「悪」(17)
ごぼ、と水の音がした。
水に落ちた時のように、あたりに流れる時間がゆっくりになった。ラーフラの意識は今、剣とともにあった。人ではない。己は器だ。流れるものを取り込み、ひととき、とどめておくだけの器だ。これ以上他人の記憶を身体に取り込んだら、もう後戻りできなくなる、という予感があったが、自分以外のものに肉体を委ねるのは、恐ろしいというよりも心地よかった。
そして振るう切先に、ラーフラの意識は同化する。
ざぷ、とやはり水の音がする。
水音を立てながらフランチェスカの剣はムル喰いの死骸を切り裂く。まっすぐ、正確に剣を振れば誰が振っても皮や肉、骨程度なら二つに切れるのだ。みち、と両腕が悲鳴をあげている。器が違う。鍛え抜いたフランチェスカと同じように腕が、背筋が、体幹が出来ていない。縦に振り下ろし、そのまま斬りあげ、回転しながら横なぎに振る。ムル喰いの前脚が三本、斬り飛ばされて落ちた。
残りは五本。
考えている暇も、余裕もない。ネクロマンサーの正体に迫ったというのはただのブラフだ。どのみち、ムル喰いを無力化できなければ、全員がここで死ぬしかないのだ。
(おあああああ!!)
叫びながらラーフラはもう一度回転する。体当たりにも似た猛烈な勢いの剣勢。さらに二本の脚を斬り落としてラーフラは止まった。
どう、と音を立ててムル喰いの身体が崩れた。
落とされた脚の多さにバランスを崩したのではない。死骸を支えていた、死霊術の緊張がはっきりと消えていた。ネクロマンサーが、ムル喰いの死骸から去ったのだ。
果たして、彼がそれを理解したのか。誰にもそれは分からない。ムル喰いが崩れるのと同時に、彼の中で決定的な音がした。
ばしゃ、と耳の奥で聞こえたそれは、やはり、水の音をしていた。
(……)
見えるはずのないものが、彼の目には映っていた。そこに立つのは、見たことがないはずの彼の両親であった。闇の中、剣の届かぬ距離、手の届かぬ距離で、若き幻影の夫婦は彼を見つめていた。チェイニーの妹が不安そうに立っている。シジマがかつて殺めた司教がいる。そして、フランチェスカの兄が寝間着のまま、見つめている。
ラーフラの視界はもはや血の赤ではない。暗く、深い帳が彼の視力と意識を奪っていた。剣を下げて立つ彼は、すでに彼であって彼でない。堅く、剣を握る指は血の気を失って白く、ほどけることはない。爪は掌に食い込んでいる。
荒く息をつく探索者の目には、何も映ってはいない。
彼の意識は、動くものをすべて斬る、というたったひとつの目的だけを残した。彼の目は、何も写していない。
かつて彼が開けようとした隠し扉のドアノブが回ったのも、正確には、彼には見えていなかった。微かに軋む音をさせながら、扉は部屋の向こう側からゆっくりと開いた。
少し小柄な人影が、ドアを開けて奥の部屋から出てきた。
(ラーフラ、“ギフテッド”、ダンバーズ)
傷だろうか。肩口を押さえながら、人影は呟いた。その念話には、隠しきれない焦燥と、憎しみがあふれていた。
(たしかに、見くびっていたよ…)
チェイニーが纏っていたのと同じローブだ。深く、フードのその奥の容貌を窺わせない。人影はしばらくラーフラを観察して、鋲のようなものをラーフラに放った。
自身の顔めがけて飛翔するそれを、ラーフラは自動的な動きで斬り落とす。彼は今や、意識を失っているが、己の剣の範囲に近づくものを全て斬る、剣鬼と化している。
彼の足元には、シジマとフランチェスカが倒れている。どちらも、まだ息がある。
(殺しておくべきだった)
人影は、ぎり、と拳を握った。
死体、という手持ちのカードが尽きたことは間違いない。そして、この限られた時間で三人を片付けてから去るにはあまりにもカードが足りなすぎる。
赤襟一族は、基本的に単独依頼を受けない。傭兵は依頼の達成を何よりも重要視する。特に探索や護衛は、どんなに簡単に見えるものでもバックアップをつけないことなどない。
あまりにも時間をかけすぎると、バックアップ班が駆けつけるはずだ。依頼人であるシジマの保護、そこに赤襟の事務方はどの程度の時間を見込んだのか。
もともとここまで時間をかけるつもりではなかった。誤算が多すぎる。龍の国で雇った下僕は思いのほか役立たずだったし、どうにでもなると思っていたラーフラや、他所者の見習い道士がしぶとかった。
癪だが、自分の準備不足、見通しが甘かったと認めないわけにはいかなかった。
(クソッ。忌々しい、これが龍の国か)
舌打ちを漏らす人影こそが死霊術師、その人であった。
絶望的に思えたシジマの奮闘は、ラーフラたちの手は、死霊術師のすぐ喉元に届いていたのだ。




