独白
――もう、いい。
……何が……?
夢でも見ているのだろうか。抱えきれない状況に、思考を放棄したくなる。
そんなリゲルを置いて、ヘレナは言葉を続ける。静かに。
「なぜ、あなたがここに」と問いかけたのはリゲルだ。対する返答であったはずの、彼女の言葉。しかし最早――いや初めから、誰かに聞かせる気などないかのように。
「あの夜、炎に包まれて、すべてがなくなった。会食のために呼ばれていた元夫、両親、兄弟、甥や姪。私に、ネメシアの王女という枠を与えていた、すべてのものが。
彼らの命を奪いたいと考えたことなんてなかった。けれど……何もかも消えたと悟った瞬間、ああもう苦しまなくていいのねと、そう思った。
そう、消えてしまったのよ。私を私であらしめる、全部が。目にはただ、赤い炎が映っていた。私自身の意思で見ているのではない、瞳に映っているだけ。
元夫から受けた苦痛も、父に明かせなかった閉塞感も、弟への羨望も、それらに呑み込まれる自らへの嫌悪も。前日まであんなにも身体に纏わりついてきた感情が、私の中にある意識とでも呼ぶべきものが、ふっとどこかへ消えた。気がつけば、十年が経っていたわ。
でもね、私は見つけたの。だから、もういいのよ」
とうとうと流れる、彼女の語り。その微笑みは穏やかで、いや、薄ら恍惚としてさえ見えて。舞台中央に立つ、戯曲の登場人物かのようだった。
もしくは、リゲルが演劇だと思いたいだけか。
「ブロンテオンの国の色は、真紅。神聖な炎の色。すべてを灼き尽くして、浄化する。
この国にはね、面白い幻術があるの。人に、炎の幻影を見せるというもの。希少な術師たちは王に仕えていて、催しなどの際に術を披露する。王の権威の象徴として。
今夜の宴の最後にも、幻術が予定されているわ。披露に向け、事前に練習が重ねられてきた。
地上を彩る花火のようなものよ。術師の手から火の粉が生まれ、舞い踊る。花や蔦模様、生き物などに形を変えながら、最後に大きな火の柱となる。それを見たとき、戻ってきたの。
なくなってなんかいない。ずっとあったのよ――炎の中に」
長回しの台詞は、ようやく終わりへと辿り着く。
未だ現実感を取り戻せないリゲルに向かって、ひと言、彼女は言った。
「逃げて」
「……え……?」
「今夜の幻術を映し出す舞台は、この離宮なの。舞踏会会場のバルコニーから、ちょうど綺麗に見える位置にあるから。間もなくこの宮全体が、炎に包まれる。その前に逃げて」
リゲルはぽかんとヘレナを見つめた。
彼女の言う幻術というのが、どうにもわからない。いやそれ以前に、彼女の口から語られた長い言葉も咀嚼できていないのに。
「幻術というのは、催事の見世物ではないのですか。炎に、とは……?」
「幻と言うくらいだから、通常の炎は本物ではないわ。あたかも火が燃え上がっているかの幻影を、人々の前に映し出す。でも、今夜は違う。今夜使われるのは本物の炎で、術の最後にはこの離宮を燃やし尽くすことになっているの」
「なぜ、そんなことを……?」
本物の炎のほうが見世物に迫力が出るから、とかだろうか。そもそも幻影の炎を見たことがないので、比較しようがない。
ぼんやりと、そんなどうでもいいことを考えながら、リゲルは背に冷や汗を感じていた。
十年前と同じ、優しげな琥珀色の瞳。年齢を重ねてもさほど印象の変わらない、よく手入れされた黒髪、白い肌。
目の前に映る伯母ヘレナの画から、すっと色が消えて見えた。リゲルの視線は一点、彼女の唇へと吸い寄せられる。光沢を抑えた色味で、上品に引かれた口紅の赤。それが、景色に異様なほど浮かび上がる。
「私が頼んだからよ」
瞬間――ドン、と、鈍い衝撃音が建物を揺らした。閉じられたカーテンの向こうで、カタカタカタッと硝子窓が高速に震える。
リゲルは咄嗟に、隣のアルテミシア王女のほうを振り向く。地震かと身構えたのも束の間、揺れは思いのほかすぐに収まった。
「始まったみたいね」
ヘレナの声は落ち着き払っている。彼女はすっと立ち上がり、背後の棚から白いハンカチを二枚取り出した。
「急がないと間に合わなくなるわ。これを使って、煙に気をつけて」
「え……」
呆然とするリゲルの手にハンカチを握らせて、ヘレナは客間を出ていこうとする。
「逃げて」と彼女は言った。間もなくこの離宮は炎に包まれるからと。今いる部屋を出て、彼女は彼女で逃げるということなのか。棚から取り出したハンカチは二枚のみ――そうではないことを、リゲルは直感する。
「伯母上!」
彼女の背を追って、廊下へ出る。
リゲルたちがいた客間は二階。扉を出たすぐ前に、下の階へ続く階段の間がある。しかしヘレナは客間を出て左、廊下を奥へと歩きはじめていた。
離宮の大きさは、小規模な邸宅ほどだ。彼女が進む方向には部屋がいくつか、そして廊下は行き止まり。外に出られそうな階段などは見当たらない。
リゲルは一度振り返り、アルテミシア王女を確認する。彼女も立ち上がり、リゲルのすぐ後ろまで来ていた。
「伯母上が……」
「ええ、追いかけましょう」
「っ……」
王女だけでも、先に逃げてもらったほうがいいだろうか。だが、離れるのは不安だった。そんな逡巡を知ってか、彼女はリゲルの手を握る。
「早く!」
階段の間をちらと確認してから、二人は廊下を小走りに駆けた。まだ、目に見える異変はない。先ほどの衝撃音は、幻術の演出なのだろうか、それとも――。
ヘレナは、いちばん奥の部屋へ入っていった。おそらく彼女の主な私室だろう。
追いかける二人は部屋の前へと辿り着き、リゲルがノックなしに扉を押し開ける。
ヘレナは窓辺に立っていた。彼女はゆっくりとこちらを振り返る。
その手にあるのは、真鍮の燭台。はめ込まれた三本の蝋燭には、赤い火が煌々と輝いていた。




