第95話 千三百年の涙
五月の連休の最終日。
俺と芳乃、春香、母さんの四人は総英会病院の診察室にいる。
芳乃はこの病院で精密検査を受けることになっていたが、「誰であろうと特別扱いはできない」ということで、もともと検査入院は五月末に予定されていた。しかし人間ドックの予約に急なキャンセルが複数あり、芳乃の精密検査は四月末の連休初日とその翌日にかけて急遽おこなわれた。
そして今日の朝、城築先生から俺の家に「検査の結果が出たので、急で申し訳ないが、できれば今日病院に来れるだろうか」という連絡があった。予定より早まった検査結果の知らせは、はたして良い知らせか悪い知らせか。俺は結果が気になったが、病院の規則で検査結果を電話で伝えることはできない、とのことだった。
そしていま、俺たちの目の前には、病院の白衣を着た城築先生が、診察机の前に座っていた。
先生の目の前には芳乃。その隣には実質的な保護者である母さん。俺と春香は二人の後ろのパイプ椅子に座った。
「まずは一番気になっているだろう結論から言うと、芳乃ちゃんの現在の健康状態に大きな問題はない。そして千堂家の人間が代々短命で亡くなっているという状況は、この先防止できると思う」
「本当ですか!? 先生!」
俺は思わず椅子を蹴って立ち上がった。
春香は目を見開き、口元を押さえて言葉を飲み込んでいる。
母さんが膝に置かれた芳乃の手を強く握るのが見えた。
芳乃の表情は俺からは見えない。
「まあ、落ち着いてくれないか、孝一郎くん。いまから説明するからね」
「あ……はい。すみません」
「精密検査の結果、芳乃ちゃんの体にはこれといった異常は見られないんだが、芳乃ちゃんのお母さんが診察を受けていた病院に、お母さんの血液や粘膜組織が残されていてね。それを使ってDNA検査をおこなったんだ。その結果、特殊な染色体異常が発見されたんだよ。それで芳乃ちゃんの生活圏や食事など多方面から調査したところ、石室山にはわずかにある種の放射能反応があることがわかったんだ。さらに調べたところ、龍の卵の外殻には、極々微量の放射性物質が含まれていて、この放射線を浴び続けて一定量を超えると染色体異常を引き起こして急速に衰弱してしまうのではないか、という結論に達したんだ」
「放射線……っていうと」俺は城築先生にたずねた。「原爆で被ばくするようなものでしょうか」
「うん。ただしこの放射線は非常に弱いものだし、普通の人間が何日か石室山にいたくらいでは何の影響もないのだけれど、生まれたときからそこで生活していると、少しずつ影響要因が蓄積してしまうのではないかと考えている。千堂家に女の子しか生まれないのも、おそらくこの染色体異常が関係していると思うよ」
「それで、芳乃は……芳乃はこれからどうすれば早死にせずに済むんですか?」
「ああ、それに関しては、まずは石室山に住まないことだね。我々医療チームの推察が正しければ、それだけで千堂家の短命症は99パーセント阻止できるはずだ。もちろん残りの1パーセント、たとえば他に先天的な要因が無いかということなどもこれからさらに詳しく検査させてもらう。いずれにせよ、染色体異常という直接的な要因を見つけ出したからには、総英会病院の威信にかけても芳乃ちゃんを死なせはしない」
城築先生は力強くそう言うと、検査結果が表示されているモニターに視線を移して話を続けた。
「龍の卵の放射線量は、たとえ毎日触っていたとしても何も問題はないけれど、さすがに4千トンの龍の卵の上で毎日生活していると影響を受けてしまう。芳乃ちゃんの体には、いまのところ異常はないから、特別な治療も必要ないと思う。まあこのことについても、もういちど詳しく検査するつもりだけれどね」
「それじゃあ……それじゃあ芳乃は……」
「ああ、芳乃ちゃんは普通の人と同じように生きられるよ。まあ、強いて言うなら医学的には発育不足かな。これからは例の革のバンドはやめて、たくさん食べて、丈夫な体を作る努力をした方がいいね」
そう言って城築先生は「あははは」と笑った。
「わたしは…………これからも、生きられるのか」
いままで黙って話を聞いていた芳乃が、どこか呆然とした表情で聞き返した。
「ああ、きっと普通の人と同じ健康を取り戻せるよ。芳乃ちゃんはこれから、普通の高校生と同じ青春を謳歌して、結婚して、子供を産んで育てることができる。男の子だって生まれるかもしれないし、きっと孫やひ孫の顔を見ることだってできるよ。あの日、春香ちゃんが望んだとおりにね。芳乃ちゃんには世の中の、普通の女の人と同じ、幸せな人生を歩む権利がある」
「普通の…………人生」芳乃はそう呟くと目を閉じて頭を下げた。「城築先生。ありがとうございました」
「わたしは何もしていないさ。礼を言うべきは、いままで千三百年間、短命のうちにも次の世代に命をつなぎ、文字通り身を削って石室山を守り続けてきた代々の松虫姫様たちに、だろうね。さて、それじゃあ今後の治療方針だけれど――」
城築先生は説明を続けるためにこちらに向き直ったが、芳乃の様子を見て言葉を区切った。
芳乃は頭を下げたまま下を向き、黙って唇をかみしめていた。膝の上でにぎった拳がかすかに震えている。
「良かったな、芳乃。そうだ、真っ先に杉婆さんのところに知らせに行こうぜ。きっと誰より喜んでくれるはずだよな」
芳乃はますます下を向き、膝の拳を握りしめている。
先に耐え切れなくなったのは春香だった。
「…………う……あ、ああああああっ! 姫ちゃ……ん、よかった……、よかったね……うああああっ」
春香はボロボロと大粒の涙をこぼしながら号泣する。
「本当に良かったね。芳乃ちゃん」
母さんもハンカチで涙をぬぐった。
芳乃は下を向いたまま立ち上がり、診察室の出口まで歩いてドアに手をかけた。
「芳乃……どこへ行くんだ? まだ先生の話は終わってないぞ」
俺は椅子から立ち上がって言う。
「手洗いに行く。おまえはついてくるな」
そう言って芳乃は部屋から出ていった。
「……春香、心配だから見てきてくれるか?」
「ぐすっ……うん……わかった」
春香は涙でぐちゃぐちゃになった顔をティッシュで拭うと、芳乃を追って部屋を出ていった。
しばらくすると病院の廊下の向こう、トイレのほうから二人が号泣する声が漏れ聞こえてきた。きっと抱き合って泣いているに違いない。
トイレまで泣きに行った意味が無えじゃねえかよ、芳乃。
「先生、すみません。もう少し待ってやってください」
「ああ、もちろんだよ。千三百年分の涙を流すといい」
城築先生はおだやかな笑顔でそう言った。




