87.会心の一撃は突然に
凪の胸の奥で、何かがほどけた。
ずっと胸の中で絡みついていた言葉。
非合理。
非効率。
無駄。
それらが、今この瞬間だけは意味を持たない。
目の前の背中は震えている。
灼熱大猿の腕が、盾を押し潰そうとするたびに、大弥の足が床を削る。
金属がきしむ。
熱で空気が歪む。
盾の中央の隙間から、炎が吹き込む。
それでも大弥は動かない。
凪の目の前に、壁のように立ち続けている。
(……この人)
凪は、喉の奥で小さく息を吸った。
(こんな状況なのに)
(怖く、ないの……?)
いや、違う。
怖くないわけがない。
大弥の肩は震えている。
腕は限界に近い。
歯を食いしばる音まで聞こえる。
それでも。
退かない。
(……)
凪の胸が、ぎゅっと痛んだ。
(私、)
(この人のこと……)
(ずっと馬鹿にしてた。)
非合理。
非効率。
巻き込み体質。
そう思っていた。
でも今、目の前にあるのは違う。
誰よりも状況を理解していて。
誰よりも危険な場所に飛び込んで。
誰よりも早く決断して。
そして今。
誰よりも近くで、死にかけている。
(……)
凪の指が、杖を握り直した。
震えている。
まだ体調は完全じゃない。
胸の奥の熱も消えていない。
それでも。
凪は、ゆっくりと息を整えた。
「……分かった。」
かすれた声が漏れる。
大弥は振り返らない。
だが、聞こえている。
「オニキス……?」
「……やる。」
凪は杖を胸の前に持ち上げる。
魔力を練る。
体の奥で、まだ何かが削られる感覚がある。
だが、それでも止めない。
(風よ……)
凪は目を閉じる。
(巡れ。)
小さな魔法陣が足元に浮かぶ。
「風よ、巡れ。」
淡い風が大弥の体へ流れ込む。
最初の強化。
脚。
踏み込み。
重心。
ぐらりと揺れていた大弥の足が、ほんの少しだけ安定する。
大弥の目が見開かれた。
「……っ!」
(まだ……)
凪は続ける。
「刃を、鋭く。」
今度は武器強化。
風の魔力が、大弥の弓へ絡みつく。
まだ弓は構えていない。
だが、準備は整う。
さらに。
凪は杖を強く握った。
胸の奥の魔力を、無理やり引きずり出す。
「貫け。」
三つ目。
貫通強化。
魔力が流れる。
それはいつものように、穏やかではない。
荒い。
乱暴。
だが、確実に大弥へ届く。
その瞬間。
大弥の体の中で、何かが弾けた。
(……っ!?)
魔力が。
流れる。
今まで引っかかっていた場所が、突然開いたように。
魔法核を撃ち抜かれてから、ずっと滞っていた魔力回路。
そこへ凪の強化魔法が流れ込み、刺激を与える。
ぐん、と。
魔力が一気に巡った。
「……はは。」
大弥の口から、小さく笑いが漏れる。
(なんだよ、これ。)
腕の奥まで、魔力が通る。
体の芯が、熱くなる。
(久しぶりだ。)
魔力が、ちゃんと走る。
盾越しに押し込まれていた腕に、少しだけ力が戻る。
ギィン!!
盾が、ほんの僅かに押し返した。
灼熱大猿が、初めて眉を動かす。
大弥はその瞬間、盾の中央の隙間へ手を滑り込ませた。
弓を引き寄せる。
変形弓。
折り畳まれていた弓が、カチリと音を立てて展開する。
ゼロ距離。
盾の隙間の向こう。
目の前には、灼熱大猿の胸。
炎の毛皮。
その奥。
わずかに見える、焼けた筋肉。
大弥は息を吸う。
(……これだ。)
矢を番える。
魔力を乗せる。
そして。
「水よ。」
小さく呟いた。
得意属性。
水。
弓に魔力が流れ込む。
矢が、水を纏う。
ただの水ではない。
圧縮された、水魔法。
一点貫通。
凪の強化魔法が、その魔力をさらに押し上げる。
矢が、青白く光る。
大弥の腕が引き絞られる。
盾の向こう。
灼熱大猿の拳が再び振り下ろされる。
盾が、悲鳴を上げる。
金属が割れる音。
だが。
その一瞬。
大弥は笑った。
「――これで、どうだ。」
弦が鳴った。
バシュッ!!!
矢が放たれる。
盾の隙間。
ゼロ距離。
圧縮された水魔法の矢が、灼熱大猿の胸へ突き刺さる。
ジュォォォォッ!!!
炎が爆ぜた。
水と火が衝突し、白い蒸気が一気に噴き上がる。
灼熱大猿の目が見開かれた。
矢が。
胸を。
貫いた。
「……っ!」
初めて、巨体が後ろへ揺れる。
それはほんの一歩。
ほんのわずか。
だが。
それは。
この戦いで、初めて。
灼熱大猿が――
押し返された瞬間だった。




