第五十七幕:一世一代の晴れ舞台
文秀に残りの敵兵を任せた夜姫は静かな足取りで開けられた扉を潜る。
そして扉を閉じて・・・・・何かを念じた。
『はっ!?扉が閉まったぞ!!』
『こっの・・・・・くそ、開かないぞ!!』
『ぬおりゃぁぁぁ・・・・・・がっ!?』
『何だ?刃が弾かれるなんて!!』
「悪いけど・・・・・ここから先は誰も入らないで」
と、夜姫は扉越しに叫ぶ敵兵に言い、静かに前を見る。
前方には老若を問わず男女が居り、その真ん中の椅子には壮年の男が剣を杖に腕を伸ばしていた。
如何にも荒くれ武将、と言える風貌だが狡知にも長けた眼を宿しているのが特徴である。
「はぁい、董卓」
夜姫は茶化した笑みを浮かべて目の前の男---董卓に微笑む。
そう、目の前に居る男こそ漢王朝を半ば滅亡へ追いやろうとして、そればかりか儒教で最大の禁忌である墓荒らし兼遷都を行ったばかりか、帝を擁して親族を高位に付けた董卓その人である。
もっとも董卓は・・・・・本来ならば既に死んでいる。
王允が数名と結託して養子の呂布を嗾けて長安において殺したのだ。
そして長安は呂布が支配したのだが、直ぐに瓦解---董卓派の兵が取り戻して呂布は逃亡し、王允は処刑されたのである。
しかし、董卓だけではない者---即ち親族も報いを受けさせられた。
90歳という老年の母も処刑されて、他の親族も殺されたりした挙句に董卓は死体を引き摺り出されて火を点けられたのである。
その様子を記した“英雄記”なる書物によれば、その時は酷く暑くて死体から脂が地に垂れ流れていたらしい。
ここで夜営の兵が戯れに董卓の臍に灯心をやると火は数日間も燃えていた、という程に肥満体だったとの事だ。
ところが、ここの世界では董卓は生きており肥満体でもない。
同時に親族も無事だ。
呂布と王允などを始めとした者達も逸早く逃亡して死んでいない点も違う。
一体どういう事なのか・・・・・・・
「約束通り・・・・・貴方を倒しに来たわ」
夜姫は沈黙を破り、董卓に告げる。
「・・・・わしが見込んだ女だけあって強いな。勇ましくも美しい甲冑を纏い、ここまで文秀だけを連れて来たのだろ?」
董卓は幼い笑みを浮かべて問い掛ける。
「えぇ、そうよ。あの男は近衛兵にして新参者。だから、私の傘下に入る儀式をさせたのよ。そして私は約束を果たす為に来たの。どうかしら?」
「・・・・身に余る光栄だ。これでこそ天下の大悪党である董卓様と言われよう!!」
ははははははははは!!
董卓が豪快に終わると、親族の一人が堪り兼ねたように前に出た。
「恐れながら申し上げます!私は董卓の親族ですが、今回の件は全て董卓が犯した罪!私は一切なんの罪も・・・・・・・ひぃ!?」
「黙りなさい・・・・・この愚か者が」
月の双眸で夜姫が男を睨むと情けない悲鳴を男は上げて引っ繰り返った。
「この男の犯した罪は罪よ。でも、それなら・・・・・どうして居るの?嫌なら断るなり、死ぬなり、逃げるなりすれば良い事でしょ?それを今さら一人だけ助かろうと命乞いするなんて恥を知りなさい」
何処までも冷たいが的を射た言葉に男は沈黙して、同時に尻で後退りする。
「夜姫、そう言うな。半ば・・・・・いや、わしが強引に親族を高位に就けたんだ」
「でしょうね。だけど、それとこれとは別の話よ。少なくとも私には、ね」
「ふっ・・・・何とも手厳しい女だ。しかし、それでこそ我が敵に相応しい」
ゆっくりと董卓は腰を上げた。
「して、呂布は?」
「逃げたわ。私の妹と一緒に、ね。まぁ、他の奴等も逃げたでしょう」
夜姫は肩を落として質問に答えると、今度は逆に問い返した。
「貴方は何で逃げなかったの?逃げようと思えば逃げれたでしょ」
「愚問だ・・・・そなたは約束した。だから、それを守る為に残った。親族は逃げるように言ったのだが、な」
「・・・・・・・・・」
董卓の言葉に夜姫は無言になるが、眼は何処までも「不器用な男ね」と告げていた。
「不器用・・・・か。死んだ親父殿にも言われた。特に女子に関しては不器用を通り越して臆病者だ。わしは、な」
剣を腰に吊るすと董卓は右手を握り締めて開いた。
「確かに臆病者ね・・・・・寝込みを襲わず、起きている私にも指先すら触れようとしなかったんですもの」
静かに夜姫は言うと剣に付着した血と脂を拭い、鞘に納めると・・・・・右腰に大小の剣を差し直した。
「何の真似だ?」
今まで左腰に差していた武器を右腰に差し替えるのだから董卓でなくても疑問に思うのは当然だった。
しかし、当の本人は至って平素な口調で答える。
「あら、言わなかったかしら?私、本当は・・・・・左利きなの」
クスッ、と夜姫は笑い、右手で剣の鯉口を切った。
そして左手で剣を抜くと正眼に構える。
切っ先は董卓の喉に向いており、何とも妖し気な刃文が薄らと光った。
「・・・・・・・」
董卓は剣を両手で握ると、右足を前に出して左足を引いて・・・・・間合いを詰める。
対する夜姫は微動だに動かず、董卓が来るのを待ち続けた。
『今まで右手---利き手ではない方で戦い抜いてきた・・・・・ここに来て左手に持ち替える辺り、わしに対する礼儀か?』
と、董卓は心中で思う。
ここまで夜姫は右手で武器を操ってきただろうが、ここに来て左手に持ち替えたのには訳がある、と思ったのだ。
ただ、理由を知ろうと意味は無い。
寧ろ・・・・・利き手に武器を持ち替えて、しかも、その利き手が左というから厄介だった。
大体の人間は右利きで、左利きは極僅かしか居ない。
仮に居ても親などが強制的に修正させるのが常である。
しかし、夜姫の様子を見る限り違和感は無いから扱い慣れている、と考えて良いだろう。
こうなると益々厄介だ。
左利きの攻撃は捌き難いし、動きすら読み辛いのである。
とは言え・・・・・董卓だって辺境で異民族と戦いを繰り広げて来て、ここまで登り詰めた男だ。
そう簡単には負けられない。
董卓は夜姫との間合いを詰め続けて・・・・・・撃尺内に入ると上段から剣を振り下ろした。
鋭く空を切り裂いた白刃を夜姫は棟と刃の間にある稜線---鎬で捌くと、そのまま刃を横に振り董卓の小手を払おうとする。
「ぬぅ!?」
唸り声を上げて董卓は後退するが、それを夜姫は追わずに見た。
「・・・・中々にやるな。なるほど。その部分---稜線を上手く使い捌いた訳か」
「えぇ、そうよ。鋭い指摘で嬉しいわ・・・・・さぁ、もっと舞いましょう。この舞台は貴方と私だけよ。そして舞台の主役は貴方。ヒロインは私で、観客達は貴方の親族なんだから」
客を飽きさせるな、と夜姫が言うと董卓は薄らと笑った。
「そうだな・・・・・しかし、わしが悪役でなく主役とは嬉しい限りだ」
生まれてこの方・・・・・主役に抜擢された事などない。
脇役か悪役の二選択しかなかったが・・・・・・・・・
「一世一代の晴れ舞台には良い」
グッ、と剣を握り董卓は脇に剣を構える。
それを90歳の老人---老母が心配そうに見つめていた。
やはり息子が目の前で殺し合いをする姿など見たくないのだろう。
しかし、同時に生き生きとしており、初めて主役になれた息子を静かに見守る眼も備えていた。
実に複雑な心境であろう。
そんな董卓の老母を横眼で見ながら夜姫は董卓の言葉を訂正した。
「残念だけど晴れ舞台じゃないわ。この舞台は言わば序章よ。まだ劇の幕は開けたばかりなの」
「ほぉ、その劇は・・・・如何なる内容だ?」
興味を持ったように董卓が問えば夜姫が今度は地を蹴り・・・・・董卓に突進した。