【巻之一・九~十一 -豊臣秀勝の手柄―】
九:「ちんば」の由来
河内の国に「珍」という男。大和に「場」という男がいた。二人とも兵法の達人だったが、ある時試合をした。双方、片足を斬り落としあい、今にも死にそうになった時、外科の達人が通り掛かった。その外科医、あまりに慌てふためいたので、それぞれ片足の主を取り違え、我のを人に、人のを我に。足を繋げてしまった。
そのため、一人は足が長く、一人は足が短くなり。(歩く時、)腰を引くようになったので。今も、こういう風に歩く人を、「ちんば」というようになった。
【一言】作者の安楽庵策伝は、一五六〇年美濃の生まれ。とすると、織田信長が活躍した時代に生まれた。戦国武将・金森長近の弟で、浄土宗の門を叩いた。
兄が織田家で活躍したことも手伝ったか。以来、創建・再興した寺は、西国山陽で七つ。その活力を支えたのは、各地で行う説教だった。ただの説教とあなどるなかれ。抹香臭いつまらん説教?そんな話を、策伝はしない。「面白い、落ちのある話」。策伝がするのは、それである。策伝が説教をするところ、その場は笑いに包まれた。
その歩みは、ともすれば、世の流れを無視するものだった。太閤秀吉の天下統一の戦も、おかまいなし。策伝は全国を精力的に歩いて回り、各地で「笑いの説教」を行った。
やがて、太閤秀吉亡くなり、家康の世がやってきた。そんな中、策伝は上方に落ち着いた。その話芸は、ますます極まるばかりであった。
―策伝は、明日をも知れぬ我が身を忘れさせてくれる―
戦国時代は、刹那の世。おとといの信長が、昨日の秀吉。今日は、江戸の徳川である。そんな世に現れた策伝の話芸。
ある日、京都所司代・板倉重宗。そんな策伝に“依頼”をした。
あんたの話芸で、関八州と上方をつないでくれ。いや、双方歩み寄りたいのだ。だが、豊臣びいきの上方町人らは、関東なんかと怒るだろう。あんたの話芸で、“上方町人”と“江戸っ子”、双方を笑いで包んでくれ。
「一」で秀忠公を笑って見せたのは、上方もんの意地。いよいよ本段で、策伝は、大阪の豊臣と江戸の徳川の戦に切り込んだ。双方、兵法の達人だったので難儀やった。でも、“外科医”が通り掛かったので、なんとか落ち着いた。皆の衆、“外科医”は“婚儀”や。分かるか。でも、慌てはったから。関八州と上方は繋がったが、双方えっちらおっちら。
十:「急がば廻れ」とは
「いそがば廻れ」とは、何にでも当てはまる深謀遠慮である。連歌師・宗長も詠んでる。
―武士の、やばせの船は、早くとも。いそがば廻れ、瀬田の長橋―
【一言】連歌師・宗長も詠んどるで。「急がば廻れ」。安心せい。“やや”は、無事に生まれる。「和子」は、ワシらが護り抜かなあかん。せやないと。日の本は、良うならん。
さて、京都所司代。渡された『醒睡笑』を詠んで、びっくり。
―なんだこれは暗号ではないか―
かくして、『醒睡笑』は江戸に運ばれた。江戸の秀忠・天海・崇伝・林羅山。これを詠んで驚いた。“これは一体どういうことだ”。“策伝め、誰から「伝言」を渡された”「武家の腕前とくと拝見」。この程度の暗号、読めぬようなら、とうてい「パックス・トクガワーナ」とやらは実現できん。受け取った秀忠らは、大慌てとなった。
十一:「梵天瓜」のいわれ
大和で採れる「“ほてん”(梵天瓜・ぼんてんうり)」は、延暦寺を創った最澄の弟子の慈覚大師。天長十年(八三三年)、四十歳で身も疲れ、目も悪くなり。余命も長くないことをわきまえ、比叡山の北谷に草庵を作り。三年、そこで修業して命の終わりを待っていたところ。ある夜、夢に天界人が現れた。
「これは霊薬である」
と渡してきた。形は瓜に似ている。半分を食べてみた。味わいは蜜のようである。親切な人が言うには、「これは“梵天王の妙薬”である」。夢が醒めても口の中に、味が残っている。この後、痩せた体は健やかに。目も見えるようになった。残りの半分を地面に撒いたところ、完全な形の瓜が生えてきた。今の「梵天瓜」である。『元享釈書』にも書いている。
【一言】「完子」の実父豊臣秀勝は、御存じ大和大納言・豊臣秀長公の養子。忘れもせいへん、“大和”の国主や。皆も知ってるやろ。江戸の「おごう」は、大阪の淀君の妹。秀忠公に嫁ぐ前、豊臣秀勝に嫁いでおった。一粒種が、娘の「完子」や。
せやけど。「完子」は関白様の奧方になりはった。「大和のみなしご瓜」が、いまや「北政所」や。父秀勝の功は、慈覚大師と並ぶ。何でかって。「完子」の母親の「おごう」も、今や江戸の新将軍・家光の母親や。知らず知らずのうちに、「完子」は“江戸と上方”のかすがいとなったんや。こんな大手柄聞いたことあらへん。まさに、“天下太平の妙薬”や。
こんな面白いことはない。『醒睡笑』の落語を聞いた、上方の町民、江戸の町民は、手を叩いた。せやせや、そうやった。豊臣は滅んだけど、淀殿の妹「おごう」が、子供を生んでたんや。子供は、江戸と上方で大活躍か。「おごう」は、どえらい女やな。豊臣は戦で負けたけど、「おごう」が天下を取りよった。上方の町人達は、今がチャンスと気が付いた。
―「おごうの娘」を盛り立てよう。おなごの天下取りや、面白い―
上方の町民達は大笑い。
江戸ッ子達も、人情の話には、とんと弱い。上方に、そんな「哀れな娘」がいたのか。新将軍家光公の「父違いの妹」なら、話は別だ。慈覚大師って、誰だ。いや知らん。何でも、昔のエライお坊様なんだと。『元享釈書』って何だ。いや知らん。何でも、足利の世の、エライ坊さんが書いた百科辞典だと。へー、上方のやつは、そんな変な事を本にするのか。
―なんだ。上方の奴らも、面白いではないか―
江戸の町民達も大笑い。
●参考論文
関山和夫『「醒睡笑」の唱導性』