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炬燵






 オシノ少年の住むアパートには、一週間と少し前から、彼以外のだれも戻らなくなっていた。オシノの小学校は、すでに一週間前から、新年度が始まってしまっていた。

 玄関ベルが乱暴に鳴らされることは、もうずっと前からあることだった。ぼろっちい木造アパートは彼の物心がつく時期よりも前から、もうずっと昔から、取り壊しのうわさがある建物だった。

 冷蔵庫を開けて笑う。出しっぱなしの炬燵を見て笑う。

 どうしてか地元少年サッカーのクラブに入っている男子がアパートをよく訪れた。同学年もいたが特に一年下の少年たちの大半からオシノは嫌悪されていた。会話なども一切したことがないのに。これはもう体質なんだろうとオシノは思っていた。


 オシノは、同年代のあつまる場では仮面優等生を演じていた。作り笑いがうまくて、色素がうすくて、女子に好かれる態度をどんなときでも演じることができた。

 小学校では肉体的ないじめはなかったが常に年下の男子に無遠慮な物いいをされていて同級生や最上級生の男子たちから、暗に明にそのことで文句をいわれていた。


 炬燵は今年の春の夜の猛烈な冷えこみへの対抗策というのではなかったのだけれど、彼の母親がしまわないでいてオシノもそれに何となく合わせてみているだけなのだけど、ひとりで過ごす晩、オシノはそいつの電源を入れた。

 この晩も彼は、炬燵に当たりながら卓上に広げられるだけ予習帳や雑記帳を広げて置いていた。

 そして突然、裸の女の人がなかに入っていることに気がついた。

「…おねーちゃん?」


 小学生は自分の喉から出てきた小学生の声と言葉に、はっと我に返った。

 素早い動きで炬燵と十分な距離をとる。けれど、そうやって自分が何を見ようとしているのかと考えると、小学生は混乱した。ひょっとして、オレは今、炬燵の出方をうかがっているっていうことになるのか。

 少年が独りになって十四日目、夕飯どきのできごとである。

 電源が、入のダイヤルに合わせたままだった。園児時代、オシノがこの手のやり方で驚かされることは、しょっ中あったことだった。




 小学生には歳の離れた姉がひとりいた。今は大学院生。うちを出ていくときの彼女のやり方は完璧だった。

 母親も姉のことを話題に出すことはなくなり、小学生も彼女のことをどう考えればいいのか分からないでいた。

 現実、独りになるまでは。

 それに加えて、炬燵。

 しかしオシノはここまで追いこまれたときに頼っていいと思えるどちらの女とも連絡手段を持っていなかったのだ。

 学校がある日、給食の時間になると彼はゆっくりと物を口に運び、おかわりの声などには反応しないようにした。

 学校のない日、朝十時半になると彼は試食目当てにスーパーマーケットへ足を運び、数店舗はしごした。


 クラスの女の子から話の途中それとなく探るようなことをされて確信を得ていたが、でもオシノはすでに知っていた。

 同学年で、自分がどんなふうにうわさされているのか、大体のところはわかっていた。

 これからどうなるのか、どこに行くことになるか、もうわかっていた。

 目を開いていようが閉じていようが違いなど大してないと思えた。

 見なくたって、もうどうなるのかわかる。




 けれども、この日の相手はオシノからすれば少しだけ意外な男子だった。相手はひとりで来た。そこのところにも安堵や警戒心を誘われるのではなくて、ただただ不思議だった。オシノはどうして帰国子女が緊張した顔をしているのか、不思議だった。


「ばつゲームで」

 そんなことは聞くまでもなく知ってる。そりゃ、そんな用件でなきゃだれも来ないよな、といいたくなる。

 クラスメートは、間近からオシノを見下ろして立っていた。そりゃ、そうするしかないものな、と思う。


 ロンドンにいたんだって、と自分とは違って本物の優等生の女子がいっていたのをオシノは思い出した。

 転入後はすぐに少年野球チームに加わって、自分などよりもよほど男子の群れに溶けこんでいると陰で奴等が話してるのも知っている。

 腹が割れているのも、体育の授業前の着替えのときに見て知っている。


「なんかの音か?」

 帰国子女がオシノの背後に視線をやりながらいう。

 ここのところ頭がうまく働かず、オシノはぼんやりとしていることが多かった。

 クラスメートに言葉を返すことはせず、オシノは足早にテレビ部屋の前まで行った。

 あの夜からこっち、彼は玄関マットの上を自分の陣地と決め毛布を広げると浅い眠りを眠っていた。


 あの夜から寄りついていないテレビ部屋をこわごわ覗く。すると中央の炬燵がひとりでに震えていた。

 そういうことが見慣れた部屋で起きているのを見て、小学生は思った。こんなんまでウワサになったら、女子から寄せられる同情票までなくなるっつの。小学生は怒りとも焦りともつかないものに急き立てられ電気炬燵のほうに歩み寄っていき天板にだんっと手のひらを打ちつけた。


 見たことある、と背後から声がかかった。

「今のはさ、むかしの日本、女の人がやっていることだったんだよな、キカイが、あれで、こわれてしまうと」

「だまれクソ」


 オシノは耳をすませ部屋から物音がなくなっているのを確認した。それでも、まだまだ耳をすませていた。自分でも何をそんなに聞こうとしているのかは、わからなかった。

「ゴメン」

 おれ、オシノくんにウソから入った。

「あーどーでもいー本当どうでもいいよ」

 敷居のところにとすんと座りこみながらも、小学生は、また耳をすませていた。




 今見たようなことに立ち会ったのはオシノだって初めてだった。

 今はじっとしている炬燵。

 予習ノートや雑記帳のほかに湯気が立ち昇っている皿なんかは卓に載っていたようなことはない、自分にとってはそんな炬燵だ。

 口を右手でおおい、そうして閉じた目。痛みを持っているみたいに、縮こまって、考えて、それから開けた目。オシノはそうしようと思っていたとおりに帰国子女のほうを向いて、そしてバカッと大声を出して怒鳴った。

 けれど次に起こったことは小学生が咄嗟に考えたのとは逆の方向に進んだ。


 まずオシノが目にしたのは、帰国子女の体が炬燵布団の中に入っていたということ。それを見てオシノは焦ったのだけど、帰国子女はすぐに外に出てくることになった。それは、オシノが怒鳴ったから、出てきたのではなかった。オシノの目に、クラスメートは何らかの力で吹き飛ばされたように見えた。

 明らかに、成長期のただ中にある体が浮いていた。炬燵の設置されてある位置から壁までそう距離はなかったが、オシノの見ている前で帰国子女は何かに、後方に向かって飛ばされて、アパートじゅうの壁がゆれた。でも吹っ飛ばされて、帰国子女はハハッと笑った。

「スゴいな今のっ」

 いったん自分にだけ早口の英語で文を口にし、それから日本語でクラスメートはオシノに声をかけてきた。

「だけど、どしてハダカなんだ?」


 振り返った帰国子女の顔は無邪気に輝いていた。オシノの表情に気がつくまでは。

「…もう帰ったら。てか」

 マジ帰って? とオシノは作り笑いでいった。

「オシノ、学校にいるときと言葉違いがあるのな?」

 普段のオシノは声音を非常に意識していた。そうするだろうと思っていたとおりに帰国子女がこちらと目線を合わせようとして、すぐ隣でしゃがもうとするから、オシノは手だけで制した。やめてほしい。出て行ってほしい。


 この春からクラスが初めて同じになった。五年六組。

 あたり前のように、このクラスメートはオシノに対してさえ、スキンシップが激しかった。

 先週の授業のことが思い浮かぶ。

 二時間目の体育、授業時間の残り十五分はゲームをすることになった。女子は隅でドッジボール、男子はグラウンド全体を使ってのサッカー。オシノはもちろんキーパーを割り当てられた。

 自陣に味方がおらず、全員が敵ゴール側にあつまり、高い位置にあった太陽が雲に隠れて、女子が声援を送り、ボールにみんなの意識が集中している数分間、そのとき初めてさみしさをオシノは感じた。


 いつも、何よりもまず惨めさがあった。確かにさみしさや無力感もあったが、いつも、どうしようもなくオシノは自分の歩く道みたいなものに意識がむいた。そしてそれはどうも惨めなものらしいとわかった低学年の頃からだ、学校を職場にしているような大人連中や同性の同年代が敵になったのは。ちょっとした会話でさえ苦痛だった。彼らの目に映る自分の姿のことを考えてしまう。


 体育の時間が終わってからも、一人で運動場を歩きながら、だれも自分を知らない町に行きたいとオシノは考えていた。ガードが下がっていた。

 今やすっかりさみしくて、帰国子女が寄ってきて、いつものように頭に手を置かれると、それをつい乱暴に払ってしまった。普段じゃ考えられない。大げさなくらいにオシノは帰国子女に謝った。普段なら、女子の目を気にして我慢して少しのあいだ好きにさせているところだ。それなのに。

 それなのに今、頭に置かれた手が嬉しくて、つい払ってしまった。


 帰国子女はともかく馴れなれしい。校内のだれよりも上背がある。きゅうしょくだ、と周囲の男子といい合っているときに一際いい笑顔を見せる。オシノとしては、人生という言葉について考えているときに浮かぶ顔だ。




「けど、こんでただの変態妖怪下着ドロ女できまりだな」

 オシノが口を開くのをずっとクラスメートは待っていたらしい、間髪を入れずに、こういったから。

「いいよ」


 自分のターンを待っていた割には、短いし、まるで繋がっていない言葉。

 だけどオシノにはわかった。胸がざわざわとし、仮面もどこかに行って出てこない。わかってしまった。

 帰れよ、とオシノはいった。

 それに対しての、いいよ。


 ますます顔を上げるわけにはいかなくなった。

 オシノは、惨めさしか見ようとしない自分が悪いということもわかっている。だけど余裕なんてないのだと、オシノは奴等にそれがいつもいいたかった。


 おもては暗くなってきていた。今日はまだ電気はつくんだろうか、と小学生たちは同じ考えを浮かべる。

 もう、うちに帰らなくちゃ。

 だけど、それは何のために?

 アパート内部が暗くなってくる。帰国子女はそれを待っていたということは一切なかったが、暗くなってくる。オシノはもうどれだけ声をかけられても無反応で通す。




 ようやく帰国子女は帰っていった。自宅の脱衣所で着替えるころになるまで、炬燵に半身を入れたことで下着を奪られて、そのかわりにといったような感じで見知らぬ柄のトランクスをはいていたということには、気づかないままで。

 あくる日になっても、オシノは、帰国子女の予定していた展開になるようなことはどれも、はねのけた。小さな紙袋を差し出されても、とぼけ続けた。友達にはならなかった。


 帰国子女は何もいわなかったけど、見逃してはいなかった。オシノの顔と耳はわずかに赤く染まっていること、羞恥からにじみ出る汗。

 こーゆうのはさ、何というんだっけ、と帰国子女は相変わらずな調子でいう。

「あっ分かった、はみだしっ子」

「それただの名作じゃないか」

 帰国子女は休み時間になると、だれよりも近くオシノの頭頂部に近づき声をふりかけていく。

 コングラガッシャったことになるならさ、と帰国子女は何度もいった。

「おれにゆってよ」

「…うん。お前ほんとうるさい」




 そんなふうに、やたらに体に影をつくるクラスメートからオシノは逃げ回らないといけなくなった。

 そんなふうに、二人はともだちになった。

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