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雨の収蔵庫(The Rain Archive)  作者: テレン


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6/7

金木犀の雨

夜の街を包む雨は、

まるで記憶そのものが降っているようだった。

ひと粒、ひと粒が過去の断片を映し、

濡れたアスファルトを小さく光らせる。


陸は傘を持たずに歩いた。

坂上郵便館を出てから、

ほとんど無意識のまま足が観覧車の方へ向かっていた。


ポケットの中では、

金木犀の小瓶がかすかに温もりを持っている。

胸元の封筒が、心臓の鼓動に合わせて震える。


あと十二分。

時計の針は、確かに“20:00”を指していた。



観覧車のふもとまで来ると、

雨脚が少し弱まった。

地面の水たまりがライトを反射して、

まるで星空が足元に落ちているように見えた。


ベンチの上に、一枚の青い封筒が置かれている。

金の糸で一度だけ結ばれた封。

宛名は――


Rへ/おかえり


陸は指で封をなぞった。

糸の結び目が、どこか見覚えのある形をしている。

一度だけほどこうとして、思いとどまり、

そのまま胸に抱きしめた。


封筒からは、金木犀の香りがした。

同時に、遠くで観覧車の軋む音が聞こえる。

その音が、心臓の鼓動と重なっていく。



光が動いた。

観覧車の影の下、透明な傘を差した人影が立っていた。

照明が雨の幕に滲み、

その輪郭を金色に縁取る。


陸は、息を飲んだ。


澪だった。


「……来てくれたんですね」


彼女の声は、雨の中でもはっきりと届いた。

少し掠れているのに、不思議と懐かしい響きだった。


陸はゆっくり頷いた。

「約束だから」


澪は微笑んだ。

「この時間、この場所。

 “また来い”って、あなたが言ったから」


その言葉に、胸の奥が震えた。

“また来い”――

あの日、自分が彼女に言った言葉。

死の淵で、もう一度生きてほしいと願った声。


「思い出したんですね」


「全部……とは言えない。

 でも、断片がつながっていく。

 君の笑い方も、泣き方も、あの香りも。」


「それで十分です」


澪は傘を閉じた。

雨が肩に当たり、髪を濡らす。

そのひとしずくが、光を受けてきらめいた。


「MNEMOはもう動いてます。

 あなたが“12の断片”を揃えたから。

 私の記憶は、あなたの中へ戻りはじめてる。

 ――でも、その先は私も知らないんです。」


「消えてしまうの?」


「いいえ。

 消えるんじゃなくて、混ざるの。

 “あなたの記憶”と“私の想い”が、

 同じ場所に並ぶだけ。」


彼女はそっと近づき、陸の胸に手を当てた。

指先が温かい。

その温度が皮膚を通り、心の奥に届く。


「ほら、ここ。

 私、ちゃんといるでしょう?」


陸は目を閉じた。

澪の気配が、雨とともに流れ込んでくる。

光、香り、笑い声。

いくつもの季節が一度に押し寄せ、

胸の奥で一つの輪になる。



20時12分。


観覧車のライトが一斉に点灯した。

夜空に浮かぶ十二の光の輪が、ゆっくりと回転する。

雨の粒が照らされ、

金木犀の花びらが舞い上がる。


澪は微笑んだ。

「陸、ねぇ。

 “また来い”って言葉、

 “また恋”と同じ音なんですよ」


陸は目を見開いた。

澪の瞳の中に、灯りが映っている。


「“来い”は生きるための言葉。

 “恋”は、生きたいと願う心。

 ね、どっちも同じなんです。」


陸は息をのんだ。

「だから、君は――」


「あなたに、“また恋して”ほしかった。」


雨が静かになった。

金木犀の香りが一段と濃くなる。

世界が、言葉の意味を飲み込み、

ただ“響き”だけを残していた。


澪の姿が淡い光に包まれる。

境界が溶けていく。

声も、輪郭も、温もりも、光へと変わっていく。


「……ありがとう、陸。

 思い出してくれて。」


「ありがとう、澪。

 忘れさせてくれて。」


ふたりの声が重なり、

雨の粒が一瞬、静止した。


そして、光が弾けた。

雨が空へと昇っていくように、

金木犀の花びらが夜空を舞った。



気づくと、雨は止んでいた。

澪の姿はもうなかった。

けれど、胸の中にあった空白は、

もうどこにも残っていなかった。


陸はベンチに腰を下ろし、

夜空を見上げた。

観覧車の光が、ゆっくりと遠ざかっていく。

風が頬を撫で、金木犀の香りを運んだ。


その香りの中で、

耳の奥に微かな声が響いた。


「また来い」


その瞬間、陸は気づいた。

その声はもう、過去からの呼び声じゃない。

これから先へ進むための言葉だと。


同じ音で、もう一度、呟いた。


「また恋」


陸は笑った。

“来る”ことと“恋う”こと。

違うようで、きっと同じ意味なのだと思った。

誰かを想うことも、また会いたいと願うことも、

どちらも、生きることの続きだから。


傘を持たぬまま、ゆっくりと歩き出す。

濡れた舗道に、観覧車の光が揺れていた。


世界が、もう一度、動き出していた。


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