「悪」(5)
ラーフラとフランチェスカの付き合いは長い。くだけた場面では、フランチェスカは彼のことをラフィ、と呼ぶ。彼女が他人を愛称で呼ぶのは珍しい。
トレードマークとなった濃紺の口布。音のしない軽鎧を着込んだヒューマンの青年は、仕掛けと格闘している相棒の側に歩み寄った。
片眉を上げて彼女の手元を覗き込む表情は、室内の惨状を意に介していないようにも思えるが、単に心から相棒を信用しているのだ。相棒が室内はクリアだと告げ、自分を呼んだ。つまり、自分の能力が必要になったということなのだ。
ラーフラ “ザ・ギフテッド” ダンバーズ。
公式の場では名前を呼ばないという龍の国の慣習で、彼はしばしば“贈られたもの”と呼ばれている。ラーフラは幾多の龍の加護を得たものの中でも、もっとも“贈られたもの”と呼ばれるのが相応しい。
もともと、素肌に触れたものの情報を読み取るサイコメトリー能力を持っていた若者が、龍の加護により、それを他人に伝達するアクティブテレパスを得た。微弱ではあるが、それは大きなギフトであった。
まるで龍が彼を見て、そして選んでそれを贈ったように、加護は彼に必要なピースを与えた。龍は人間を区別しない。その才も、欠落も、性別も身分も年齢も見ない。だが、まるで彼は龍に祝福されたようだと、誰もが口にした。
かつて龍の国に流れ着いたダンバーズは、生まれつき口がきけなかった。
生まれたばかりの彼は、その豊かなサイコメトリーの能力を制御する方法も、十分に表現する手段も持たなかった。もっとも根源的に不幸だったのは、彼が望まれて産まれたのではなかったということだった。
生まれた瞬間、素肌に触れる全てのものが、おまえさえ居なければ、と彼に囁いた。それは肌着に染み付いた情報だった。おむつに込められた呪いだった。もしかしたらそれは、彼の両親が思ったことの全てではなかったのかもしれない。しかし、物に強く刻まれた情報は残酷に、繰り返し彼に否定を繰り返した。彼はサイコメトリーに苛まれながら育った。悪意や敵意、害意や苦痛といった強い感情は器物に宿りやすい。彼は、言葉を覚えるより早く、常に呪いとともにあった。
あるいは彼が初めて触れたおしめに、肌着に、おくるみに、この子は望んで授かったのだという幸福な思いが、愛情に溢れた思いが、僅かでも込められていたら違ったのかもしれない。しかし、それは考えるだけ詮のない話だ。
お前さえ居なければ。
それは呪いとなってあらかじめ彼の中に刻み込まれた。
もはや誰にも知り得ないことではあるが、彼の両親もまた、その腕に彼を抱くたびに耐え難い恐怖、苦痛、不快に襲われていた。おそらくは龍の加護を受ける以前にも、既に能力の芽はあったのかもしれない。彼の未分化のテレパスがそのように作用していたのであれば納得できる話である。
子を疎む自身の声が、とてつもなく増幅されて返ってきただけの話といえばその通りではあるが、直接脳内に「自身を否定する概念」を流しこまれることに耐えられる人間は少ない。ラーフラが発狂せずにいたのは、最初から世界は「そういうものである」と認識していたからにすぎない。
結局彼の親は、まだ幼く言葉を知る前の彼に“ラーフラ(悪魔)”と名付けて捨てた。彼が己の名前を知っているのは、やはり、そのサイコメトリーの能力に拠る。捨てられた彼が唯一身につけていたものに刻まれた声。
「ラーフラ、お前はラーフラだ。やはりお前さえ、お前さえいなければ」
山に捨てられた彼が生き延びたのは、子を失ったばかりの母狼が彼を拾ったという偶然に過ぎない。複雑な言語を持たない動物は、彼にとって相性が良かった。ひょんなことからダンバーズの猟師に拾われるまで、彼は何年かを野山で過ごした。
きわめて壮絶な過去ではあるが、彼自身は世界は「そういうものである」と認識していた。誰を恨むでもない。憎むこともない。彼の精神は、穏やかさの中にあった。
龍の国に来て、初めて彼の本当の人生が始まったと言っても良いのかもしれない。彼は龍の加護により、新しい意志伝達の手段を得た。
その凄惨な経歴にも関わらず、彼はねじ曲がることも人間種全体を憎むこともなく、新しい能力の使い方を習得した。言葉を持たなかった青年は少しずつ、他人との関わり方を学んだ。彼が、育ての親である狼の手から猟師に受け渡され、その好意と善意と、わずかな偶然から龍の国に辿り着いたのは本当に幸運であったというしかない。
ラーフラが龍の国の住人となって最初に出会ったのがフランチェスカだった。
フランチェスカには、社会人として困った部分もあったが、その思考回路は、かつてともに暮らした狼と同じように、傷だらけの手を持つ猟師のようにシンプルだった。彼女はあまり二つのことを同時に考えない。自身と自身の仲間が生存することを第一に考え、他人のことを深く考えない。彼女の使っているものに触れる時、不快な感情や苦痛が彼を襲うことは少なかった。簡単に言えば、彼女は深層心理のレベルではたいへん気持ちの良い人物だったのだ。
彼女がそうしているように、ラーフラも彼女のことを愛称で呼ぶが、人によって聞こえ方が違う。フランカ、と聞こえる者もいる。チェスカと聞く者もいる。ラチェットと聞こえる者だっている。つまり「愛称という概念」なのだ。念話には、そう言った奇妙な曖昧さがある。
彼の生来の能力であるサイコメトリーは、それを他人に伝える能力の開花によって、彼を龍の国随一のシーカーの座に押し上げた。隠されたものを探索する能力、起きたことを掘り起こし、真実を暴く能力。誰も彼の前で嘘を吐き通すことができない。
(代わろうか)
ラーフラの声はやさしい。
「ああ、これは、私にはちょっと難しいな」
素直に一歩、場所を開けるフランチェスカが目をやると、傍では痩せた男がまだ咳き込んでいて、シジマがその背中をさすっている。振り払う元気も残っていないらしい。シジマは男に対してまだ、徳がどうのといったことを語りかけている。
軽いため息をついて彼女は相棒の手に目を戻した。
人差し指と中指を抜いた手袋。傷がいくつか残る、ラーフラの白く細い指が、書棚に伸びた。彼が書棚に残された情報を読むとき、部屋には、しいん、とした音が満ちた。




