一
君のことを想うと心臓が止まらない。
どうしてだろう。
君といると一分が六十秒に感じる。
君と一緒に飲む珈琲はいつも苦くて、君と一緒に食べるケーキはいつも甘い。
この切ない想いを伝えられないのは自分の弱さのせい。
君への想いは募るばかり、
海辺の砂のように、
夜空の星のように。
君と出会って僕は本当の恋を知った。
君を好きになって僕は偽りのない自分に出会えた。
君に恋をして、僕は真実の愛に触れた。
そう、この世界には偽りばかり。
みんな仮面を被って生きている。
でも本当に美しいのはありのまま。
雑草も雑木林もクジラもシーラカンスもnatu……ナチュラルだから美しい。
時よ止まれ。
ナチュラルな君は美しい。
望は原稿用紙七枚にも及ぶ詩を握り締めたまま、硬直した。脳が理解しようとするのを拒む。今まで読んだどんな奨励や説教よりも難解で意味不明だった。
「なかなか奇抜な詩ですね。なんといいますか、こう……破壊力があって。痛ましいというか、痛々しいというか……」
「ただの痛いポエムです」
詩を持って来た本人がばっさりと切り捨てる。
「どう思いますか?」
「冒頭からツッコミ所が多数。心臓が止まったら死にますし一分は元々六十秒だし、普通、珈琲は苦いしケーキは甘いものです」
「いや、あの」
「『創世記』や『ファウスト』から引用している部分もありますね。海辺の砂だの夜空の星だののくだりはまんま聖書です。おそらく意味もわからずとりあえずそれっぽい文を使ってみたのだと推察します」
「そういう意味ではなくて」
「あとここの英単語は『natural』と書こうとしたが綴りがわからなかったので、カタカナで『ナチュラル』と書いたのでしょう」
「お願いだからそれ以上、身内の恥を突きつけないで!」
ついに耐えきれなくなった恵素輝は悲鳴に近い声をあげた。
恵素輝。初見で読める人はあまりいない稀有な名は彼女が三杉家の人間であることを示していた。
ペルシャ語で「星」を意味するエステルは、旧約聖書に登場する女性の名前でもある。ユダヤ人モルデカイの養女。当時のペルシャ王クセルクセス一世の妃になった、美しく聡明かつ勇気ある女性だったという。
だったら素直に「星」と書いて「エステル」と呼ばせたり、いっそひらがなで「えすてる」にしてしまえばいいような気がするが、例のごとく信仰深い三杉家の父親はどうしても漢字を当てることにこだわったらしい。そして付けられた名は恵素輝。古今東西類を見ない奇抜なネーミングセンスだった。
閑話休題。
牧師にこそならなかったものの、両親からしっかり信仰を受け継いだ恵素輝はキリスト教系の児童書出版社に勤めている。仕事がない限りは毎週の主日礼拝も守っている。三十代前半という若さもあって、他の教会員からも頼りにされているようだ。
そんな敬虔な信者で、普段は弟が牧会している峰崎教会の礼拝に出席している彼女が、突然武蔵浦和教会の主日礼拝にやってきた。何事かと訊ねたところ渡されたのが先ほどの詩である。
「弟の机に置いてあったの」
説教の原稿かと思って何の気なしに覗いてみたら、まさかの恋のポエム(しかも中二病風)だった。姉の衝撃は推して知るべし。父に続いて弟までもが痛い芸術センスを開花させてしまったのかと、慌てて望に相談しに来た――という次第だった。
「昔から弟は個性的な子だったわ。怪我したわけでもないのに眼帯つけたり、ブックオフで見つけた黒魔術の本を熟読してたり、腕にマジックで紋章描いたり、色々やっていた。でも高校卒業と同時にそういったものからも卒業していた! だというのに、これは一体何なの? どう頭をぶつけたらこんな痛々しいものを書けるわけ?」
まず『そういったもの』から弟が全く卒業していないことから教えるべきなのだろうが、望は黙っておいた。世の中には知らない方がいい真実がたくさんある。
「相手に心当たりは?」
「相思相愛なら皆無。片想いなら、それこそ星の数ほど」
一度も会ったことのないネットの歌姫にさえ恋心を抱ける器用な奴だ。たしかに特定は難しいだろう。
「本人にそれとなく訊いてくれない?」
なんであんなのと同期になってしまったのだろう。後悔しても遅かった。