第38話:ルイ「そうだ、エルサレムに行こう……」
いよいよですね(ΦωΦ)
ヴィトリーの教会が灰になってからというもの、我が王宮の湿度は常に百パーセントを記録していた。
もちろん、本当に湿っているわけではない。
原因は、我が夫である。
国王ルイの精神状態は、完全に泥沼の底へ沈んでいた。
毎日、黒く質素な衣をまとい、朝から晩まで礼拝堂に引きこもって祈っている。
食事を運ばせてもほとんど手をつけず、声をかければ「神よ……私の罪をお許しください……」と、
墓場から響いてきそうな声で呟くばかりだった。
頬はこけ、目の下には濃い影が落ちている。
ヴィトリーで起きたことを忘れろとは言わない。私だって忘れられないし、
忘れていいとも思わない。
でも。
「……鬱陶しいを通り越して、そろそろ本当に餓死しそうで怖いんだけど」
私は礼拝堂の扉を眺めながら、胃薬の存在しない十二世紀を心の底から恨んでいた。
そんなある日のことだった。
東方から届いた知らせが、王宮の空気を一変させた。
重臣たちが集められ、私もその場へ顔を出す。何やら深刻な顔で話しているので、
またどこかの伯爵が反乱でも起こしたのかと思っていたら、
耳に飛び込んできた単語に私は首を傾げた。
「十字軍?」
思わず聞き返す。
「……あの、うちの爺さんが昔行ってたやつ?」
「は、はい」
重臣の一人が困惑気味に頷いた。
「東方のエデッサ伯領が異教徒の手に落ちたとの報せが届いております。
聖地を守るため、西方の諸王侯にも新たな遠征を求める声が高まっていると」
私はしばらく黙った。
それから、素直に思ったことを口にした。
「まだやってんの!?」
「……まだ、と申しますと?」
重臣が完全に意味を理解できない顔をする。
いや。
だって。
私の中では「十字軍」って、世界史の教科書に太字で載っていた一個の歴史イベントなのだ。
一回みんなで聖地へ行きました。
戦いました。
終わりました。
そんな認識だった。
「何回あるの!? 一回きりじゃないの!? シリーズものなの!?」
「し、シリーズ……?」
「劇場版が売れたから第二弾制作決定、みたいなやつ!?」
当然ながら、誰にも通じない。
重臣はますます困った顔になった。
「聖地が危機にさらされるのであれば、主に仕える者が再び立ち上がることは
不思議ではありませんが……」
「不思議だよ! 少なくとも世界史八点の私には初耳だよ!」
私が頭を抱えていると、それまで閉ざされていた礼拝堂の扉が、ゆっくりと開いた。
「…………エデッサが」
掠れた声。
振り返ると、ルイが立っていた。
ここしばらく、生気など一欠片も残っていなかった男である。
ところが、その目に久しぶりに光が戻っていた。
私は一瞬、安心しかけた。
ああ。
少しは立ち直ったのか。
――違った。
これは、立ち直った人間の目ではない。
何かを見つけた人間の目だった。
しかも、”あまりよろしくない方向”に。
「神よ……」
ルイは両手を胸の前で組み、震える息を吐いた。
「私は、まだ見捨てられてはいなかったのですね」
「……は?」
嫌な予感がした。
ルイは、まるで暗闇の中で突然光を見つけたような顔をしている。
「ヴィトリーで多くの民を死なせた罪を、私はどう償えばよいのかと、ずっと祈っていました。
ですが今、ようやく分かりました」
分かるな。
その顔で何も分かるな。
「聖地へ赴き、この身を主のために捧げる。異教徒と戦い、苦難を受け、
それでもなお信仰を守り抜く。それこそが、私に残された贖罪なのです」
「待って待って待って」
私は慌てて立ち上がった。
「お前いま、罪悪感と海外遠征を一直線に繋げたよね?」
「これは神の思し召しです」
「それ、贖罪と現実逃避が混ざってるだろ!!」
地元で大不祥事を起こした経営者が、会社を立て直すでもなく、社員に向き合うでもなく、
「自分を見つめ直すため旅に出ます」と突然インドへ行こうとしているようなものではないか。
いや、もちろんルイにとって十字軍はそんな軽いものではない。
本人は本気だ。
信仰も本物だ。
自分が犯した罪を償いたいという気持ちだって、本物なのだろう。
だから余計に厄介なのだ。
「国内どうすんの!? 国王だよね!? 国庫は!? 政治は!? 留守中の王国は誰が見るの!?」
「しかるべき者に任せます」
「軽いな!!」
「主が共におられる」
「便利だな主!!」
私は頭を抱えた。
「そもそもエルサレムってどこよ! シリア? もっと南? 飛行機ないんだよ!?
船と馬と徒歩でどれだけかかると思ってんの!? 有休何日消化する気なの!?」
「ゆうきゅう……?」
「そこ拾わなくていい!」
駄目だ。
完全にスイッチが入っている。
シャンパーニュの一件ですでに学んだが、この男は普段こそ大人しく、
人の顔色を窺い、ろくに妻の目も見られないくせに、
「これは正しい」「これは自分がやらねばならない」と思い込んだ瞬間だけ、
恐ろしいほど一直線になる。
止まらない。
曲がらない。
周囲の声も聞こえなくなる。
普段の石像と同一人物とは思えない。
私は深く息を吐いた。
もういい。
勝手に行けばいい。
エルサレムだろうがどこだろうが、好きなだけ砂漠を歩いて反省してこい。
私はパリに残って、アキテーヌの酒でも飲みながら国王不在の後始末でも――。
「アリエノール」
「ん?」
「そなたも、共に行くのだ」
「…………はい?」
今何て言った?
ルイは、こちらへ歩み寄ると私の手を取った。
ここ最近ずっと死んだような顔をしていたくせに、今は妙に澄み切った目をしている。
ものすごく嫌な予感しかしない。
「そなたはアキテーヌ女公だ。そなたを慕い、従う騎士も多い。
そなたが共に十字架を取れば、遠征に加わろうとする者も増えるでしょう」
「…………」
政治的な話だ。
一応そこまでは分かる。
「そして何より」
ルイの声が、ほんの少し柔らかくなった。
「私は、そなたに傍にいてほしい」
「…………」
そこだけ聞けばものすごくいい話である。
新婚旅行なら。
「どこに?」
「聖地へ」
「何しに?」
「十字軍として」
「期間は?」
「それは……神のみぞご存じです」
「却下」
「アリエノール」
「却下!!」
私はルイの手を振りほどいた。
「えっ、私も行くの!? アキテーヌから騎士も馬も連れて!?
金も出して!? 徒歩と船で中東まで海外出張!?」
「そなたがいてくれれば心強い」
「知らんわ!!」
何人連れていく。
食料はどうする。
船は。
馬は。
金は。
領地は誰が見る。
帰ってくるまで何か月、いや何年かかる。
私の頭の中では、急に巨大な海外出張案件が立ち上がり、
旅費精算と人員配置と危機管理の赤いランプが一斉に点灯していた。
一方、目の前の夫は完全に「贖罪と使命感」のハイになっている。
さっきまで食事すらまともに取れなかった男が、今ではもう聖地へ向かう未来しか見えていない。
「ふざけんなぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
花の都パリの冷たい空の下。
またしても私の魂の絶叫だけが、むなしく王宮に響き渡った。
十字軍。
世界史八点の私にとっては、教科書の片隅にあった遠い昔の出来事だった。
それがまさか自分の夫婦旅行になるとは。
誰が想像するんだよ。
※本作は、実在の人物・史実をもとにしたフィクションです。
人物の年齢、出来事の時期、当時の習慣や文化などは、史料によって諸説あるものも多く、物語として読みやすくするために一部再構成・創作を含みます。
できるだけ当時の空気を大切にしつつ、主人公は相変わらず世界史8点のまま進みます。
なお、主人公より作者の方がちょっとだけ世界史に詳しい……はずです。多分…?
「そこ違うかも?」という部分も、ゆるく楽しんでいただければ嬉しいです。




