「悪」(15)
声もあげずにシジマは地面に叩きつけられた。インパクトの瞬間、身体がぐにゃりと崩れて、明らかに意識を失ったのが見てとれる。
(シジマちゃん!)
ラーフラは戦闘職ではなかったが、悠長なことを言っていられる状態ではなかった。シジマの肘に裂傷が見えるが、深い傷ではない。それよりはおそらく、倒れた時に頭を打ったようだった。ムル喰いが再度、腕を振り上げる。
彼は、地面を蹴るようにシジマの元へ低く跳び、彼女を抱えて転がった。ムル喰いの追撃が空を切って床を抉る。そのまま部屋の中央、フランチェスカの側まで転がるラーフラ。
ズキン、と触れた肌からシジマの記憶が彼に流れ込んだ。
ズタズタに引き裂かれた女の顔。あがる青白い炎。見たことのない街の風景。ネクロマンサーの声。痩せた男の死。のしかかる白髪の男。立ち上がるムル喰い。雪原の風景。
彼が倒れていた間に起きたことが、体験したことのように理解できた。理解できてしまったとも言える。見ないようにしたつもりが、隙間から流れ込んできてしまった。覚醒したばかりの能力の制御がまだ、追いついていない。漏れ伝わってきたにしては情報量が明らかに多い。しかし大丈夫、まだコントロールできている。己と他人の記憶の区別は、まだ、ついている。
ムル喰いが、死人の不器用な動きで三人に向き直る。
フランチェスカとシジマ、そしてもう居ないアスタミラ・チェイニーの記憶から、色々なことがわかった。ネクロマンサーは、ラーフラを殺そうとしていたということ。フランチェスカを何かの勧誘にきたということ。そして、自分の体験した地獄のような拷問のこと。
どうしてフランチェスカを狙っているのか。そして、どうして自分を殺そうとしたのか。
(ネクロマンシーめ!)
彼は続けて、傍に転がったシジマの杖を引き寄せた。触れた瞬間、今度は杖に宿る記憶が見える。
それは殆どが鍛錬の記憶であった。柄もなく、刃のない武器である杖。シジマがさっきも見せたように、両端を巧みに入れ替え、変幻に、突くように使うのが定石である。
彼は、シジマの杖に宿る記憶を“使って”杖を操る。
まるで人間のように前脚を高く掲げたムル喰いの身体の中心に、低い体勢から杖を突き出す。正中、口にあたる裂け目で、その牙で、ムル喰いは杖を受けた。のしかかろうとしていた自身の勢いも加算された。ずぶ、と杖は獣の口中に刺さる。声を持たぬムル喰いの、苦痛の振動が杖を通してラーフラの掌を揺らした。
もう一度。
ラーフラはシジマの記憶どおりに自身のエネルギーを杖に流し込む。
(ッ!!)
ムル喰いの口中で火花が散るが、同時に焼き切れるような苦痛がラーフラの脳を焼いた。使ったことのない回路のせいだ。右目の視界が真っ赤に染まる。直感的に何度も使っていいものではないことが判るが、今、目の前の死獣を倒さなければ三人とも死ぬしかない。
(もう一度!)
全力で流し込むと、ばちん、とムル喰いが身体を激しく痙攣させたが、ラーフラ自身にも激痛が走って身体が硬直する。杖から手が離れた。両の視界が真っ赤で目が見えない。握り直そうとするが掌は空を切った。杖は、杖はどこだ。
流し込んだエネルギーの手応えは弱かった。決め切れたとは思えなかった。そりゃそうだ、と激痛の中、彼は自嘲のように思う。ぼくは、戦闘職ではないのだから。新しい能力で借り物の技術を使えるようになっても、所詮は時間稼ぎだ。たかが知れてる。このままフランチェスカが目覚めなければ、このパーティは全滅だ。ちくしょう。こんなことなら、向いてないなんて言わずに真剣に武術を身につけておけばよかったな。
(……待てよ)
ラーフラの脳裏に、一つの疑問がよぎる。
じゃあ、なんでネクロマンサーはそんな足手まといの、この弱っちいぼくを“一番最初に”殺そうとしたんだ?
高速で推論が積み上がる。
ラーフラが隠し扉に触れた時、彼が苦痛を撒き散らして部屋の殆どを昏倒させるような事態をネクロマンサーは想定していたわけではなかった。おそらくは、自分が静かに再起不能になることを期待していた。そうだ。邪悪で周到な準備をしてまで。
フランチェスカと交渉する時、あるいは交戦する時に自分が邪魔だったのか?
違う。
ならば聞かれては困ることがあったのか?
違う。
そうではない。
そうだ。思い出せ。己の能力はなんだ。そうだ。サイコメトリーだ。触れたものの記憶を読み取り、“探索する者”だ。ネクロマンサーがシジマやフランチェスカにしたように念話で語りかけてこないのは、おそらく話すに値しないからではない。ネクロマンサーは、ぼくを、過去を、おそれている。つまり。
(……ネクロマンサーッ!)
振り絞るようにラーフラは叫んだ。
そこに勝算はない。しかし、時間稼ぎが必要ならば、これしか方法はない。彼は記憶にある限り初めて、念話で『嘘』をついた。
(今…ぼくは…ムル喰いを通して…おまえを“視た”ぞ…ッ!)




