第三十六幕:宴の準備が出来た
文醜と顔良は夜姫に促されて、天幕の中へ入った。
「いらっしゃい。文醜、顔良」
二人の前には即席で用意されたような長い椅子があり、そこに身体を斜めにして一人の娘が座っている。
年齢は二十になった位で、紫と銀という髪色に透き通るような肌と月色の瞳が特徴だった。
衣装は赤を主体にしており、それを何枚も重ねて着ているのが分かる。
そして長椅子の下には、漆黒の毛を持つ狼が一匹居て夜姫に甘えていた。
更に左右には娘と同じ衣服を着た侍女らしき二人の娘が控えていた。
長椅子に座るのが織星夜姫で、文醜と顔良の主人---袁紹が恋焦がれる娘である。
『この度は、無事に董卓の陣より戻られた事、誠に嬉しく思います』
二人は片膝をついて夜姫に頭を垂れながら、董卓の陣より無事に戻ってきた事に対する祝いの言葉を口にした。
「ありがとう。それで何か用かしら?」
狼の顎を撫でながら夜姫は問い、狼は尻尾を振りながら甘える。
「ハッ。我が主人---袁紹様より、貴女様の姿が見えた故に・・・・・・・・・」
「様子を見て来い、と言われました」
「嘘おっしゃい」
夜姫は二人の言葉を直ぐに否定した。
「本当は袁紹、嫉妬しているんでしょ?さっきから貴方達の兵達が見ているのは分かっているわ」
『・・・・・御意』
否定などしても見透かされている、と既に二人は理解していた故に・・・・・・敢えて頷いた。
「はぁ、袁紹にも困ったものね。私は別に誰かを寵愛している訳じゃないのに」
「それは、解かっております」
「貴女様ではなく、周りが過保護なのです」
文醜と顔良が同時に言えば、面白そうに夜姫は笑いながら黒狼の下顎を撫で続けた。
「えぇ。皆、私を壊れ物でも扱うように大事にしてくれるわ。特に孫堅と劉備は、お父様みたいな存在よ」
そして袁術は・・・・・・・・・・
「過保護な兄様、という所ね。袁紹も同じだけど・・・・・・妹に誑し込まれているんじゃ、少し頂けないわね」
「その事ですが、宜しいですか?」
顔良が顔を上げて夜姫に言えば、夜姫は月色の双眸を細めて「どうぞ」と答えた。
「貴女様の妹君とは、どのような方ですか?」
「どのような方、ね。そう・・・・・敢えて酷く言うなら、私に婚約者を寝取られた妹、と言った所ね」
何とも凄い発言に二人は唖然としたが、直ぐに侍女が否定する。
「姫様、そのように意図して嘘を言うのは、どうかと思います」
「そうですよ。あの女・・・・・自分が原因なのに、姫様のせいにしているんですよ。それを自分で奪ったなんて・・・・・・・・・・・」
「良いじゃない。それに・・・・・あの女は、こう言う風に弄って上げると逆上するの」
これにより墓穴を掘らせ易い、と夜姫は侍女に言い文醜と顔良は理解した。
即ち・・・・・・・・・・
『姫様の妹御は、姫様を逆恨みしており、我が主人を利用している』
由々しき事態である。
直ぐ様、出ようとしたが夜姫が左手に持った扇で止めた。
「貴方達の忠節は見事だけど、あの袁紹を元に戻すのは出来ないわ。寧ろ殺されるわよ」
「では、どうすれば良いのですか?」
「貴女様を慕う余り我が主人は利用されているのです。ならば、それを何とかする方法を教えて下さい」
言わないなら実力行使を、と二人は気を放つ。
「本当に袁紹に忠実ね。まぁ、待ちなさい。これは袁紹にとっても良いのよ」
良い事?
「私が見る限り袁紹・・・・苦労した割には、その時の事を忘れているわね。特に私に思慕の情を抱いたから尚更、ね」
『・・・・・・・・』
二人は無言で耳を傾けて、夜姫は扇を弄びながら喋り続けた。
「このまま行けば、袁紹は利用されるだけ利用されて殺されるわ。でも、私が力を貸して戻しても、性根は駄目のまま。それだと別の事で死ぬわ」
確かに袁紹は若い頃・・・・苦労したが、今では出世して連合軍でも顔が利いた。
しかし、だ。
優柔不断な性格であり、異母兄弟の袁術と同じく自意識過剰な面もある。
夜姫の言う通り・・・・・ここでは生きても、乱世が間近いとなれば間違いなく死んでしまう。
そうなれば彼だけでなく他の者まで災難を被る訳だ。
「選択肢は幾つかあるけど、袁紹の為になるのは二つよ」
一つは・・・・・・・・・・
「この時点で正常にする事。でも、それだと根本的な解決にはならないし、私に振り返ってももらえないわ」
もう一つは・・・・・・・・・・
「少しばかり熱めの灸を据えて、性根を叩き直して活躍の場を与える事。そして貴方達が活躍すれば袁術達も見直すわ」
後者を選べば・・・・・・・・・
「少なくとも乱世になっても問題ないし・・・・・曹操とも対等に渡り合える筈よ。あの男は私の妹と気が合いそうだから必ず接する筈だわ」
彼の者は乱世の奸雄と言われるだけあって・・・・・・・・・・・
「抜け目ないし野心もあり、それを実現できるだけの知勇を備えているわ。親族衆が脇を構えているのも良い感じね」
ここ等辺は・・・・・・・・
「劉備様、孫堅様、袁術、そして袁紹には当て嵌まらないでしょうね」
劉備は義勇軍という寄せ集めだし、孫堅には親族こそ居るが呉自体が地方豪族の集合体だから足元は余り固くない。
袁術と袁紹は同族だが、互いに嫌悪し合っており話にならない。
「どう?私の考えに間違いとかはある?」
『ございません』
文醜と顔良は内心で驚愕しながら肯定した。
「それじゃ質問よ。広大な土地を擁して、更に親族衆も優秀で知勇を備えた曹魏を如何にして退ける?私の妹も加わると更に面倒よ」
「お言葉ながら夜姫様は、どうなのですか?」
顔良は先ほどから夜姫が妹の事を話して自分の事を余り話さない事に疑問を感じており、ここで意を決して聞いた。
ウウウウウウウッ!!
それまで夜姫に甘えていた黒狼が犬歯を剥き出しにして顔良を威嚇する。
「こら、フェンリル。止めなさい」
夜姫が強く叱れば、黒狼フェンリルは大人しくなったが敵意は双眸から滲み出ていた。
「顔良、貴方は私の力が妹に比べてあるか、無いかと聞いているのよね?」
「御意。少なくとも話を聞く限り・・・・・・一定の時間でしか発揮できない、と推測しました」
「大した洞察力ね。えぇ、そうよ。この身では、まだ・・・・・・半分も出し切れないわ。だけど、それを支えてくれるのが私の臣下と家族達よ。同時に私だって力を戻している最中だもの」
「では、いつ戻られるのですか?」
「さぁ?風に聞いて」
ふざけた口調で夜姫が言うと、顔良は眉を顰めて声を低くした。
「お言葉を返すようですが・・・・・・私は!?」
「何を言いたいのかしら?顔良」
スゥ、と夜姫は顔良の首に扇を当てる仕草をして聞いたが、それが顔良には・・・・・・白刃に感じられて言葉を紡げなかったのだ。
「どうしたの?言いなさい」
尚も問い掛ける夜姫に顔良は汗を流して、文醜も言葉を言えなかった。
「顔良、貴方の言いたい事は理解できるわ。袁紹を護らんが為に言っているんでしょ?でも、さっきも言ったけど・・・・・・私も力を戻している最中よ。そして臣下と家族も居るわ。これに関しては何も言わないで」
「ぎ、御意・・・・・」
やっとの思いで顔良は言い、文醜にも夜姫は問い掛けた。
「文醜も良いわね?」
「御意・・・・・・」
「二人とも安心して。口約束だけど、私は義理に厚い方だし讒言にも耳を傾けるわ」
『・・・・・・・・・』
二人は汗を流しつつ頷いた。
「信じるか、信じないかは貴方達の勝手よ。どうする?」
このまま帰って袁紹を生かすか、または灸を据えて皆で一団となり・・・・・乱世に備えるか。
「どうなの?答えなさい」
『・・・・信じます。故に我らが主人を・・・・・・・・・』
「分かったわ。では、この儀に関しては・・・・・・この織星夜姫が請け負うわ」
『御意』
今度は二人とも汗を掻かずに承諾の意を示した。
そこへ袁術の部下が来て、宴の準備が出来たと伝えたのは間もなくだった。