第36話 何もしない午後
長く、すべてを凍りつかせるような北境の厳しい冬も終わり、王都には柔らかな春の風が吹き始めている。街路樹の枝先には淡い緑の芽が吹き出し、厚い外套を脱いだ人々の足取りもどこか軽やかだった。
私は今、『王国四境交易調整顧問』という新しい役職に就き、王城の専用の執務室で働いている。任期は、私が自ら書き足した条件の通り「二年」。
机の向こう側では、新たに配属された二名の優秀な補佐官が、手際よく関税の書類を仕分けし、各所への通達状を作成してくれていた。
「リディア顧問。東ルートの通行許可証の更新ですが、前回と同じ規定で処理してよろしいでしょうか」
「ええ、問題ありません。事後報告の決裁だけ私の机に置いておいてください。あとの細かい調整は、あなたたちの裁量に任せます」
「承知いたしました」
日常の決裁を二人へ委ねた当初は、時計を見ても指がペンを離さなかった。
そんな日は、レオンハルトが灯りを落とした夜の言葉を思い出した。
『お前が休んでいる時間も、お前の価値は減らねえよ』
今では週に一度の完全休務日を守り、定時にペンを置ける。
「お待たせいたしました、リディア顧問。……いや、今日はただの『リディア』だったな」
執務室の扉が開き、私服姿のレオンハルトが顔を出した。
黒い軍服を脱ぎ、飾り気のない上質なシャツと薄手の外套を羽織った彼は、戦場を駆ける猛将というよりは、落ち着いた大人の色気を纏う一人の男性だ。婚約をしてからこの半年、彼は辺境の領地経営の合間を縫ってはこうして王都を訪れ、私の休日を共に過ごしてくれている。
「ふふ。ええ、今日はお休みです。行きましょう、レオンハルト様」
私が立ち上がると、彼は自然な動作で私の手を取り、エスコートしてくれた。
王宮を出て賑わう大通りを歩きながら、私たちは王都施療院の前を通りかかった。
開け放たれた入り口の向こうでは、エルマが転んで膝を擦りむいた少年に包帯を巻いていた。半年前、母親の手の中で熱に浮かされていたトマが、自分の足でここまで走ってきたらしい。
ふと、彼女の背後にある巨大な壁一面の薬棚に目が留まる。
半年前に木目が見えていた月白草の棚には、定められた平常在庫の小瓶が並んでいた。多すぎも少なすぎもしない、ありふれた薬棚だった。
エルマが顔を上げ、窓越しの私に気づいて一礼した。包帯を巻き終えたトマは、叱られたばかりなのに、もう出口へ駆け出そうとして母親に襟を掴まれている。
私は笑いをこらえながら、小さく頭を下げて施療院の前を通り過ぎた。
市場の広場に出ると、様々な香辛料の香りや、色とりどりの春野菜、そして行き交う人々の活気ある声が溢れていた。
私たちは、以前も一緒に訪れた馴染みのパン屋の屋台へと向かった。店先には、焼きたての香ばしい匂いを立てる胡桃パンが、大きな柳の籠の中に山のように積まれている。
「どれにする? 一番大きくて美味そうなのを選んでいいぞ」
レオンハルトが、少し身を屈めて私の顔を覗き込みながら、からかうように笑う。
「ふふ、じゃあ遠慮なく。私の目利きを甘く見ないでくださいね」
私は店主から木の挟みを借り、籠の胡桃パンを見比べた。
その時だった。
ふと顔を上げた私の視界の端に、広場の向こう側にある運送ギルドの荷捌き場が映り込んだ。
春の物流が活発になっているせいか、行き先ごとに分けられているはずの『荷札の棚』が、忙しさのあまり少しだけ乱れ、色が混ざってしまっているのが見えた。
(あそこ、棚の仕切りを少し高くすれば、誤配送が減って、積み込みも早くなるのに……)
私の頭の中で、自動的に『詰まり』の原因と、それを解決するための最適な標準化の手順が組み上がっていく。
足が、無意識にそちらの方向へ一歩踏み出しそうになった。
半年前の私なら、彼を待たせて荷捌き場へ駆け寄っていただろう。
だが、私は。
少し乱れた遠くの荷札棚をじっと見つめながら、踏み出そうとした足をピタリと止めた。
そして、ゆっくりと手元の木の挟みを動かし、籠の中から一番丸みを帯びて焼き色の良い胡桃パンを選び取り、お盆の上に乗せた。
「……行かなくていいのか?」
私の視線の先に気づいていたレオンハルトが、面白そうに口角を上げて尋ねてきた。彼には、私の考えていることなどお見通しなのだ。
「行きませんよ」
私は胡桃パンの入った温かい紙袋を受け取り、彼に向かって微笑んだ。
「人命に関わるような緊急性はありません。あの程度の小さな乱れなら、明日、出勤した補佐官たちに状況を伝えて、対策の指示を出せば十分に間に合いますから」
「ははっ、そいつは頼もしい。有能な顧問様は、ちゃんと仕事を他人に任せて休むことも覚えたってわけだ」
レオンハルトは嬉しそうに笑い、私が選んだ紙袋を受け取った。
私たちは市場の喧騒を抜け、川辺の木陰にあるベンチへと向かった。
春の川面は太陽の光を浴びてキラキラと反射し、足元には名も知らない小さな白い花が咲き始めている。
隣に座る彼の肩が、私の肩にそっと触れる。彼から伝わってくる温もりは、過酷な雪の中でも、穏やかな春の陽気の中でも、変わらずに私を安心させてくれる。
会議室の怒号も、決裁を急かす鐘もない。
私たちは並んで座り、胡桃パンをかじった。
遠くでは、乱れた荷札棚を店員が一段ずつ直し始めている。私が立たなくても、誰かが気づき、明日なら補佐官と相談できる。
レオンハルトが掌を上にして、ベンチの間へ置いた。私が手を重ねると、彼は指を絡め、額へ短く口づけた。
絡んだ左手の薬指には、細い銀の婚約指輪がある。半年前まで白く残っていた古い輪の跡は、もう見えなかった。
川面を光が流れていった。
私は荷札棚を一度だけ見て、胡桃パンをもう一口かじった。
立ち上がらなかった。




