18
俺が先導して体育館を出ると、すぐ後ろに廊下を端から端まで埋める隊列がぞろぞろと続いた。そのまま渡り廊下を通って教室棟の二階へ出て、一番近場の二年四組を目指す。
いやしかしなんだろうね、この操り人形の軍団を率いているような気分は。空虚。虚無。これも見えない壁のせいだね。見えない壁に怖れをなすあまり、自分の意思というものが、ほら、押し込められてしまうんですよ。だからまあ、準備で苦労した方々には大変申し訳ないけど、小生は容赦しないよ。完膚なきまでにぶっ壊すよ。文化祭を。人間を取り戻すために。
そんな風に胸中でエクスキューズしながら二年四組の教室に辿りつくと、出し物はタコ焼き屋だった。看板には一つだけ大量にからしの入ったロシアンルーレットタコ焼きだの、タコの代わりに何か違う具の入ったミステリータコ焼きだの、工夫を凝らしたメニューが書かれ、飾り付けとともに楽しげな雰囲気を醸し出している。が、誰一人客のいない教室内では男どもがぼんやりとしているだけで、少しも楽しくなさそうである。ははは。タコと時間を腐らせているタコ野郎どもの集い。
「邪魔するでっ」
俺はばさりと暖簾をくぐって足を踏み入れた。
「いらっしゃーい」
気の抜けた声で接客をした男は、後から後から入って来る大勢の女子を見て、そのまま固まった。
「攻撃開始!」
すぐさま号令をかけると、間髪いれずに無数の水風船が飛び、男どもに向かって飛んだ。
水風船は呆然と立ち尽くす男どもに次々と命中し、ビシャビシャと音を立てて破裂した。相応のリアクションがあってもよいはずなのに、この事態があまりにも男ども予想を超えていたためか、彼らはただただ水風船を当てられる的ででもあるかのように突っ立っている。この程度の事態で脳が麻痺してしまうとは情けない。この見えない壁に骨抜きにされた俗物どもがっ。
「攻撃止め!」
ピタリと水風船攻撃が止まる。
男たちはずぶ濡れになって、水滴を滴らせながらまだ『訳が分からない』と言いたげな顔をしている。ああ、無様。
「ははは。おもろいわぁ。マジで客一人もいないじゃん。俺が学校の前でちょっと握手会開いたらこのザマかよ。お前らここにいて面白いの?必死こいて準備して、飾り付けた部屋でだらだらと休みを棒に振って、何も使わなかった道具とか飾りを片付けるのが面白いの?それがお前らの青春なの?まさかね。そんなことないよね。じゃあなんで明らかに狙ってお前らから楽しみを奪ってる俺に反撃してこないの?倫理とか常識とか空気とか、そういう見えない壁に阻まれてるからだよね。それをぶっ壊す勇気もないもんね。だから、こんな詰まらないことを強いられてるんだもんね。そんなお前らにはこれがお似合いだよ」
俺はすぐ隣にいた女から水風船を一個もらって、正面の男に投げつけた。
ビシャ。
水風船は見事男の腹に命中して割れた。
「せいぜい水浴びでも楽しんだらどうですか?ほほほ。ま、そういうわけで、じゃあな」
終始呆気に取られっぱなしの男たちをよそに、俺はさっさと踵を返してその教室を出た。そのまま教室から教室を渡り歩くようにして二年の教室全てに挑発と水風船をばら撒き、階段を下りて三年の教室へと向かう。
階段を下りきってから、俺はすぐそばの理科実験ショーの看板がかかった三年三組の教室に飛び込んだ。
「ん、あ、八代。てめぇ、何の用だ」
飛び込んだ拍子に飛んできた声の方を見ると、かつて他に先駆けて彼女を奪われた恨みを実力行使で俺に晴らそうとしてきた三人の先輩の方々である。どうやら彼らのクラスらしい。
「あ、どうも。いやあ、先輩たち理科の実験ショーですか。でも、うくく、客がいなきゃただの自習じゃないですか。あ、もしかして受験を意識したんですかね?高校最後の文化祭が理科の自習とか真面目すぎじゃないですか。そんなんで面白いんですか?あ、面白そうじゃないですね。じゃあもっと面白くしていきましょうよ。攻撃開始」
俺の言葉を聞いて殴りかからんばかりの剣幕で迫ってきていた三人組に水風船が集中砲火される。
「どわっ」
「何だ」
「やめろ」
次いで他の奴らにも水風船が飛び、すぐに三年三組もびしょびしょになる。
「ではごきげんよう」
そのまま人数を分担させて三年の教室も次々とずぶ濡れにしていき、三階へ上がって一年の教室も全滅させると、水風船がなくなった者から即刻帰宅するべし、と女たちに告げて回り、俺は一人で体育館に向かった。廊下にはあちこちに水たまりができていて、このままではどう見ても明日は文化祭を開催できなさそうである。ははは、傑作。
空っぽの体育館に着くと、俺はその真ん中に座りこんだ。
もはや劇でも何でもなかったが、やれることはやった。前代未聞なくらいのレベルで文化祭はぶっ壊した。後は男どもの反応である。あれだけのことをされても黙っているのだろうか。それともやはり何らかの報復をしてくるだろうか。それならどんな報復をしてくるだろうか。その報復で見えない壁をもっともっと壊すことは可能だろうか…
ふと力が抜け、俺はそのまま横になった。
可能だとして、結局それでどうなるんだ?見えない壁が修復されようもなく壊されて、この大原高校だけでも見えない壁のない、個人個人がまったく空気を読まない、一切他人と協調しない、そんな空間ができたとして、それってすげぇ居辛い空間ではないだろうか。いやいや、協調することに馴染んでいるから居辛く感じるだけかもしれないし、そもそも、俺はまったく協調するなと言っているのではなく、我慢してまで協調するなと言いたいのだ。そうなのだ。
つまり、それぞれが言いたいこと言って、やりたいことをやる世界。ははは。何それ?やっぱりどう考えても住みにくいわー。絶対正気じゃ、やってられぬな。そんな狂気に満ちた世界は。
なのに、何故かおもろそうだと思ってしまう。そうならないかなと期待してしまう。
迷惑千万な話かもしれないが、最初から俺は社会を良い方向に導こうとして、見えない壁と戦っているわけではない。俺が戦いたいから戦っているのである。
そんな理由で人に迷惑かけていいと思っているんですか?と言われれば、むろん良くないと答える。自分がされたら嫌じゃないんですか?と訊かれたら、もちろん嫌だと答える。それは人間としてどうなんですか?と問われれば、それはクズでしょうと即答する。
それでも俺は見えない壁と戦い続ける。俺がそうしたいから。
迷惑でも、悪いことであっても、クズの所業であっても俺がそうしたいのだから仕方ない。俺の体を動かすのは俺の意思なのだから。体は意思の通りに動くべきなのだ。そして俺はこの考えを全ての人間に押し付けようとしている。それも俺の意思だ。
何と傍迷惑な意思だろう。
我慢や協調で形成された社会に生かされているのが分かっていながらも、それを否定したくてしょうがないとは、我ながら呆れるほどの矛盾である。
しかし嘆いたところで、もう止まれない。いや、止まれるやろ。だって、ただ我慢して周りに合わせればいいだけやんけ。などと真剣にレスポンスされると、ははは、まあ、そうなんだけどね。
けど、それができない。
それができないというのは人間として絶対あかんよね。けど、できないのである。いや、できないと言うと言い訳くさい。したくないのである。
だから戦うしかないというよりは、戦いたいのである。そして、人間したいことをしている時は楽しいのが基本だ。
そう、つまり俺は最初からこの戦いを楽しんでいたのである。
俺は今初めて納得した。すると、それまで何も聞こえなかったはずなのに、遠くの方でかすかに物音がし始めた。耳鳴りかと思ったそれは徐々に大きくなり、ついに床が小さく震動し出す。
俺は起き上がった。
「こっちだ、こっち」
「囲め」
音はすぐに声に変わり、それと同時に体育館の全出入り口から大勢の男どもが雪崩をうって入ってきた。
男たちはあっという間に俺を囲み、包囲網を小さくしていく。百人?いや、二百人はいるだろうか。半径三メートルほどの円を残して男たちは俺に詰め寄った。
「お前は一体何がしたいんだ、八代」
最前列の男の一人が言った。顔を見ると、例の三年三人組の一人である。
「正直、俺にも分かりません」俺は極めて素直に答えた。
「ふざけんじゃねぇぞ」
全員が口々に罵り、体育館いっぱいに怒号が乱れ飛ぶ。
「ただ俺は、これだけは言いたいんです」俺は声を張り上げて怒号を鎮める。「無理に他人の意見に合わせたり、空気を読んだり、うわべばっかり協調したりしてんじゃねぇよ、てめぇら!寒々しくて見てられんわ。そんなに孤立が怖いのか?そんなに対立が面倒なのか?適当な生き様だなぁ、ええ?そんないい加減に生きてる奴らから文句言われたくねぇんだよ。まったくお前らときたら、もう少し意識的に生きられねぇのか。気に食わないことや、引っかかることがあったら一々突っかかっていけよ。周囲に合わせたり、疎まれることを恐れたりして、無視するな。それは自分の気持ちを無視しているのと同じだぞ。そんなんだから自分が無くなるんだよ。そんなんだから社会の歯車になり果てるんだよ!」
天井に反響した俺の言葉が消えない内に、辺りは蜂の巣をつついたような騒ぎになる。
「アホか、てめぇ。気に食わないことに一々突っかかる?そういう奴のことを社会不適合者って言うんだよ!」
「空気を読まない奴の方がよっぽど適当に生きてるだろうが」
「社会の歯車にさえなれない奴は社会のゴミなんだよ、分かってんのか?」
ははは、マジレスの嵐。
「うるせぇな、その通りだよ!」
いきなり全肯定され、戸惑った男どもは黙りこんだ。
「けどな、俺が言いたいのは自分が社会に適合するばかりでなく、社会の方を自分に適合させるくらいの気概を持てって言ってんだよ」
「そんな奴らが増えたらカオスになるだろうが。バカか、てめぇ」
「何言ってんだ、こいつ」
「真性のイカレ野郎だ」
「どうかしてるぜ」
再び男どもが口々に俺を罵倒し始めたが、最前列の一人が「一体どういうつもりでそんなことを言ってるんだ、お前は」と言ったのを潮に、再び罵倒は鳴りをひそめた。
答える素振りを見せると、全員の視線が俺に集まる。
「まだ分からないのか。そっちの方が楽しいだろうが!」
今度は誰も言い返してこず、俺の言葉は広い体育館にこだまして虚しく消えていく。
「よーし。そろそろ制裁を始めるか」しばらくして、例の三人組の一人が言った。
そうだな、やろやろ、と他の奴らも相槌を打つ。
「おい、俺の言葉は無視か」
「呆れてものも言えねぇよ。どの道、話しあって分かり合うのは不可能だ」
「八代、まずはたっぷりやられた分をやり返すぜ」
背後の男が言ったので振り返ると、男は持っていた袋から水の入った水風船を取り出した。袋はパンパンに膨らんでいる。あれ全部水風船か…ていうか、よく見ると五人に一人くらいの割合で膨らんだ袋を持っていて、それらすべてから次々と水風船が出てくる。
「何でそんなに水風船を持って…」
「協力者がいるんだよ、こっちには」
男の言葉で俺は一瞬にして光輝の仕業だと分かった。作戦用に買い集めた水風船は全て陰険部の部室に置いていたが、前述の通り光輝が気合を入れて集めた量は並大抵ではなかった。やはりあれほどの量が今日の握手会で消えたとは思えない。すると、あいつは作戦終了後、怒りに燃えた男どもに気前よく水風船を分けて、その怒りの炎に油を注いでやったわけか。
あいつ…なかなか見所があるじゃないか。
「覚悟しろ、八代」
「すいませんでした」俺はその場に土下座した。「俺が悪かったです。許して下さい」
途端に、男たちからフッと勢いが消えた。
「おい、ふざけんな」
「今更なんだ」
「謝って済むレベルじゃねぇぞ」
再び轟々たる非難の嵐が起こったが、水風船は一つとして飛んでこない。
納得できぬのならとっと投げればいいものを。一度空気が変わると、すぐそれに流されるとは本当に情けない奴らだ。頼むから誰か、この空気を破って開戦してくれ。
「すいませんでした。本当にすいませんでした。二度としません。許して下さい。お願いします」
「どうすんだ、これ」
「ここまできたらやるしかないだろ」
「いやでも、あれ。普通に反省してない?」
「バカ、八代だぞ。そんなことあるか」
「え、でもこんな土下座してる奴に集団で水風船投げつけるのかよ…」
非難の嵐は徐々に、ぼそぼそとした囁き合いになる。
おいおい、いい奴らだな、お前ら。こんなんで矛を収めるのかよ。くそ、予想外だ。これはまた手のひらを返して挑発するしかないか…
「止めましょう!」俺が体を起こしかけると、聞き覚えのある声が響いた。「俺たちは人に迷惑をかけて平気でいる八代を懲らしめに来たはずです。しかし、今の八代は心から反省している。彼は自分の非を認め、負けを認めたんです。敗者に鞭打つのは、それこそこいつのしてきた空気を読まない行動じゃないですか」
声は包囲網の周縁から中心に向かって近づいて来ている。
「だが、こいつがやったことを考えると」
「振りという可能性も十分にあるし」
「確かにそれは否定できません。けれど、たとえ振りだったとしても、ここでこいつを信じてやれば、それを機に変わるかもしれない。一度くらいはその可能性に賭けてみてもいいんじゃないですか?もし、こいつが俺たちを裏切ったら、その時は俺も責任を取りましょう」
声は俺のすぐ前で止まった。少し顔を上げると、一メートルほど先に上履きのつま先が見える。
「そこまで言うなら、まあ」
「そうだな」
男たちは許す意見に賛成し出し、瞬く間に矛を収めるようなムードが蔓延する。
「ありがとうございます。良かったな、八代」
「や、山内か?」
「ああ」
「お前、何で…俺はあれほどお前にも嫌がらせをしたのに」
「それでもクラスメートだ。さ、顔を上げろよ」
聖人か、こいつ。まあ多少感動しないことはなかったが、これで計画がおじゃんだ。あ、でもここからさっそく山内を裏切るのも手か?それだと結局俺から見えない壁を壊しにいくことになるが…
次の一手を考えながらゆっくりと上げた顔に、突如強烈な衝撃が走った。
「ぶわっ」
仰向けに倒れそうになる寸前で手をつき、踏みとどまる。
な、何だ…?
顔中から液体が滴り落ちている。血かと思って拭うと水だった。どうやら水風船を投げつけられたらしい。
「なんてなぁ。そんな簡単に許すわけあるか、ボケが」山内は至近距離からさらに水風船を投げつけてくる。「おらおら、てめぇにはきっちり仕返しさせてもらうぞ」
「ぶはっ、ちょ」
信じていたぞ、山内。とうとうやってくれたな。まったくお前という奴は最高だよ。称賛の言葉が後から後から湧いてくるが、山内が顔を中心に狙ってくるせいで目と口が開けられず、言うことができない。
「ほら、何してんだ、お前ら。どんどん投げろ。積り積もった恨みを晴らすんだろ」山内は見事に手のひらを返して、周囲の男どもを煽る。
「いやだって、お前…いや、そうだな」
「お、おう」
「もちろんだ」
「やるぞ」
眼前の出来事に呆然としていた男たちも、思い出したように参加し始めた。
徹底した集中砲火で俺はあっという間にずぶ濡れになり、それでも止まない攻撃を水たまりの上で丸まって耐えた。それでも攻撃が止まないので、ついには立ち上がって無理矢理包囲網の中に突っ込んだ。
「うわっ」
「逃げる気か、こいつ」
「ちょ、こっちに投げんな」
構わず投げつけられる水風船が他の奴に当たる。
「おい、やめろ」
「冷てぇ」
「やめろってば」
「やめろって言ってんだろ!」
ついにキレた誰かが水風船が飛んできた方向へ投げ返し、それがまた関係の無い奴に命中した。
「わ、ふざけんな。何しやがる」
そこからの連鎖はあっという間だった。とばっちりを食った奴が投げた水風船でとばっちりを食った奴が投げた水風船でとばっちりを食った奴が…と、攻撃対象は瞬く間にその場にいる自分以外の全員になった。
「やりやがったな」
「おめぇが先だろうが」
「今のわざとだろ」
「大体、八代もムカつくが俺的にはお前も大概なんだよ」
制裁は一転して集団大喧嘩になり、水風船はてんでバラバラに乱れ飛んだ。
余裕ができたところで俺は着ていたTシャツを脱ぎ、捩じって棒状にすると、それで近くにいる奴をぶっ叩いた。
「いってぇ」
振り返って背後の奴も叩く。
「痛っ。なんだこの」
「おらおらおらおら、かかってこいや、雑魚どもが」
水風船が無くなりかけていたこともあって、戦いはスムーズに殴り合いへとシフトしていった。すぐに俺の顔や腹や背中や脚にも蹴りやパンチや捩じりTシャツによる打撃が入る。
それは普通に痛かった。
自分で始めておきながら、もう止めてくれ、とすぐに思った。思っただけでなく、言った。そして誰も聞いてなかった。
しかし、俺は顔がにやけるのを止められなかった。
見えない壁はもはや跡形もなく消えていた。




