プロローグ:奴隷になった日
その夜、イレーネはゼーレン帝国の奴隷になった。
名高い大宰相令嬢として持っていた栄誉も、身分も、富も。
その全てを一夜にして失った。
そして最早今では、この身一つさえ自分のものではない。
彼女は全てを失くしてしまった。
家族や友、親しい者たち。自分の婚約者。
彼女の手から、みんな溢れ落ちて消えていった。惨たる炎は王国のあらゆる記憶を燃やし尽くし、灰にしていった。
それでもなお、神は彼女の命を奪わない選択をした。
家族を亡くし、故郷を失い、人としての威厳すら消えようとしている。それでも神は、皆の元へ連れて行ってはくれない。
黒い海の上で不気味に揺れ続ける奴隷船は、そんな絶望を抱えた彼女を尻目に、嘲笑うかのようにゆっくりと暗闇を進んでいく。
どんなに苦しみに喘ごうとも、この地獄行きの船は、止まってくれはしない。
あらゆるものを失った悲しみと同時に、これから訪れる絶望の未来への恐怖で、次第に体が震えだす。こんな絶望は、今まで生きてきた中で一度も経験したことがない。
あまりに耐え難いこの恐怖は、いつも健気に振る舞うイレーネを怯えた鼠のように萎縮させるには十分だった。
恐怖の中、彼女はふと、手繰り寄せるようにある記憶を頭に浮かべた。
それは彼女が六年前の夏に出会った、とある人物との記憶だ。
この冷え切った奴隷船の中で、少しでも温かい記憶に包まれないと恐怖の闇に飲まれ堕ちてしまいそうになる。
彼女は必死に自分を保とうと、涙の止まらぬ目を擦り続けその時の記憶を脳裏に反復させた。
しかし彼女の苦しみとは裏腹に、闇を進む奴隷船はゆっくり、ゆっくりと着実にその目的地へと近づいていく。
「イェル……もしあなたが私なら、この状況をどうする?」
小さく呟いたその疑問に、答える者などいない。
やがて、この船の目指す地獄がすぐ目の前まで迫ってきていることを、彼女は知ることになるのだった。




