謎のバー
白いシャツ、上着は脱いで、黒いジレを着た男が、地下からの階段を上がってくる。
体調が悪く見えるほど顔色は白く、眼窩が極端に落ち込んでいる。
階段を上がり切ると、外の様子を確認する。
通りの反対側にある大きなビルの窓に、月が映って見えた。
「今日は開店しよう」
誰にも聞こえないような、小さな声だった。
そして端に纏めてあった小さな看板を階段横に移動させ、スイッチを入れる。
小さなLED灯に照らされた看板にはこう書かれていた。
『クリムゾン・ヴェイン』
男はバーテンダーで、看板はバーの名前らしい。
クリムゾン・ヴェイン。静脈が赤いと言うのは変だから、意訳して『真っ赤な血管』ということになるだろうか。血管だのだから赤いだろう、とどちらかを省略できると俳句の先生なら言うだろう。
だが、これはバーの店名だ。響きが気に入れば付けてしまう程度の考えに違いない。
看板を設置して、階段を降りていくと、後ろをついてくるように降りてくる女性がいた。
男はそれに気付き、振り返る。
女性は会社員なのだろう、白いシャツと紺のスーツ姿だった。
「栄子さん、今日は早いですね」
「そうよ、今日は長くいたいから」
そう言うと栄子は纏めていた長い髪を解いた。階段を噴き上げるそよ風が、髪を梳かすように流れていく。
二人は店に入ると、無言のまま男はカクテルを作り始める。
注がれた酒は、鮮やかな赤色をしていた。
栄子は口をつけるなり、飲み干してしまう。
「……やっと落ち着いた」
「また部長と何かあったんですか?」
「あったあった」
栄子は会社であった出来事を話し始める。
男は酒をつぎ、つまみを用意しながら、ずっと聞き手に回っている。
そんな調子で、しばらくの間、客は彼女一人だった。
突然扉が開き、男が入ってきた。スーツを着て、身なりはきちんとしているようだが、顔に疲れが見える。手入れが面倒なのか、髪を全て後ろに撫でつけていた。
「いらいっしゃいませ。どんなご用でしょうか」
「まだ何も言っていないが。ここはバーだろう? 客なら酒を飲みにきたに決まっている。どうして客に『どんなご用でしょうか?』と訊くのか?」
バーテンダーは栄子につまみの皿を出すと、カウンターを移動して入ってきた男の近くに寄って行った。
「これは失礼いたしました。少し、普通のお客様と様子が違いましたので」
「まあ、いい」
男はそう言うと警察手帳を見せる。
「警視庁の香山と言います」
彼の声が小さいので、バーテンダーは栄子に聞かせるように声を張った。
「警察の方でしたか」
栄子もわざとらしく、二人の方を振り返った。
「大きい声を出すな」
「……」
「東町輝彦さんだね?」
バーテンダーは頷く。
「単刀直入に言おう。この男を知っているか?」
警察は紙に印刷された男の姿を見せてきた。
見た感じ若い男のようだった。
「……さあ」
「客として出入りしているのは間違いないんだが」
「確かに店は、この通り流行ってなくて、出入りする人の数は限られていますが…… 私も歳のせいか、お客様全ての人相を覚えることは出来なくて」
警察は睨むようにバーテンダーを見る。
「本当に、何も、全く知らない?」
反応を確かめるような雰囲気に、バーテンダーは戸惑い、困ったような顔を見せた。
「わかった、それじゃあ……」
警察は店内、特に天井を中心に見回した。
「ここに監視カメラは?」
「鏡とかカメラとかそう言ったものはここには置かない主義でして」
「どうして? 酔ったら暴れるような奴はゴロゴロしているだろう」
警察はバーテンダーの反応がないことを待ってから言った。
「鏡が嫌いって、まるで……」
「香山さん、もしかして私のことを『吸血鬼』とか、思ってます?」
バーテンダーは少し口角を上げて見せる。
「とにかく、この方は存じ上げません」
「わかりました。思い出したらこちらに電話してください」
個人的な携帯なのだろうか、モバイルの電話番号が書かれた髪を渡して、警察は頭を下げた。
そしてそのまま、栄子のところに行くと同じ質問を投げかける。
栄子も首を傾げた。
「そもそもここのお店、開店する日も、開店している時間帯も、休みの日すらも。全て不定期なんですよ」
「……そうなんですか?」
バーテンダーの方を見ると、頷いてみせた。
「だから、なかなかお客が増えない」
自虐的な笑み。
「そんな調子で、こんな繁華街の近くの店、経営できるんですか?」
「オーナーとは知り合いでね。格安で借りれているんですよ」
「まあ、わかりました。何か思い出したら、小さなことでもいいので連絡をください」
警察が頭を下げると階段へ向かった。
「香山さん、帰り際で申し訳ないですが、一ついいですか?」
警察は背を向けたまま言った。
「何か思い出しましたか?」
「いえ、あなたのその髪です。ちゃんと洗い流さないと禿げますよ」
香山は振り返り、そう言ったバーテンダーも同様に整髪剤をたっぷり付けて、後ろに撫で付けているのを見てから言う。
「あなたはちゃんと洗い流していると?」
「少なくとも香山さんより頻度は高いしょうね」
「つまり、家に帰れと?」
バーテンダーは微笑んだ。
「忙しさにかまけて家に帰るのを忘れていると、色々反動があると言うことです」
「参考にさせてもらうよ」
警察は軽く手を挙げると、足早に店を出て行った。
警察が帰った後、深夜までバーは開いていたが、客は来なかった。
栄子は、カウンターに突っ伏して寝ていた。
バーテンダーが声をかける。
「そろそろ店、閉めますよ」
「ああ、それじゃあお代を払わないと」
「ええ、お願いします」
バーテンダーは左の手の平を栄子に向けると、右から左へ振った。
「お支払いはこちらで」
そしてカウンターの後ろ、酒瓶の並んでいる棚に軽く触れると棚が開いた。
奥へと繋がる入り口らしい。
虚な目の栄子が、カウンターを潜ってバーテンダーに導かれるままその奥の部屋に入っていく。
奥の部屋は、店内より薄暗い。
部屋の右側の据付の棚があり、そこには色のついた薬瓶が並んでいた。
棚の前面にはガラス製の扉がはまっていて、上部から冷気が流れ落ちてきている。
さながら巨大な冷蔵庫だった。
一つ一つ、薬瓶にさまざまなラベルが貼ってあるが、ラベルのタイトルや内容は手書きで、蓋が開いているものや、紙が一緒に立てかけてあるものなどがある。
栄子は、倒れ掛かるようにしてバーテンダーに抱きついた。
「今日は飲み過ぎですよ」
バーテンダーは慣れた感じに抱きとめると、栄子の襟元を素早く広げた。
彼はそのまま大きく口を開くと、そこには『吸血鬼の牙』があった。
「あっ、これ」
栄子は棚を指さした。
「さっき警察が見せた男の子じゃない?」
その棚には薬瓶と、薬瓶に突っ込まれた試験管があり、瓶の後ろには、男の写真とプロフィールが書かれた紙があった。
栄子は体重を完全にバーテンダーへ預けていたが、バーテンダーはガッチリと受け止めていて、ふらつく様子もない。
「どこかの芸能事務所にいそうな男子ね」
バーテンダーは栄子を抱いたまま、立ち位置を反対にして、棚を見せないようにした。
「だめですよ、変なこと覚えて帰っちゃ」
「あっ……」
バーテンダーは栄子に噛みついた。
そのまま血を吸っていく。
彼が吸血鬼の力を維持できるまで、彼女の血を吸った。
栄子は意識を失っている。
バーテンダーが栄子の傷口を、指でなぞるように動かすと傷口が消えた。
彼女を担いで店のスツールまで戻すと、バーテンダーはカウンターに戻り、呼びかけた。
「栄子さん。もう遅いですよ。タクシー呼んでおきましたから」
「!」
栄子は目を覚まし、バーテンダーの方を見る。
「また寝てた?」
「ええ。お支払いは済んでいますよ。何かすごく楽しい夢を見ていらしたようで」
栄子は酔いのせいではなく、その言葉で顔を赤くした。
「わ、私何か言ってました? 御免なさいね」
バーテンダーは時計を見て言う。
「後、二分ぐらいすれば、店前にタクシーが来ると思います」
「ま、また来るわ。店を開ける時は連絡してね」
「承知いたしました。ではまた、お待ちしております」
バーテンダーがお辞儀をすると、そそくさと荷物をまとめて出て行った。
栄子が出ていくと、バーテンダーは血の気配を感じた。
「吸血鬼…… ではないな」
呟いた瞬間、扉が開くと、白衣を着た大男が入ってきた。
いきなり両手をあげている。
大男は争う意思がないことを示しているようだ。
「何のようだ」
その声に大男は跪く。
「突然、失礼します。私はハートリッジ家の極東担当執事で壁谷仁左衛門と申します。あなたは東町輝彦、いや、ドリュー・ナイトスカイ様でいらっしゃいますね」
「そういうやりとりは面倒だ。何度も言わないぞ。何のようで来た」
壁谷は顔を上げる。
「あなたは、血の収集と売買をしているそうですね。その件で一つ確認したいことが」
「血の売買について、答えることはない」
「黒崎健太という男のことを誰かに漏らしませんでしたか?」
東町はバーテンダーの姿をしているが、純粋な吸血鬼だ。
昼も活動できる程度の眷属である壁谷が束になっても敵う相手ではない。
だが、染谷が吸血鬼の脅しに屈しないと言うことは、引き下がれない強い理由があるからだ。
こういう場合、力の差があっても簡単に決着はつかない。
東町も無だに殺し合いをしたり、戦うつもりは毛頭なかった。
「……」
「そうですか。ないのであれば良いのですが」
顔をあげて立ち去ろうとする壁谷に言う。
「ないとも言っていないが、あったかはわからない」
「かなり曖昧なご回答ですね」
「黒崎という男が死ぬより前にあった話だこんな情報が役に立つかは知らないが、売買情報をまとめていたノートの保管位置がズレていたことがある。ここは地下だ。風など、ノートが動くような要因はほぼない。ただ、誰かに侵入されたという確証があるわけではない。ここには監視カメラなどないから、調べようがない。私の勘違いということもあり得る」
吸血鬼は監視カメラや鏡の設置を行わないことが多い。
ふとしたことから、それらの映像で吸血鬼バレするからだ。
「ありがとうございます。それだけでも有用な情報です」
「もし黒崎を殺した男を追っているのなら、十分注意することだ。そいつは吸血鬼を恐れていないからだ」
壁谷は頷いた。
もし東町が言った通りなら、吸血鬼の根城と知ってか知らずか、堂々と入ってきて情報を盗んでいったことになる。相当な無知か、用意周到で度胸が座っている者ということになる。
十分に警戒が必要な相手だ。
情報の対価をカウンターに置くと壁谷は店を離れた。
階段を伸び利切る頃、どこからか視線を感じた。
東町の血の気配、あるいは、別の吸血鬼なのか、曖昧ではっきりしない。
ビルを出た時、壁谷が意識して探そうとすると、その視線は消え去っていた。




