する。
もう今晩は顔の筋肉を動かしたくない、という時には最適なお菓子だ。なごやんは、小腹がすいて部屋を見回していて食べ忘れていたのがテーブルの上にあったのを見つけたという時にさえ、ちっとも嬉しくなれないお菓子だ。
皮と餡は分離しているので振るとなごやんは不味そうな音がする。
触っていても愉しくないし、見ていても愉しくない。
試しに客を無視し続ける飼い猫の前に置くが、臭いを嗅ぎにもこない猫たちを見ると一層つまらない気持ちになる。
私はここで何をしているんだろう。
なごやんがあるような場所では、決まってそう自問することになる。
なごやんに関してだけは、約束などするまいと誓っている人々も、約束ができるのだろう。そういう、自分の肘がどれほど凶器なのかということがいつも頭にある類いの人々でさえ、間になごやんさえ入ってくれれば、相手と約束ができるのだろう。むしろ、それだけのために人はなごやんを買い求め、小さな約束を叶えてやり、愛する女たちから向けられる疑惑にささやかな迷いを生じさせている。俺はそんな人間ではない、俺は君が思うような冷たい人間ではない、と真夜中のテーブルに鎮座しているなごやんは、密やかに彼女の冷蔵庫に語りかけているのを彼女は確かに見ることになるから。
死期の迫っている人々が、どんな物を見ても存在の重さを感じ、これは自分の生まれる前から在り、これからも当り前に人々の手に触れられるんだろう、と意識してはさみしく冷えていくのに似て、私はなごやんを思うだけで体温を持っていかれてしまうことがある。
なごやんが悪いんじゃない、悪いのは私。
でも、そういわせている時点であいつは悪霊みたいなものじゃないかというのが彼らの本音だ。
私たちはなごやんで傷つくわけにはいかない。
それに投げるわけにも行かない。
実際、私たちは幼少時にいくつもの七月に、伯父や近所の男たちが粗暴さを目から口から出しながら、なごやんをコンクリに叩きつけている場面に遭遇してきた。蟻たちが夜、なごやんとどういう話をしているのか、そういえば、そんなことを私たちより一つ下の子たちは気にしたっけ。
「なごやんは、パンツの話しかしない」
そういっていたのは近所のまこっちゃんだったかな、中学生のお兄さんがテニス部で全国区の選手でそれで重圧を感じてたまこっちゃん。
もしホットプレートの上に必ず女子中学生のいる世界だったら、なごやんとどうにか友達付き合いをしようとした私もいたかもしれないとは思う。
でも、私のいる世界はそんな世界ではない。目薬をさすのが下手過ぎて、目の下をティッシュで擦り過ぎて、少し赤くなってしまった。
私はなごやんが、なごやんは私が。
ああ、もうそれについて考えるのを止めにしなくてはだめ。それでなくてもコンセントは全ぶ塞がっていて、たこ足配線になっているのだ。
私は今日、なごやんを見た。
あっちは変わりなくて、元気にやっていた。
私にもそれを分けてほしい、と胸の内だけでため息をこぼしたけど、彼に一体何を求めているのか、それを考えると私はいつもながら、少しも分からずに首を傾げることになる。
それから私は少し急ぎ足で大学まで歩いていった。




