第96話 石室山に眠る魂
総英会病院で診察結果を聞き終わった俺たちは、病院のロビーに座って城築先生を待っていた。
城築先生は、本当は今日は休みだったのだが、精密検査の結果が予定より早くわかったので、少しでも早く芳乃に良い知らせを伝えたいと思い、今日わざわざ俺たちに連絡をくれて、病院にも来てくれた、ということらしかった。
診察が終わると城築先生は、俺たちを昼食に誘ってくれた。
母さんはもともと仕事がある日だったので「残念だけれど」と言って、病院から直行で仕事に出かけた。
「やあ、待たせてしまってすまないね」
城築先生は薄いピンクのボタンダウンシャツにノーネクタイ、ライトグレーのジャケットという若々しい私服姿でやってきた。
「休みの日でも病院に来てしまうと、何かと雑務があってね。さてと、お昼は何がいいかな。うーんと、みんな鰻は好きかい?」
「俺と春香は大好物です。まあ、めったに食べませんけどね。芳乃はどうだ?」
俺がたずねると芳乃が答えた。
「わたしも大好きだ…………しかし――」
「しかし?」俺は聞き返した。
「店で食べたら高いのだろう?」
たしかにこのあたりは学区外だし、SPDの学生割引はきかないだろうな。
しかしそれを聞いた城築先生が言った。
「あはは。お昼代はわたしが出させてもらうから大丈夫だよ。近くに美味しい鰻屋さんがあるんだ」
「いや、でもそんなわけには――」
と俺が言いかけると城築先生がさえぎった。
「大人に恥をかかせないでくれよ。誘ったのはわたしだからね。みんなで鰻を食べるくらいのお金は持っているさ」
「そうですか。それならお言葉に甘えてご馳走になります」
俺がそう言うと、城築先生は「うん」と言って笑った。
久しぶりに食べた老舗のうな重は、とんでもなく美味かった。
千葉県北総地方は昔から川や沼、運河などが多く、美味しい川魚料理店がたくさんある。城築先生が連れてきてくれたのは、その中でも有名な老舗の鰻料理専門店。しかも奥まった個室で特上うな重のミニ懐石コースだった。
春香も「美味しい、美味しい」を連発して食べていた。
驚いたことに、小食の芳乃も一人前を完食した。好きなんだな、鰻。
「ご馳走様でした。本当に美味しかった」芳乃が手を合わせて言った。「しかしわたしは城築先生にこれほどお世話になっているのに、何も返せるものが無い」
「なにを言うんだい、芳乃ちゃん」城築先生があわてて言葉を返す。「検査も診察もわたしの仕事だよ。難病指定だから国から補助金が出てるしね」
「それでもわたしはこの感謝の気持ちの百分の一でもいいから、なんとか先生にお返ししたい。なのにそれができないことがもどかしい」
ひととおり食事が終わった俺たちの席に、デザートの羊羹と抹茶が出された。
この羊羹も近隣の町の名物だ。
「城築先生」俺は思い立って提案してみた。「先生は長年石室山を研究してきたんですよね。それにいつだったか、石室山に眠る松虫姫の秘密が知りたい、って言ってましたね」
「ああ、たしかに言ったが――」
「それなら、芳乃、城築先生に石室山の玄室を見せてあげたらどうだ? ねえ、どうでしょうか、城築先生」
俺がそう言うと、城築先生はとまどいながら答える。
「あ、ああ、もしそれが可能なら、なにより嬉しいよ。でも本当にそんなことが――」
しかし城築先生の言葉を芳乃がさえぎった。
「孝一郎。城築先生。残念だが、それは非常に難しいと思う」
「難しい……って、どうしてなんだ?」
俺は芳乃に聞き返した。
「石室山の玄室は、過去千三百年、千堂家の代々当主以外は誰一人として入ったものはいない」
たしかに先日石室山の玄室から、分析チームに提供される龍の卵を取り出すとき、芳乃は石室山神社の本殿で祝詞を上げて、一人で玄室へ入って行ったっけ。
芳乃は言葉を続ける。
「玄室は常に強力な結界で守られている。たとえ千堂家の当主であっても、姫神様の許しなく玄室に入ることはできないのだ。もちろん、吉鷹の村人であっても、過去に入室を許された者はいない。だから申し訳ないがこの件は…………」
「いや、すまなかったね、芳乃ちゃん」城築先生は言った。「わたしもお礼代わりに玄室に入れてもらいたいとは思っていないよ。どうか気にしないでほしい」
そうだよな。城築先生は診察の見返りに何かを求めるような人じゃない。本当は芳乃に聞きたいことがたくさんあるはずだけれど、城築先生から聞かれれば芳乃は、本当は答えにくいことだとしても断りづらいだろうと思って、自分から何かを聞くのは差し控えているのだろう。でも……。
俺は先月、北総エナジーと最初の会談をする前日の朝、利根川の土手で城築先生から聞いた話を思い出していた。
『もし初代松虫姫が千三百年のあいだ、生きているように眠っているのだとしたら、どうしてもその秘密を知りたいんだ』
城築先生は、たしかそう言っていたはずだ。
「それじゃあ、芳乃」俺は芳乃に言った。「せっかくの機会だし、城築先生に代わって、俺からひとつ質問をさせてもらってもいいか?」
「先生に代わって? うむ、なんでも聞いてくれ。答えられることはすべて答えよう」
芳乃はそう言うとお茶を一口ふくんだ。
「うん。俺は前に先生から『初代の松虫姫は、いまでも石室山に生きていたときの姿のまま眠っているという言い伝えがある』って話を聞いたんだ。それは本当なのか?」
城築先生がピクリと肩を動かして顔を上げた。やはりこれは先生にとって、とても知りたかったことなのだろう。
「生きた姿のまま、か」芳乃はそう言って少し考えてから話しはじめた。
「残念だが、そのような事実はないな。以前にも話したとおり、石室山の玄室には数百の龍の卵が敷き詰められている。そしてその中央に石造りの台座があり、その上には通常の龍の卵より、二回りほど大きい龍の卵が安置されている。それこそが石室山神社の本当の御神体だ」
「二回り大きい龍の卵だって? それじゃあ――」
「そうだ。もちろん生きた姫神様などいないし、玄室という場所ではあるが、生きた姿で眠っている石棺のようなものも無い。御神体の龍の卵は大きいが、それでも人間の体が入るほどの大きさは無い」
「そうだったんだね。いや、芳乃ちゃん、重要な秘密を話してくれてありがとう」
城築先生はそう言って頭を下げた。
「いいえ、城築先生。それくらいは問題ありません」と芳乃は続けた。「おそらく『石室山に生きた姿の初代松虫姫がいる』という伝説は、代々の千堂家当主が、口寄せをして姫神様の言葉を伝えたから、それを見た村人が初代の松虫姫その人だと思い込んだのでしょう」
「芳乃、口寄せって何だ?」
俺は芳乃にたずねた。
「口寄せというのは死んだ人の魂を自分の体に宿して、その人の言葉を現世に伝えることを言うのだ。姫神様の魂は、普段は玄室の御神体に宿っている。しかし姫神様の血を引く、わたしたち千堂家のものは、姫神様の魂を自分の体に宿し、姫神様と同体となって、その言葉を伝えることができるのだ。そのとき、高次元な生体エネルギーを認識できるものならば、姿かたちも初代松虫姫、不破内親王様のものとして目に映るようになる」
「それじゃあ俺が、あの嵐の夜に芳乃が白い羽衣のような服をまとっているように見えたのは……」
「そうだ。あのときおまえは、わたしの体に宿った姫神様の魂の姿を認識していた、ということだ」
「なるほどね」俺たちの話を聞いていた城築先生が言った。「石室山の玄室に、初代松虫姫様の魂はたしかに存在する。だけど、その生きた姿や肉体は存在しない、ということなんだね」
城築先生は抹茶の湯飲みを両手の平で包むように握ると、なにかを考え込むように目を閉じた。
「城築先生」
俺は先生に声をかけた。
「ん……なんだい?」
先生は目を開けると俺のほうを見た。
「先生は、なんでそんなに熱心に石室山や松虫姫のことを研究しているんですか? なにかわけがありそうですが」
「うん、そうだな。これからもずっと一緒に仕事をするのだし、孝一郎くんたちには話しておいた方がいいかな。みんな、今日はもう少し時間はあるかい?」
そう言う城築先生に俺は答えた。
「ええ、俺たちはこのあとの予定はありませんが」
すると城築先生は意外な言葉を口にした。
「そうか。それならもう少しつきあってもらえるかな。わたしの妻を紹介するよ」