イワンの何でもないようで、とんでもない一日の話 2
僕は1度、死んだ人間である。
見上げれば青空。見下ろせば、白いタイルが規則的に並ぶ地面。
保健室の窓から見える景色は案外、悪くない。ここが学院であることを忘れそうだ。
僕は開け放った窓から身を乗り出して、しばらくの間、周囲を眺めていた。
昼中で、授業中ということもあり、学院はしんと静まり返っている。
教室の前の廊下を通ったなら、恐らく講義をしているだろう研究員の声が聞こえたはずだけれど。
講義の行われている棟から少し離れている保健室までは届かない。そんな風に配置しているのは、病人やけが人がゆっくりと休めるようにという配慮だろうか。
聞こえるのは、風の音だけである。遠くに視線をやれば、立ち並ぶ建物が見えた。しかし、学院は森林に囲まれていることもあり、もはや蜃気楼に近いほど遠い。
「何か、疲れた」
ぽつりと零れた声は、老人のようにしわがれていた。
風邪からくるものであるから保健室までやってきたというのに、保険医は不在。
扉に鍵はかかっていなかったので、休憩しているだけなのかもしれないと思った。保健室の中に入り、ベッドに腰掛けて待つことにしたのは30分前のこと。
待てどくらせど保険医の戻って来る様子はない。
熱があるのか背中に汗が浮いてきたので、風にでも当たろうかと窓を開けたのだった。
「……何か、疲れた」
もう1度呟いてから、窓枠に足をかける。
先月10歳の誕生日を迎えたばかりの小柄な体格では、なかなか上手くいかない。けれど、できないわけではなかった。
恐れなどない。悲しくも苦しくもなかった。ただ、疲労感だけが背中に募る。
重みを増していく両肩が、この貧相な体を支えきらなかったのかもしれなかった。
上半身を傾ければ、頭の重みで両足が浮き上がった。
すうっと息を吸い込み、ふらりと飛び出して。胸の底がぐっと上がる。
ぶわりと肌が粟立ち、『落ちる』と理解した。
視界に広がる白い地面がぐんぐんと近づいて、――――――。
どぼん、と落下する。
何かにぶち当たったような感覚はなく、ずぶりと埋まるような感覚。
もしかして一瞬にして意識を失ってしまったのではないかと思った。
しかし、僕ははっきりと、沈んでいくのを「感じる」
それは、底の見えない池に溺れているようなもので。両手両足が宙をかいた。
到底、地面に追突したとは思えないが、だからと言って浮かび上がっているわけでもない。
実際、地面に体を打ち付けられたような衝撃も痛みなかったが、「どぼん」という表現通り、水中に引き込まれていくような感じがした。
水流が皮膚に纏わりつき、浮上することができない。
これが、「死」というものなのか。
―――――いや。まさか、そんなはずはない。
いつの間にか両目を閉じていたことに気付き、瞼をこじ開ける。
うっすらと開いた両目に飛び込んできたのは、強烈な光の集合体だ。
あまりの眩しさに、両手で目元を覆う。
そして、思った。なぜ、両腕が動くのか。
それだけではない。指も、肘も、二の腕も、何もかもが「普通」であり、いつも通りである。
これが異変ではなく、何と言うのだ。
僕は確かに飛び降りたはず。なのに、両足はしっかりと地面を踏みしめて、どこかに「立っている」
恐る恐る瞼の上から両手を外せば、僕の目の前には、飛び降りる前と全く同じ景色が広がっていた。
驚くことに、僕は再び、保健室の中にいたのだ。
開け放った四角い窓を睨みつけるようにして、立ち竦んでいる。
目前で、ふわりとカーテンが揺れた。
「そんなところで何している?」
冷や汗が背中を伝う。熱かったはずなのに、体温が下がっている。
僕は仁王立ちしたまま、目前に広がる青空と、その下に立ち並ぶ家並みに視線を凝らした。
何度、確認したところで、ここが保健室だという事実は変わらない。
ほんの一瞬前までと何ら変わりない風景だ。両手がぶるぶると震えていた。
右、左、上、下と順番に見回してから「何で」と呟く。
はあはあと、不規則に繰り返す呼吸。一体、何が起こったのか分からない。
時間が戻った?
慌てて腕時計を確認するけれど、きちんと時を刻んでいる。
「おい。そんなところで何をしているのか、訊いている」
振り返れば、入口のところに白髪の少女が立っていた。
いつからそこにいたのか、もしくは、いつの間に入ってきたのか。ともかく扉が開閉した様子はない。
彼女は、突然「発生」したようだ。……そんな風に見えた。
首を傾げるその姿はあどけないけれど、僕よりも少し年上かもしれない。
その姿に、混乱していた頭がすっと晴れるような気分になった。動悸も少しずつ落ち着いていく。
僕はもしかしたら、夢でも見ていたのかもしれない。多分、そうだ。
人間は真昼にも、夢を見ることがあるという。
「……何か、疲れちゃって」
返事をするつもりはなかったのだが、唇から勝手に零れ落ちた。
言葉にすると、疲労感がどっと増すようだった。
だけど、不思議な感覚でもある。今まさに夢から醒めた気がするのに、この言葉を口にしたことは覚えているのだから。
ますます頭が混乱するようで、心なしか先ほどよりも掠れた声が、喉を痛めつける。
んんっと咳払いしていると、彼女は小さく首を傾いだ。そして、「風邪か」と呟く。
そっと肯けば、「お前まだ、10歳くらいか?」と問われた。
たまたま当たったにしてはやけに具体的な「10」という数字。
「その年で人生に疲れるとは難儀なことだな」
突然、少女の声が真横から聞こえた。
今の今まで向かい合って立っていたはずなのに。瞬きをする間に、近づいたというのか。
少女の横顔と、先ほどまで少女が立っていた扉の前を見比べる。
物理的に、ほんの数秒で自分の横に並び立つことは不可能だ。
だとすれば、つまり、彼女は魔術師なのかもしれない。
何せここは「学院」である。
国内外を問わず、魔力の高い人間のほとんどが、ここに集まっている。
1つは、有能な魔術師になるための学び舎として。あるいは、ある程度の術を納め、尚且つ、魔術の研究において優秀な成績を収めた人間が研究員兼教師として。
他には、少なくない事務職員も在籍しているが、彼らでさえ例外なく、魔力持ちだ。
「お前は生徒か」
疑問系なのか、断定しているのか分からない言葉に肯くこともできず、ただ少女を見つめた。
「その年で学院の生徒になるとは。相当、魔力が高いのか。何かの研究で成果を得たのか」
「……別に、そういうんじゃない、です」
訊いたくせにまさか返事があるとは思っていなかったのか、大きな目を更に大きくした白髪の少女がこちらをじっと見つめた。
「そういうのじゃない? 部外者は、この学院には入れないはずだが……。そうか。学院長に進言しておこう。何の関係もない子供が入り込んでいると」
「……、」
「反論はしないのか?」
「……僕だって、ここに居たいわけじゃない。……ただ、」
「ただ?」
「僕は、研究対象なんだって」
「研究対象?」
「うん」
生まれたそのとき、僕の魔力は近所に住む誰よりも高かったと聞いている。
だけど、年々魔力は失われて。僕の魔力は、普通程度になった。
そういう人間は少なくない。だから、それについては幸とも不幸とも言えない。
だが、僕には他人と違っていた部分もある。
実家が大金持ちだということと、その当主は代々、名の知れた魔術師だということだ。
我が一族は全員が全員、高い魔力を誇って生まれてくる。僕だって例外ではなかった。
それにも関わらず、現在の僕には普通程度の魔力しかないというわけで。
つまり、僕は一族の中では異質な存在となる。異端とも言うべきか。
ともかく、我が家としては、何か解決策を見出す必要があったのだ。
一族には親戚が多いけれど、家を継ぐのは長子と決まっている。
そして、僕は残念なことに、後継者となるべく生まれてきた人間だった。
幸いにも我が家には溢れるほどの資産があったので、僕の体質を「何とかする」ことにしたというわけである。
学院の研究員に資金と、研究素材を提供することで、魔力減少の原因を追究することにしたのだ。
研究素材というのは、いわずもがな僕である。
「ふうん。なるほど。ますます難儀なことだな」
横に並んでいたはずの少女は、いつの間にかベッドに腰を下ろしていた。
ベッドからはみ出した両足を宙に投げ出している。ぷらぷらと動く足は、白く、細い。
紺色のワンピースには何の飾りもなかった。
研究員が纏っているようなローブを着ていないので、彼女こそ部外者かもしれないと思う。
しかし、僕の推論通りに、彼女が魔術師なのだとすれば。ここにいても間違いではない。
「それで? そういう生活に疲れたから、ここから飛び降りようとしていたわけか」
ふむふむと肯きながら、少女は目を細める。
その顔を見ながら、ふと思う。
彼女が本当に魔術師なのだとすれば、もしかしたら、先ほどの不可思議な現象は彼女が起こしたものではないだろうか。
そうであるなら、彼女は、他人を転移させるというとんでもない魔法を発動させたわけだ。
けれど、その魔術を行使するには、膨大な魔力が必要となる。
ということは。
彼女は幼い顔つきからは想像できないほどの魔力量を有していることになる。
思わず黙り込んでしまえば、「飛び降りるにしろ、まぁ、そんなに急くことはなかろうよ」と座るように促された。
「何をしている? 早く座らないか」
急かされて、ふらりとベッドに近づいた。
彼女の横に腰を下ろす。ふかりとした感触が心地良かった。
先ほど飛び降りようとしていたとは思えないほど、気分は落ち着いている。まさしく生き返ったような心地だった。
そんな僕を、名も知らない白髪の少女は苦笑しながら見守っている。
「飛び降りようとしていた割には、穏やかな顔つきだ」
「……飛び降りようとしていたわけではない、です」
多分そうだと思う。でも、うまく説明できないと続ければ、少女はからからと笑った。「だろうな」と。
「人間は時に、自分でも説明できないようなことをやってしまうものだ」
その言葉には、妙に説得力があった。
同年代の少女が口にしているとは思えないほどに。
そういえば、口調が、僕の祖母に似ている。
思わずその顔を眺めていれば、達観しているかのような目が僕を捉えた。
その表情からするに、彼女は見かけどおりの年齢ではないのかもしれない。
それは、魔力の多い人間にはよくあることで。
けれど、彼女の髪色は。魔力の多い人間にありがちな「濃い色」ではない。
瞳も灰色で。やはり、濃い色をしているとはいえなかった。
「そして、大抵の人間は『説明できないこと』をしでかしてしまった後に、後悔する。」
何もかもを見透かされているような気がして、居心地が悪くなる。空気が薄くなっていくようだ。
改めて、自分がどれほどにちっぽけな存在かを思い知らされたような気分になった。
「後悔しても遅いがな」
ぽつりと呟かれた声が、耳を滑る。
僕はもしかして、とんでもないことをしてしまうところだったのだろうか。
「だからこそ、人間は、考えて考えて考えぬくのだ」
「……」
「もしかしたら、息を引き取るその間際まで色んなことを考えているかもしれない」
「……は、い……」
「それで?」
「……、え?」
「お前は今、一体何を考えていた?」
とつとつと話す彼女が何を言わんとしているのか、いまいち掴めなくて返事ができない。すると、
「そんなに疲れきってしまうほど、何を考え、何に苦しめられていたんだ?」
そう言って、彼女は僕の頭を、ぽんと撫でた。
小さな手で、不器用に。だけど優しく。軽く叩くような仕草で。
ふいに泣き出しそうになって、ぐっと唇を噛み締める。
毎日毎日、血を採られては辟易していた。
それに、魔力の質を確認するためという名目で、普通程度にしかない魔力を奪われるのには苦痛が伴う。
翌日には、魔力は戻っているけれど。それでも、他人に何かを奪われるというのは嫌なものである。
こんなことは大したことではないと何度も思い込もうとした。
だけど、考え事をしながら、四角い部屋で壁や天井を眺めながら何時間も過ごすのは……。
あまりにも退屈で、窮屈。息がつまりそうだった。
「言ってみろ」
少女の心地良い声音を聴きながら、四角い窓に切り取られた風景を眺める。
僕がもしも、別の場所で生まれていたなら。一族の血を引いていなかったなら。長子でなければ。
違う人生があったかもしれない。
しかし、生まれてしまったものはしょうがない。
生まれながらにして持ち合わせたものは、つまり、選べないものということだ。
だから、受け入れるしかないのだろう。
「……飛び降りたかったというよりは、ここにいたくなかったというか……」
ばらばらになった思考をまとめるのは難しい。
それでも、1度口に出せば、つらつらと言葉が出てくる。
「僕は、あの、本当に……死にたかったからではなくて……」
「……そうか。だが、お前程度の魔力なら、ここから落ちると無傷では済まされないぞ」
「はい、それは……分かっているんですけど」
少女と僕は腕が触れ合いそうな距離で座っている。それなのに、彼女の腕からは温もりのようなものが感じられなかった。魔力の多い人間は、体温が低いと聞いたことがある。
それに、他人の魔力量を測るには、自身もある程度の魔力量を持っていなければならない。
「……もしかして、差し迫った状況に追い詰められたなら、魔力量に何か変化があるかもしれなと思ったからなんだ……、です。火事場の馬鹿力っていう言葉を思い出して…、」
「……無理して敬語を使わなくてもいい。……だが、そうか。なるほど。着眼点はなかなかに良い。それこそ命がけの実験ではあるがな」
少しだけ首をひねった少女は、僕の顔をじっと見つめた。
「お前は死ぬ覚悟があったんだな?」
「……、」
はい、と言うには時間が足りなかった。僕は、確固たる意思を持って窓辺に立ったわけではない。
けれど、もしも彼女が現れなければどうしていたか、自分でも分からなかった。
「まぁいい。じゃぁ、試してみるか?」
にやりと笑んだ、自分よりも幼い顔つきの少女が、得たいの知れないものだったのだと、このとき初めて気付いた。悪魔の囁きというのは、こういうものを言うのかもしれない。
意識しないうちに、こっくりと肯いていた。
「両手を出せ」
まるで、操られているようだ。言われるがままに、手の平を上に向けて差し出していた。
すると、少女の手が僕の腕を掴み、握り締める。
その後はもう、何が起こったか分からなかった。
「――――――ぎ、い、ギャぁああ―――――!!!!」
声を上げたものの、絶叫することにさえ苦痛が伴う。
口の中も喉元、その奥も、全部燃えている。
体の内側を炎に舐められたような感覚だった。いや、厳密に言えば、もっと酷かったと思う。
何せ、そのまま失神してしまうほどの激痛だったのだ。
次に目が覚めたときは、ベッドの上で。
自分が気絶していたらしいことに気付く。
霧が晴れていくような視界を巡らせて少女の姿を捜すけれど、傍にいたのは保険医だけだった。
どこからどこまでが夢だったのだろうか。
「……眠っている間に、貴方の魔力量を測ったんだけど……」と、白衣を纏った若い女性が困ったように微笑む。ノートの中に何かを書き込みながら、目覚めたばかりの僕を見下ろしていた。
乾いた唇で「なぜ、魔力量を……?」と問う。
すると、女性は少し逡巡しながら完結に答えた。
「そういう風に助言してくれる人がいたのよ」と。
そして、僕に体温計を渡してくる。
差し出した右手は傷1つ負っていない。首元や顔も触ってみたけれど、特に変わりはないようだ。
そんな僕に保険医が言う。
「怪我なんてしてないわよ。ただ、突然、魔力量が増えたから肉体がついていかなかったの」
*
カラーン、と、ナイフが落ちて皿にぶつかる。
「……長い。長すぎます。もう、お前の話しはうんざりです。なぜ、お前とニカの出逢いについて聞かされなきゃいけないんですか」
アークが食べ終わった皿を片付けながらぼやいた。
「そもそも、学院長はなぜお前をここに派遣したんですか?」
1つのお盆に、かちゃかちゃと2人分の食器を重ねていく。バランス良く器用に重ねるその姿は、どこかのカフェの給仕みたいだ。
ニカは既に、このテーブルから離れてソファに寝転んでいる。
「お前が、ニカを苦手に思っているって知っているでしょう」
実は、苦手どころの話しではない。あの、最初の邂逅のとき。
ニカさんは、僕に「何か」したはずなのだ。そうでなければ、急激に魔力が増えるなんてことは起こるはずがない。
そして、彼女が単純に僕の魔力を増やしたわけではないことにも気付いている。
現在の僕は、人よりも魔力が多いにも関わらず、魔術を上手く扱えないのだ。
正しい魔法陣を描けば、きちんと魔法は発動するけれど。暴走することも少なくない。
それは恐らく、僕の魔力に濁りがあるからではないかと思う。
魔力を溜める器があるとするなら、半分ほどを埋めているのは僕自身の魔力だ。それは間違いない。だけど、それ以外は、何か別のものが詰まっている。そんな気がする。
例えば、器に溜まっている僕の魔力が「水」だったなら。そこに、大量の油を流し込まれたような。
明らかに質の違う、相反する魔力が、僕の体内を巡っている。
そしてその「油」を流し込んだのは間違いなくニカさんだ。
あの日―――――保健室で目を覚ました僕は、学院長と面談をすることになった。
普通程度の魔力量が、ある日突然、限界値を突破する。そんな不可思議な現象を検証するために、学院長が自らおでましになったわけだ。
僕と対面した途端、学院長は目を輝かせた。
『あの子は、やってくれるねぇ』と、嬉しそうに。
そんな彼から聞かされたところによると、僕はどうやら死ぬところだったらしい。
人間の体内に流れる血液の量が、突然増えたりしたら、どうなるか。
それを考えると答えは見えるだろうと言われた。
すなわち、僕はニカさんに殺されかけたわけである。
恐怖意識を植え付けられていてもおかしなことではない。
ニカさんは僕の体に、一体何をしてくれたのだろうか。怖くて、未だに聞けない。
「学院長はきっと愉しんでるんだよ。僕がニカさんに恐れ戦く様子を、千里眼で覗いて笑っているに違いない」
灰と化した書類を指で集めていると「……学院長って、千里眼など持っていましたか?」と、アークが首を傾げる。
「それくらい持っていてもおかしくない。あの人は、何せエルフの血が混じっているって言うじゃないか」
あの、全てを見透かしているような眼差しは、美しくもそら恐ろしい。間違っても本人には言えないが。
「……しかし、お前がニカにそんな態度を取るのは少し不愉快ですね。ニカほど素晴らしい人間はいないのに」
真顔でそう言う、彼女の息子に閉口する。本当に素晴らしい人間は、出会ったばかりの少年に死ぬほどの激痛を与えないと思う……。
「それに、魔力量が増えたのであれば万々歳じゃないですか。幸いにも、お前の魔力量は学院でも上から数えた方が早い。それほどの魔力量を得ることができたのは、ニカのおかげでしょう。感謝するなら分かるが、怯える意味が分かりません」
ガラス細工のような繊細な顔立ちをこちらに見せつける男がいつになく饒舌だ。
普段は、話しかけても「はい」か「いいえ」しか答えない。だから、長文で答えなければいけないようなことを聞くと黙り込むか無視するかのどちらかである。
しかし「答えられない」というのとは、少し違うようだ。しいて言うなら「答えたくない」のだろう。
誰かと会話することさえ無駄な時間だと思っている節がある。
それなのに、今現在、こうもたくさん話し続けている理由は。
話題がニカさんのことだからだ。それだけである。
「……ニカさんの恐ろしいところは、」と、口にしたところでアークにぎろりと睨まれた。
んんんっ、と咳払いしてから「ニカさんの変わっているところは、」と言いなおす。それでいいのか悪いのか分からなかったけれど、今度は睨まれなかった。
「僕にしたことを忘れているってことなんだよ……!」
ニカさんには聞こえないように声を潜めたつもりだったが、語尾に力が篭って、結局上手くいかなかったかもしれない。
「ニカはどうでもいいことは記憶から消去するタイプなんです」
「どうでもいいことだったんだ……」
呆然としながら、鞄を漁り、複製した書類を出す。
燃やされないように、今度はニカさんでにはなく、アークの前にかざした。
「何ですか」
「内容は知らない。学院長に読んでもいいとは言われていないから」
「それで、律儀にも目を閉じているというわけですね。本当にお前はどうしようもないです」
僕とは違い、『ニカのものは自分のもの』という認識で生きているらしいアークは、遠慮なく書面に目を通しているようだ。
それを読み終わった頃を見計らって目を開けると、
「やはりこれは不要なものですね」
ビリビリと無惨な音をたてて、書面が紙切れに変わる。
「……嘘でしょ? 冗談だよね?!!」
細切れになった紙片を集めるものの、時既に遅し……。
「もう、複製ないのに!」
「複製ですか。罪を認めましたね? その書面は無効です。うだうだ言ってないで、とっとと学院長に頭を下げろ」
「酷い! アークだけは味方だと思ってたのに!」
「……」
「無言とか!」
僕たちがわあわあ言っているにも関わらず、ニカさんはうとうとと船をこいでいる。興味もないらしい。
何で学院長は自分でニカさんに渡さないのか……。
その、少女にしか見えない桃色の頬を眺めていると、
「その目玉、えぐり出しましょうかね……」
という不穏な声が耳を震わせた。
ひい、と息を吸い込む。
「か、帰ります! 僕の用事は済んだので!」
鞄を抱き抱えて、足早に玄関へ向かった。そして、扉に手を掛けた瞬間―――――。
真後ろに吹っ飛ばされた。
「……仕掛けが、外側だけとは限りませんよ。油断しないように」
咄嗟に防御魔法を発動し、背中の後ろで魔法陣を展開する。それが、ネットの役目を果たして、吹き飛ばされた僕の体を受け止めてくれた。勢いを相殺したのだ。
霧散した魔法陣を見上げながら、床に座り込む。
僕が研究員じゃなくて、もしも咄嗟に魔術を使えない人間だったら、どうなっていたのだろうか。
もしくは、今、僕の魔法が暴走していたなら。
考えたくないけど、尻もちをつきながら視線を巡らせてニカさんの様子を窺った。
扉に仕掛けたという防犯用の魔法陣だが、内外関係なく発動させるなんて暴挙の極みである。
そしてそんなとんでもないことをやってしまうアークを諌めることができるのは、彼の保護者しかいない。
けれど、彼女はすっかり寝入っているではないか。
「どうぞ気をつけてお帰り下さい」
ふらりと立ち上がると、アークにいっそ清清しいほどの笑顔で背中を押さた。
だから僕は、ただただ戦慄するしかなかった。
*
「……へえ、それで君はおめおめと学院に帰ってきたわけね」
学院長の冷笑にさらされて、背中がぶるりと震える。
相変わらず煌びやかすぎる学院長室は、ただでさえ居心地が悪いというのに、ますます身の置き所がない。
「申し訳ありません。力及ばず……」
「本当にね!」
肩に流れた絹糸のような髪の毛を払い「まぁ、こうなることは予想していたけどね」と言う。
それなら何で、僕に書面を渡したのか。抗議の声を上げようとしたのだが、わざわざ口にせずとも想いは伝わったらしい。
「まぁまぁ、いいじゃない。君とアークは何せ友人同士なんだから。親交を深めたって罰は当たらないよ」とのたまう。
僕の苦労は、小指の先ほども理解できないようだ。
「とりあえず怪我がなくて良かったよ、イアン」
来客用のソファに深く腰掛けた学院長が、テーブルの大皿に並べてあった果物を取る。
やっぱりニカには賄賂が必要だったかな、と独りごちてから。
「用紙は何枚でも用意できるから、大丈夫だよ」とそれはそれは美しく笑った。
がっくりとうなだれながら、ただ肯くことしかできずに部屋を退室する。
扉を閉める間際に、意を決して訊いた。
「――――――ところで、あの書面は何だったんですか?」
学院長は僕に向かって手を振りながら、
「ニカを臨時研究員に採用する旨を記載しているんだ」と、答える。
ああ、それなら。僕は一生、あの書面にサインはもらえないだろう。
つまり。
僕はこれから先、何度もニカさんの下に通わなければならない。怖い。