第37話 謝罪
驚いて言葉を失い固まってしまった俺の両脇から春香と芳乃が名刺を覗き込む。
「代表取締役って、会社で一番偉い人? CEO……って、たしか最高経営責任者……だよね?」春香がつぶやいた。
「いや、いくらなんでもそんなわけは無いだろう……」俺は冷静を取り戻すように勤めながら言った。「あんまり企業のこととか詳しくはないけど……北総エナジーっていったら、日本を代表するような大企業じゃねえか。その大企業のトップが中学生の女の子だなんて冗談にすらなってねえ。いくら北総シシバグループ総帥の妹だからってあり得ねえよ。こんなもんイタズラ用名刺に決まってる」
「あら、どうしてあり得ないなんて言い切れるのかしら?」
神々廻優花は腕組みをして、口元だけ薄く笑いながら俺をにらみつけている。
「そんなもん、常識で考えてあり得ねえだろう。だいたい万に一つでも、あれだけの超大企業のトップが中学生の女の子だったら、全国的な、いや全世界的な大ニュースになってるはずだ。そうなってりゃいくら社会や経済に興味がない俺にだって、いやでも耳に入ってくる。だがそんな話しは聞いたこともねえ」
神々廻優花は腕組みをしたまま、観察するようにじっと俺をにらんでいたが、あきらめたように目を伏せて、ふーっと息を吐いた。
「富岡先輩の常識はずいぶんと幅が狭いんですね」そう言うと前を向き、再び水路の土手を歩きだした。「先輩の言うところの『全世界的な大ニュース』は、たぶん今日の夕方の報道番組で見ることができると思いますよ? わたし、これから北総エナジー本社ビルで記者発表をするんです」
「…………なんの発表をするって?」
「もちろん、北総エナジー代表取締役、兼、CEO就任発表、です。まだ発表前だったので、先輩に名刺を渡したとき、ちょっとフライング気味、と言ったんです」
神々廻優花は、そう言うと立ち止まり、くるりとこちらを向いた。
「その名刺、世界で最初に受け取ったのは富岡先輩ですよ? 良かったですね。お友達に自慢してください」
何を言ってるんだ、こいつは。それは本当のことなのか? いや、いくらなんでもそんなはずはない。そう何度も騙されてたまるか。
そのとき、二,三百メートル先の農道の橋のたもとに、さっきの黒い高級外車が停車するのが見えた。
「千堂さん、やっとお会いできたので、いろいろとお話ししたいことがあったのですが、今日はあまり時間が無くて残念です。でも、こうしてお知り合いになれましたし、またあらためて連絡させていただきます。今度は逃げたり隠れたりしないでくださいね。もしそんなことをすれば……」
そう言って俺と春香の顔を交互に見る。
「おい、神々廻、それはひょっとして脅迫しているのか?」俺は語気を強めてたずねる。
「脅迫? わたしが? まさか」神々廻優花はそう言っておかしそうに笑う。「そんな犯罪じみたことをしなくても、わたしには大抵の望みは叶えられる力がありますから」
「犯罪じみた盗聴や覗き見をしてた人間がふざけたことを言ってるんじゃねえ! おまえがどんな力をもっていようが俺たちは――」
「先輩……わたし、謝ったのに、やっぱり許してくれないんですか?」
神々廻優花は急に悲しそうな表情になり、祈るように両手を胸の前で組み、俺を上目使いで見上げている。これは……もちろん演技だろう。演技だとわかってはいるが……見た目だけなら反則的に可愛い。い、いや、ここでひるんではいけない。
「おまえがやったことは謝れば済むというものじゃないだろう! 俺たちはあの日の夜、あやうく――」
「それじゃあ先輩」神々廻優花は俺の言葉をさえぎって言った。「わたし、先輩に許してもらえるように、誠意のある謝罪をします」
「誠意のある謝罪……?」
「はい。すみません、あのクルマから見えないように、ちょっとだけこちらに来ていただけますか?」
優花はそう言うと、俺の手を引いて、クルマの運転席から死角になる、大きな桜の木の裏側へ回り込んだ。
「先輩……」優花は俺の手を取ったまま、さらに一歩近づいた。
うわ、なんだこれ、顔が近い。近くで見ても、いや近くで見るとなおさら、外見だけはすごい美少女だ。それになんか……いい香りがする。春香とも芳乃とも違う、甘い香り……。
「先輩……昨日はほんとうに、すみませんでした」優花はわずかに涙で潤んだような瞳で俺を見つめてそう言った。
俺は背中を桜の木の幹に押し付けられて動けない。
潤んだ瞳。甘い香り。思考が一瞬停止する。
そして、優花は俺の右肩に片手をかけ、爪先立ちで思いっきり背伸びをして……俺の右頬に……キスを…………した。
「あああーーーっ!!!」
春香の叫び声で俺は正気を取り戻す。しかし優花は俺の右頬に唇をつけたまま離れない。春香が俺たちに飛びかかって優花を引き離した。同時にクルマのドアが乱暴に開く音がして、黒いスーツの運転手がこちらに向かって走ってきた。
「お嬢様!!! 大丈夫ですか?!」
大きな桜の木の下には、呆然とした表情で立つ俺と、肩で息をして優花を睨みつける春香、そして何事も無かったかのように、穏やかな微笑を浮かべる優花がいる。芳乃は少し離れてた場所に立ち、つめたい表情でこちらを見ていた。
「ええ、大丈夫よ。何も心配ないわ」
「……そうですか。ところでお嬢様、そろそろお時間が……」
「わかったわ、すぐに行くから先にクルマに戻っていなさい」
「……は、はい。かしこまりました」
黒スーツの運転手がクルマに戻ったのを見届けると、優花はこちらに向き直る。
「先輩。いまのがわたしの誠意です。受け取っていただけましたか? 唇と唇ではありませんが、わたしが自分から家族以外の男の人にキスをしたのは生まれて初めてなんですよ? ああ、そういえば男の人に愛の告白をしたのも一昨日が初めてです。告白されたことなら数え切れないくらいあるんだけれど……。もちろん、ふられたのも初めてです。まさかふられるなんて思ってもいなかったからすごくショックだったわ」
「ふ、ふざけるな! あれは俺を騙して盗聴器を持たせるための演技じゃないか!」
「……さあ、どうだったかしら? 途中から半分以上本気だったような気もするのだけれど……」
そう言って、優花は「うふふ」と楽しそうに笑った。
「ごめんなさい。今日はもう時間が無いわ。それでは千堂さん、近いうちに連絡しますので、ぜひお話しをさせてくださいね。春香ちゃん、わたし、学校にもできるだけ行くつもりでいますから、これから仲良くしてね?」
神々廻優花はゆっくりと頭を下げると、そのままクルマへ歩いて行く。
「ま、待て! 神々廻っ!」俺はあわてて呼び止める。なんだかいろいろと一方的に驚かされただけで、俺の聞きたいことはまだまだたくさんある。
「先輩……」神々廻優花は足を止め、さびしそうな表情で振り返った。「ごめんなさい。今日はほんとうに時間が無いの。先輩ともまたゆっくりお話がしたいわ。あ、そうそう、わたしのことは『ゆうか』って呼んでくださいね。うふふ。わたしのことをファーストネームで呼び捨てに出来るのは家族以外だと先輩だけですよ。これもお友達に自慢してくださいね。それではまた」
クルマの横に立っていた運転手が後部座席のドアを開けると、優花は優雅にそこへ乗り込んだ。いったい何が起きたのか、頭の整理が付かないまま、俺たちは黒い高級外車がゆっくりと走り去っていくのを見送った。




