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第1話:完璧な大宰相令嬢

 長かった冬が終わり、ようやく春の穏やかな風が都にそよぎ始めた。


 時はロンザ暦329年の春。


 城下に賑わう王都は、十数年前までここロンザ王国に起きていた戦争の傷跡を隠すかのように、平和な空気が流れている。

 王都の市場から聞こえる騒めきや子どもたちの声が、その活気を証明していた。


 それでも、この場所だけは別世界のように静かだった。

 滅多に人が出入りしないこの丘の墓地だけは、時間の流れを忘れたように静まり返っている。


「……母上」


 ロンザ王国の大宰相令嬢イレーネ・エデンは、そっと亡き母の墓石に手を触れ、微かに息を吐く。手に伝わる冷たい石の感触が、彼女に三年前失った母の記憶を思い起こさせた。


「父上と兄上は今日もここに来ないのね、ラズ」


 彼女の護衛従者ラズは、彼女の一歩後ろから恭しそうに口を開いた。


「ええ、おそらく今日も来られないかと。お二人とも政務でお忙しいようですから」


「そう……今日は母上が亡くなってから三年の命日。二人も覚えているはずなのに、今日ですらここへ来る時間はないのね」


 彼女の寂しげな表情に、ラズも目を伏せる。


「お二人はロンザ王国の国事を担う大宰相と、その次期跡取り。国王の補佐として重責を担っておられ、お忙しいのでしょう」


「二人の公務が大変なことは分かってる。でもせめて、今日くらいは来てほしかった。どんな形でも、私たちは家族だって思いたかったから」


 母の命日でさえ、イレーネの父、兄は墓地に立ち入る気はないようだ。

 亡き母を顧みない彼らに、彼女は憤りよりも落胆を覚えた。


 しかし、それ以上は考えるのを止めた。考えても意味がないと分かっているからだ。


 少しの間の後、彼が言いづらそうに呟いた。


「離れがたいですが、俺たちもそろそろお屋敷に戻りましょう。午後から王族の皆様と晩餐会があります」

「うん。でもあと、もう少しだけ……」


 寂しそうな表情をする彼女を後ろで見守るように、ラズは静かに彼女を待った。

 二人の間には、言葉にせずとも分かる深い信頼と温度感がある。それは、令嬢と護衛従者という枠組みを超えた一種の絆のようなものだ。


 ラズは七年前、イレーネの生家であるエデン大宰相の邸宅にやって来た。

 彼は当時まだ十一歳にして、天才的な才能を持つとしてエデン家の護衛に抜擢された。以後はイレーネの従者となったが、今の二人は主従関係を超え、親友のような関係である。


「母上、私がエデン家と母上の大事な人を守ります。だから、どうか安心していてね」


 墓石に触れながらそう呟くと、穏やかな風が墓石に備えられた花々を揺らした。


「それじゃあ、戻りましょう。あんまり遅いと、私の身支度をするソラにも迷惑をかけるわ」


「ソラなら大丈夫。彼女はあなたの一番優秀な侍女ですよ。彼女の手にかかればものの数分で、堅物なあなたを美しい令嬢に変身させますから」


「堅物は余計よ! 今時の令嬢は男性と同様数学も習うし、学術以外にも護身術だってやるわ」


 ラズは、自身の赤みを帯びた黒髪を揺らしながら笑みを漏らした。


「しかし、あなたはもうすぐ王太子殿下と結婚するのですよ? もう少し体裁を整えねばなりません」


 彼の言葉に彼女は不貞腐れるように顔を背けた。


「本当は結婚したくない。父上と国王の命令だから、仕方なくするだけよ。あなたも知ってるでしょ」


 父だけでなく、国王にまで命令を下されたらイレーネにも断ることはできない。自分では変えられぬ命運に、彼女は悲しげな表情で墓地を後にした。



 二人はエデン家に戻ると、すぐにイレーネの自室へと足を急ぐ。


 部屋まで辿り着くと、侍女のソラがすでに仁王立ちで二人を待ち構えていた。

 表情は一見にこやかに見えるが、怒りのオーラを纏っている。二人は彼女の只ならぬ様子に恐怖で顔を歪めた。


「あ、ソラ! ごめん遅くなっちゃって。でも大丈夫よ、このまま晩餐会に行くわ」


「イレーネ……いや、お嬢様。それは本気で言っているのですか? この私が旦那様に首を刎ねられても良いと?」


 彼女の怒りがさらに増長したことに気づき、イレーネは恐怖にさらに顔を引き攣らせる。

 しかし、彼女は怪訝な表情をしつつも、優しくイレーネの腕を引いた。


「ラズもラズです。長年お嬢様の従者でありながら、時間管理もまともにできないとは……。今後は決して繰り返さぬように!」


「は、はい……」


 ラズは護衛で体格が良く背も高いのに、年上でしっかり者のソラの前では、まだ幼い子供のように見える。

 それはラズが彼女を実姉のように信頼し、慕っているからでもあるだろう。彼女は華奢で女性らしいのに、時に大柄の護衛にすら身を竦ませるほどの芯の強さを兼ね備えた女性だ。


 イレーネは彼女と自室に入ると、すぐにドレッサーの前に座らされる。彼女がテキパキと、されど丁寧にイレーネの髪を梳き始めた。


「王太子が私を嫌いになるように、とびきりダサくしてちょうだい」


「そんなことしたら、私が旦那様に斬られるわ。はあまったく。本当にあなたたちは、手のかかる子たちですこと」


「ごめんって。次からはもう少し早く帰るから」


「もういいわ。だって、今日は奥様の墓所に行っていたのでしょう。あなたが奥様を想うように、奥様もきっとイレーネを想っていらっしゃるわ」


「そうだといいな」


 ソラは少々しんみりとした表情をしながらも、手は休めず確実にイレーネの身支度を進めていく。


「……私は奥様に命を救われたから、今こうしてここに生きていられる。奥様が戦争孤児の私を引き取り、教育を受けさせてくださった。その恩は絶対忘れない。あなたのこの赤毛を見ていたら、未だに生前の奥様を思い出すわ」


 そう言うとソラは、イレーネの橙色にも見える赤狐のように艶やかな赤毛を一束掬った。

 ロンザ王国ではさまざまな髪色の人間がいるが、その中でも赤毛は珍しい分類に入る。ロンザ王国の国教、ロンザ教においてとりわけ神聖な意味を持つ赤毛は、彼女を一層目立たせていた。


「でもこの赤毛のせいで、母上と私は昔から父上に嫌われているのよ。母上はロンザ教始祖家の出身だし……。父上はそういう非理論的な話が大嫌いだもの」


「旦那様はこの王国から、ロンザ教の影響を消したがっているものね」


 話に深入りしながらも、気づけばソラはイレーネの支度をすでに完了させ、流れるように次いでドレスの準備に入っていた。数人の使用人が彼女とともに的確に準備を進めていく。


 宝石が数多に散りばめられた桃色のドレスを見て、イレーネは顔を顰めた。

 これは彼女の父親、エデン大宰相からの贈り物であるが、到底彼女の気に入るものではなかったからだ。


「イレーネ、素敵なドレスですよ。旦那様が、あなたのために王国一の仕立て屋に特注で作らせたものですから」


「父上は、いつも私をただの道具のように思ってる。もちろん今回のドレスも私のためじゃなくて、婚約者の王太子の好意をさらに得るために用意したのよ」


「イレーネ……」


 どんなに父に不満があろうとも、娘のイレーネは父親に従う他ない。従わなければほんの少しの自由も与えられなかったからだ。

 だから不満があろうとも、彼女は今回も大人しくそれを着ることにした。


 自分には似合わない、派手すぎる装飾に、あまり好みではない桃色。しかし、彼女は自身の感情を押し殺すように目を伏せた。


 ソラがあっという間にイレーネのドレスコードを完成させる。煌びやかな衣装を身に纏った彼女は、すでに一際美しい令嬢としてのオーラを放っていた。


「さあイレーネ、旦那様たちがもう下の広間で待っておられますよ。……大丈夫、あなたの傍にはいつもラズと私がいるから。行ってらっしゃい」


「うん、行ってきます」


 ソラに部屋から見送りされ、満面の笑みで手を振り別れを告げる。


 パタンとそのドアが閉じると、先程とは打って変わって、イレーネは表情を真剣なものに一変させた。


 イレーネは、自分が心を許すソラやラズの前では本当の自分を出し、無邪気でいることができる。しかし、家族の前では自分の感情を出すことは好まれないため、彼女はいつも家族には良い娘を演じるよう努めた。


 静かに、されど自信のある面持ちで優雅に絨毯の敷かれた廊下を進んでいく。彼女の傍らには、いつものように護衛のラズが彼女を守るようにして後ろに続いた。


「父上、兄上。お待たせして申し訳ございません。参りましょう」


「イレーネ、今日は陛下も出席する王族との晩餐会。王太子の婚約者として、ミスは絶対に許さんぞ。必ず完璧な令嬢として振る舞うのだ」


 イレーネには、もはや先程の素顔はどこにもない。


 そこにいたのは、大宰相の完璧な令嬢だけであった。

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