第4話 封筒の重さ
封筒は、思ったより軽かった。
紙一枚の重さのはずなのに、受け取った瞬間だけ、手のひらに奇妙な感触があった。
俺はそれを引き出しに滑り込ませた。
「確認しないんですか」
玲が言った。急かす色は一切ない。
「後で読みます」
「断る可能性も考えている、ということですか」
「否定しません」
「嘘ではなかった。
今朝の俺には、S級クランの臨時顧問なんて話は存在しなかった。
仕事は変わらず申請の受付で、今日も何件か止めて、何件かは通す。
それが俺の一日だった。それが積み重なって三年になった。
庁内はすでに整然としていた。
さっきまでスパイを取り押さえていた場所とは思えない。
《白狼の牙》のメンバーたちが手際よく片付けたからだ。
最小限の動きで完結させる様子が、かえって圧を感じさせた。
「風見さん、一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「今まで何件、止めましたか」
俺はしばらく考えた。
「数えていません」
「概算で」
「三年で、申請全体の0.3パーセントくらいだと思います」
「百件に一件が全部、事故の入口だったとしたら」
俺は答えなかった。
玲は続けた。
「庁舎の申請件数は月平均で千二百件前後です。三年で四万件超。その0.3パーセントなら、百二十件前後。全部が大事故に繋がるわけではないにしても——」
「玲副長」
俺は遮った。
「褒めているんですか、それとも何かを言いたいですか」
玲はわずかに口角を上げた。
「両方です。ただもう一つ言いたいのは——庁舎はその数字を把握していない、ということです」
知っていた。
止めた案件の記録は残るが、それが事故回避に繋がったという評価は誰もしていない。
俺が申請を止めた日は、ただ「処理が遅い」と言われることのほうが多かった。
「把握していたところで、何も変わりません」
「そうですね」
と玲は言った。
「だから私たちが来た」
そのとき、庁内の奥から足音が近づいてきた。
速い。少し焦った歩き方だ。
顔を上げなくても誰か分かった。第二係の久坂係長だ。
「風見!」
声に珍しく力がある。久坂は俺のデスクの前まで来て、玲を一度見てから俺に向き直った。
「今のは……《白狼の牙》の件か」
「そうです」
「スパイが混じっていたというのは本当か」
「はい。申請時に記録媒体の携帯が確認されたので止めました。詳細は後ほど報告書を」
久坂の顔が微妙に動いた。
何かを言いかけて、止める。
また言いかけて、また止める。
久坂係長は、俺が入庁した頃から「風見は使いにくい」と言っていた人間だ。
申請を止めるたびに「無駄な手間をかけるな」と言ってきた。
直接怒鳴られたことも何度かある。
今は、何も言えないでいる。
「……その、風見。臨時顧問の話というのは」
「検討中です」
「庁への報告は」
「まだしていません。正式に決定してからです」
久坂の喉が動いた。
玲はこちらを見ている。
口は挟まない。ただ見ている。
久坂は結局、何も言わずに戻っていった。足音は来たときより遅かった。
◇
受付業務は午後まで続いた。
玲たちは一度退庁したが、書類の補足処理のため夕方に戻ってくるという話だった。
俺はその間、通常業務をこなした。3件の申請を受けて、2件は通した。
残りの1件で、俺は手を止めた。
申請者は三十代の男性で、Bランクの探索者証を提示した。
顔は普通だ。服装も問題ない。
申請内容は第七層の定期潜入——よくある内容だった。
だが。
右手首。
袖の陰になっていたが、腕を動かした瞬間に見えた。
装備の焼き跡だ。高温系の魔物に近接した跡。
Bランクで第七層ならおかしくはない。
ただタイミングが合わない。
直近の記録によれば前回の潜入は二週間前、第三層までだ。
第三層に高温系はいない。
「少し確認させてください」
俺は申請書を裏返した。
「最近、第七層より深い場所に入ったことはありますか」
男の目が一瞬だけ動いた。
「……いや、ないですよ。規定通りに動いてますんで」
「そうですか」
俺は端末を操作した。
「右手首の焼き跡です。高温系の熱圧波か吐息系の直撃跡に見えます。先週か今週あたりについた跡ですよね。前回の潜入記録と合わない」
男はしばらく黙った。
「……第九層まで、入ってました」
「無許可で?」
「……はい」
俺は申請を止めた。
無許可潜入は規定違反だ。
本人には再申請と経緯説明の義務が発生する。
大事にはならないが、記録には残る。
男は不満そうな顔をしていたが、俺は特に何も言わなかった。
いつものことだ。
「今のも、止めましたね」
振り返ると玲が立っていた。
補足書類を持って、少し早めに戻ってきたらしい。
「無許可潜入です。大した案件じゃない」
「でも止めた」
「止めるべきものを止めただけです」
玲はしばらく黙っていた。
「さっきの焼き跡、私には見えませんでした」
俺は答えなかった。
「見ようとしていなかったのもあります。でも、あなたは最初から見ていた。申請書を受け取ったときに、もう見ていた」
「習慣です」
「そうです」
と玲は言った。
「だから欲しい」
◇
夕方、久坂係長が再び俺のデスクに来た。
今度は一人じゃなかった。
第一係の堂島係長と、総務から佐々木主任が一緒だ。
三人が並ぶのは珍しい。というか、初めて見た。
「風見、少し時間はあるか」
「業務中なので、急ぎでなければ後にしてください」
久坂が微妙な顔をした。堂島係長が口を開く。
「臨時顧問の件だ。君が決める話ではあるが、庁としても——」
「庁として、何ですか」
堂島は言いよどんだ。佐々木主任が代わりに言う。
「まあ、その……君は庁にとっても必要な人材だということだよ。急に外部契約を結ばれると、こちらも困る部分があって」
必要な人材。
三年で一度も言われたことのない言葉だった。
「今まで、そういう評価はされていなかったと思いますが」
「そ、それは——」
「《白狼の牙》から話が来たから、急に価値が出た。そういうことですよね」
誰も返事をしなかった。
俺は端末に視線を戻した。
「どちらにしても、まだ何も決めていません。決めたら報告します」
三人は何かを言いたそうにしていたが、結局そのままバラけて戻っていった。
俺はしばらく、端末の画面を見ていた。
三年分の申請記録が並んでいる。
止めたものも、通したものも。
どれが何件あって、どれだけ意味があったかなんて、俺は数えていない。
見えたものを止めて、問題ないものは通した。
それだけのことだった。
それがいつの間にか、S級クランが動く理由になっていた。
「風見さん」
玲が窓口越しに立っていた。
「今夜、30分だけ時間をもらえますか。改めて話したいことがあります」
「内容は」
「契約の中身だけじゃない。あなたに動いてもらうなら、なぜ必要かをきちんと説明する義務があると思っているので」
俺は引き出しを開けた。
封筒はそこにある。
「……場所は」
「庁舎近くで構いません。あなたが選んでください」
玲が一歩引き、隊員の一人と短く話し始めた。
その隙に、俺は封筒を開けた。
中身は三枚だった。
一枚目は臨時顧問契約の概要書。
役割の欄には「攻略前審査顧問」とある。
業務内容は、入坑申請前の人員・装備・書類の事前精査。
内部情報の守秘義務。
契約期間は三ヶ月更新制。
二枚目は報酬条件。
月額固定報酬と、案件ごとの成果連動型報酬の二本立てだった。
数字を見て、俺は一瞬だけ指を止めた。
庁の給与とは、桁が一つ違った。
三枚目は解除条件と署名欄。
特筆すべき縛りはない。
俺は三枚をまとめて封筒に戻した。
書類は整っていた。整いすぎているくらいだ。
契約を結ぶための障壁は、もうほとんどない。
残っているのは、俺自身の答えだけだった。
俺は封筒を机の上に置いた。
ただ、もう迷っている理由が、三年前より確実に一つ減っていた。
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