第十話 闘牛
「あなたは、私の不手際を責められるべく、いらっしゃったのだろう?」
リンゴを粉砕できそうな大きな手が、バンッ!と、座卓へ打ち付けられた。
「奥様と、坊ちゃまへの言われなき中傷は、この場で必要なことなのですか!」
生唾を飲み、久志がわずかにのけぞる。護も隣で、目を見開いていた。
ゼパールの剣幕に慣れているのか、史とメフィストは、ゆるい語調で彼をなだめた。
「まぁまぁ、ガキの言うことなんざ、気にすんじゃねぇよ」
さっきまで、そのガキと口論していたのを棚に上げ、能天気な慰めである。
「そうよ。他人の家の匂いって、けっこう気になっちゃうものよ? それに私がババアなのも、護がぼんやりしているのも、事実でしょう?」
我に返った護も、白い手を広げ、おずおずとフォローを入れる。
「……ほら、ゼパール……あのさ。別に久志も、カッとなっただけで、本気で言ってるんじゃないからさ」
それでもまだ、憤りは収まらないのか、猛る闘牛のごとく、ゼパールは目を血走らせている。久志もその視線に、先ほどまでの尊大さを、削り取られつつあった。
今回の面談の目的は、久志の怪我は「単なるアクシデントによるもの」として、彼をなだめすかし、示談へ持ち込むことだった。
彼が負担している治療費用の肩代わり程度なら、引き受けても構わない、と青柳からもゴーサインは出ている。
平和的解決の為なら費用を惜しまないのが、我が課長の少ない長所である。
だが、もしここで、ゼパールが本当に久志へ暴力を振るってしまえば。
状況は一変し、圧倒的に不利な展望を見せる。示談なんて、夢のまた夢だろう。
下手をすれば、おそらくゼパールは廃棄処分。史とプランシー社の契約も切れるだろう。そうなれば、また青柳にどやされる。
それはさすがに、色々と心が折れる。
バカ二人に踊らされた挙句、そんな苦境に立たされてたまるものか。
息を一つ吸い、気持ちを改める。表情は出来るだけ爽やかな、女性受けがいいと評判の営業スマイルへ。
座卓へ身を乗り出し、わざと声のトーンを上げた。
「みなさん、少し落ち着きましょう。話も少々逸れてしまっています」
メフィストと、梅ノ辻家の面々は、その声にハッとした表情を浮かべてくれた。
「も、申し訳ありません」
ゼパールも両手を膝頭に戻し、赤い顔でうつむく。彼へもにっこりと微笑み返す。
「冷静になっていただけて何よりです。それではもう一度、ゆっくり話し合いましょう。今大事なのは、久志さんのお怪我の具合と」
「あのさ、兄ちゃん」
気だるげな声が、自分へ向けられたものだと、すぐには気付けなかった。
背後の箪笥にもたれた久志は、どんよりした目で、こちらを見上げていた。
「あんたってさ、『僕、学級委員やります!』的な感じのガキだったでしょ?」
「は……『僕』?」
引きつった私の顔に構わず、低いトーンで久志は続ける。
「っつーか、今もそうでしょ? 仕切りたがりって言うの? オレ、そういう男、生理的にムリなんっすけど。椎茸と同じぐらい、無理」
「椎茸……」
冷静に考えれば、夏の暑い中、上下スーツ姿で長身の自分が、男に間違えられる可能性は、ゼロではないだろう。胸も尻も、小振りなのは重々承知。
ただ残念なことに、メフィストと久志の丁々発止にうんざりしていた心に、そこまでの冷静さや、寛容さは残っていなかった。
残機ゼロだった。いや、今のやりとりでマイナスに突入していた。
怒りで我を忘れる、という言葉を聞いたことはあったが、経験したのは、今日が初だった。
気が付けば、久志の身体を両足で挟み込む形で、仁王立ちとなり、彼を睥睨していた。
ただうっすらと覚えていることは、自分でも驚くほど自然に、俊敏かつ無音の内に体が動いていたことだけだ。
明かりを背に、真上から淡々と、顔面蒼白の学生へ言葉をぶつけた。
「私は女だ。ついでに言えば、学級委員ではなく掲示係だった」
「ガキん時からデカかったのかよ」
メフィストの茶々入れは、無視する。
「そして、本筋から逸脱した話で、これ以上業務を長引かせるのは、止めていただきたいものです。長話をされたからといって、有利な状況が発生することは、まずありません。あくまでも事実に基づき、弊社は判断いたしますので。また、お宅をお借りしている、梅ノ辻さんにもご迷惑をかけている旨、ご理解なさっていますか?」
男と勘違いされても仕方がない、低い声でゆっくりと、彼の鈍そうな頭に言葉を叩き込ませる。
これは、また新たなクレームが発生するかもしれないな、と少し経ってから気づいたが、もう遅い。本末転倒だ。
「……なに、マジになってんの。ウケるし、つーか、引くし」
久志自身は笑っているつもりらしいが、顔半分はぎこちなく凍ったままだった。
そして私との距離を取りたいのか、不器用に体を滑らせる。
足元に置かれていた、彼のカバンが、そのはずみで横倒しになった。
メフィストにクソ扱いされたそれは、口が開けられたままだったらしく、中身が畳の上に散乱した。
「やべっ」
「ん?」
久志の上ずった声と、荷物に目を奪われた者たちが上げた疑問符は、ほぼ同時だった。
なお、ゼパールがアレな格好なのは、「街に出没するストリーキング」という当初のイメージ像の名残りです。




