「悪」(4)
男はにじるように、フランチェスカから離れるように壁に沿って動いた。
「その、逃げようとする挙動は、話す気はないと受け取ってよいのかな」
追って女騎士が距離を詰めると、男は怯えたような声を出した。
「やめろ、俺を殺したらてめえ、てめえだってタダじゃすまねえぞ」
「別に今すぐ殺すつもりはない。この剣は、まだ仕事が終わっていないのでしまえないだけだ。血の脂は、最後、全部拭いておかないと錆になってしまう」
「やっぱり最後、殺すつもりなんじゃねえか!」
「フフッ」
「笑ってんじゃねえ!」
抜身を下げ、血塗れの女騎士は相当に圧が強い。2人の間にシジマが割って入った。
「姉さん、ダメです。この人を殺してしまうのは、徳が下がります」
「さっきも言ったが、私は君の姉ではないはずだ。人を殺人鬼みたいに言うな。あと、徳って一体なんなんだ」
「聞いてください。この人は、多分、まだ直接には人を殺したこともないはずです。宮廷会議に引き渡すだけできっと足ります」
「宮廷会議ィ?」
男が頓狂な声を上げた。
「てめえら、誰かと思ったら宮廷の犬か」
「私達は犬ではない。貴様、教養がないだけでなく目も見えていないのか?犬というのはな、ワンワン鳴いて毛むくじゃらの動物のことだ。抱くと可愛いぞ」
「うるせえ!」
「煽らないでください!」
(もう、入ってもいいのかな)
彼女の脳内に念話で語りかけてきたのは、部屋の外に控えているラーフラ・“ザ・ギフテッド” ・ダンバーズだった。
「念のためにもう少し、待っていてもらったほうがいいな。それより、どうしてさっき、彼女が入ってくるのを止めなかったんだ。危ないだろう」
(それは…ごめん、まさか入っていくとは思わなくて)
「気をつけてくれよ。なるべくこの娘に怪我はさせたくない」
ラーフラの念話は一方通行なので、返事をするには、声に出して伝える必要があった。怪訝そうな顔になったシジマと、怪訝というよりは怯えた顔になった痩せた男に首を振る。
「こちらの話だ。気にしないでほしい。そんな顔をするな。私は正気だ。それよりその隠し扉だ。棚の後ろに何かあるのだろう。もう面倒だから私が開けるが、構わんな」
フランチェスカが問題の書棚に向かって踏み出すと、男は奇声を上げて彼女に襲い掛かろうとした。さっきまで座っていた椅子の背を掴み、スイングして振り回す。
「危ない!」
シジマが大声を上げて杖の足元を蹴った。持ち手を軸にくるんと回った六角の杖が椅子の座面を突き、まるで杖の先に吸いつけたように椅子のコントロールを奪った。魔法のように音もなく椅子をもぎ取って捨て、流れるように、回転させた杖の反対側で男の喉を突いた。げええ、と男は膝をついて反吐を吐く。転げて苦しむ男がばたつかせた足が、テーブルの上から皿を落とした。
「いけない、やりすぎちゃった、徳が、徳がまた減る」
喉を突いたのは、無意識、咄嗟のことだったらしい。慌てて男の介抱をしようとする巡礼者に、無駄に殺すんじゃない、徳とやらが減るぞ、とフランチェスカが振り返りもせずに軽口を叩いた。
「大丈夫ですか」
男からは意味のある応答は返ってこない。濁った音を立て、獣のような声を上げながら、のたうちまわっている。フランチェスカは、黙々と書棚を調べている。面倒だ、と壁ごと破壊しそうな気もしたが、仕掛けを解いたりするのは好きなようだった。相変わらず抜き身の剣はしまう気配もない。いつでも取れるようにか、刃が欠けないように注意はしてあるようだが、棚の横の掴みやすい位置に立てかけてある。
「ラーフラ、もういいぞ!大丈夫だ!室内とりあえずクリア!」
仕掛けに熱中していた彼女が大きな声を出すと、細身の姿が入り口から内側を窺い、するっと入って来た。外に控えていた相棒の、ラーフラ・“ザ・ギフテッド” ・ダンバーズである。彼は洒落た短鎧の下にバーテンダーの衣装のような、きちんとした襟のあるシャツを着込んでいる。こざっぱりとした髪は短く、すこしゆったりした口布で鼻から下を隠している。
(げっ)
ラーフラは全員に解放したチャンネルの念話で感嘆の声を漏らした。口布で口元が隠されていることもあり、耳にしたもののほとんど全てが、おそらくは彼が本当に「喋った」のではないかと錯覚するような丁寧な念話だった。
(なんだこれ、めちゃくちゃじゃないか)
彼の眼前に広がるのは、血の跡、薙ぎ倒された家具の中心で事切れている巨獣とその血溜まり。
部屋の反対側では吐瀉物にまみれた男がのたうちまわっていて、おそらくはその原因であるシジマが、心配そうにしゃがんで見ている。
(随分散らかしたみたいだけど、フランカ、これ、片づけるひとがいるんだぞ)
ラーフラの念話は心底呆れたような口調である。不思議なことに念話で「聞こえる声」というのはそれぞれの頭の中にある何かの声である。実際の声ではない。口調、というのも便宜上のもので、実際は意味情報と、そのニュアンスの情報の塊でしかない。それが脳に直接伝わることにより、実際には聞いていない声を「聞いた」と錯覚して認識するのが念話の正体である。
聞こえた声を再現する手段がないので気付いていない者も多いが、念話の場合、実は、三人居れば三人とも、別々の「聞こえる声」を聞いている。




