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清くも正しくも美しくもない  作者: 東方博
番外編 続・サロメの接吻
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主にあってわれらはひとつ

 すき焼きを平らげ、献上品のタルトも胃に納めた望は、それはそれは幸せな心地で三人分の食器を洗って片付けたのだった。卓上コンロも丁寧に拭いて、ボンベを外して棚にしまう。

 スマホをチェックするが、三杉からの返信はない。既読にもなっていないところから察するに、通知だけを見てメッセージの中身までは確認していないもだろう。

(三杉のくせに!)

 なんて失礼な奴なのだろう。望は『【速報】プリティーローズ最新情報』と入力してから、メッセージを送ってやった。

 さて、明日は一日缶詰めで説教の原稿を完成させなくては。週報も作って、あと昨日丸屋長老から送られてきた小会の議事録に目を通して、一麦女子聖学院高校の懇親会の参加可否連絡も来週頭にはしないといけないしーー指折り数えると結構な忙しさだった。

「で、あんたはいつまでここにいるつもりなんだ」

 至極当然のごとくソファーを占拠している尊は、絵本をぱらぱらめくっていた。望が書斎から引っ張り出して置いておいた絵本だ。明後日の日曜学校で子ども達に読み聞かせてやろうかとーーあ、その練習もまだだった。

 それはさておき、いい年した青年が可愛らしいイラストが表紙の絵本を興味深そうに眺めている姿は、結構シュールである。

「なにモーセに興味でもあんの?」

 否定するかと思いきや、尊はあっさりと「ええ」と肯定した。

「これは旧約聖書の物語ですか?」

「まあ……そうだね」

 モーセの生涯を『物語』と表現していいのかは別として、旧約聖書の一部分を子どもでもわかるように明るく優しいタッチの挿絵と言葉で描いた絵本だ。

「あんたには新共同訳聖書で十分だろ。返せ」

「あら、のんちゃん今日は練習しないの?」

 なんというタイミング。お風呂上がりの希が余計なことを言う。

「練習、ですか?」

「のんちゃん絵本読むの下手だから、毎日練習しているのよ」

「今日はいいの!」

 望は尊から絵本を奪い返した。

「そんなことより、終電がなくなる前にさっさと帰れば?」

 意地の悪い発言をしている最中に今度は望のスマホが着信を告げる。電話だ。何故、メールを使わない。八つ当たり気味に望は乱暴に電話に出た。

「何さ」

『的場ぁーっ!』

 音信不通だったはずの三杉からだった。

『騙したな! プリティーローズの最新情報なんて書いてねえ!』

「ひっかかるなよ」

『取り込み中だったのに』

「黙れ似非牧師。聖書を忘れて帰る奴があるか」

『え……』

 絶句した三杉に望は絶句した。呆れ果てた奴だ。今日の昼過ぎに終わった牧師会で忘れて、今の今まで気づいていなかったらしい。

「野本牧師に知られたら、どうなるだろうなー」

 電話の向こうで三杉がひしゃげたうめき声をあげた。子どもや信徒には優しく穏やかな物腰の野本牧師だが、牧師にはとことん厳しい。神学校で説教学を教わった三杉はその怖さをよく知っているはずだ。

「何か言うことは?」

『……アリガトウゴザイマス』

「なに、礼には及ばないよ。ミッキーのタルト一ダースで充分だから。明日持ってきて」

『わ、わかった。今ちょうどミッキーの前だから、買っておく。だから聖書を忘れたことは』

「うん。ちゃんと野本牧師に報告しておいた」

『鬼っ! 悪魔っ! お前には慈悲というものはないのか!』

 同期に対して酷い言い草だ。しかし寛大な望は赦してやることにした。

「クール宅急便着払いで峰崎教会宛に送っておいたから、適当に受け取っといて」

『おま、なんで聖書を冷やして送るわけ!? 嫌がらせ以外の何モンでもねえよ!』

 ぎゃんぎゃんと子犬のように吠える三杉。

「ほら取り込み中なんでしょ。邪魔したら悪いから切るね」

「まだ帰ってきてないみたいだからいい! そんな気遣いよりもなあ、なんでよりにもよって野本牧師に」

「ストップ」

 望はミュートモードにした。ミッキーのそば。まだ帰ってきてないみたい。培われた勘と推理力が嫌な結論を導き出した。

「つかぬ事をお訊ねしますが」

 帰り支度をしている尊を呼び止める。

「今住んでるアパートって、ミッキーのそばって言ってたよな?」

「真隣ですよ」

 襲いくる嫌な予感に耐えながら、望はミュートを解除した。

「三杉、まさかとは思うけど、あんた『例の人』の帰りを待ってたりなんかしてないよね……?」

『悪いか』

「最悪」

 なんてこったい。望は天を仰いだ。同期は既に手遅れだった。

『昨日、大家さんに聞いたんだが、転勤で引っ越しするんだってよ。もう二度と会えないかもしれない……そう思ったら居ても立っても居られなくなって』

 転居の原因にそんなことを言われても本人は困るだけだ。何やら込み上げてくるものがあるらしく、三杉は鼻をすすって『嗚呼どうして名前も知らないまま去ろうとグズッ』と熱っぽい口調で呟いた。情緒のカケラもない詩的かつ独特な気持ち悪い表現に望の背筋に怖気がはしったのは言うまでもない。そもそも名前も知らない相手の家の前で待ち伏せする時点で、常軌を逸している。

『いつもはもう帰ってくる時間なんだが……』

 目の前にいる尊は何も知らないで希から手土産を受け取っている。ハンディサイズの聖書だ。

「ねえ三杉、悪いことは言わないから、まずは家に帰って二週間くらい頭を冷やしてだな、」

『やべえ警察だ。切るぞ、じゃあな』

 不安しか残らないまま通話は途絶える。望は額に手を当てた。終わったな。詰んだ。終了。さよなら三杉、君のことは忘れない……二週間くらいは。

「では、私はそろそろお暇いたします」

 感傷に浸る望に、尊が挨拶する。

「希さんから聖書をいただきました。ありがとうございます」

「最初から順々に読まなくてもいいから、気になるところから読んでみてね」

「試してみます」

 和やかに去ろうとする尊の背広の裾を、望はとっさに掴んだ。怪訝な顔で振り向く尊。

「的場牧師?」

「頼みがある」

 背に腹はかえられない。望は尊の腕をひっしと掴んだ。

「お願いだから今日はウチに泊まって」

これにて番外編終了です。

お付き合いくださりありがとうございます。

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