第20話
協議室の空気は、凍りついたように動かなかった。
国王の言葉が、まだ床の上に重く残っている。
――王室の人材を、国の目を、勝手に失わせた。
ルシアは、その言葉を胸の奥で何度も繰り返した。
国の目。
そんなふうに呼ばれるとは思っていなかった。
自分は、ずっと欠けているのだと思っていた。
聖眼を持たない。
癒やせない。
祓えない。
だから、せめて邪魔にならないように、隅でできることをしてきただけだった。
だが、国王は今、その仕事を「国の目」と呼んだ。
嬉しいというより、まだ怖かった。
そんな大きな言葉を、自分に向けられていいのか分からない。
ギルバートは顔色を失っていた。
「陛下、私は……アージェント家の長として、家の判断を」
「家の判断で、王室付薬剤師の職を処理したのか」
国王の声は低かった。
「ルシア・アージェントは、王室の任命を受けていた。家の娘である前に、王室の職務を担う者だ」
ギルバートは言葉を詰まらせる。
オスカーが一歩前に出た。
「陛下。フランキス王国からの申し入れは正式なものでした。ルシアにとっても、能力を活かせる道であったと」
「本人に、そう説明したのか」
国王が問う。
オスカーの唇が止まった。
「婚約破棄を告げた同じ場で、国外移送を通告したと報告にある」
国王は書類へ視線を落とした。
「さらに、私物は事前にまとめられ、翌朝には迎えが到着していた。これは相談ではない。通告だ」
オスカーの表情が硬くなる。
ルシアは、あの日の執務室を思い出した。
伯父の冷たい声。
オスカーの淡々とした表情。
すでに荷がまとめられていた私室。
自分には何も選べなかった。
その事実を、今ここで他人の口から聞かされるのは、不思議な感覚だった。
痛い。
けれど、少しだけ楽でもあった。
あれは自分の勘違いではなかったのだと、誰かが証明してくれているようで。
「オスカー・ヴァーダンド」
国王の声が、さらに冷える。
「そなたは婚約者として、ルシアの仕事をどう評価していた」
オスカーは一瞬、答えに迷った。
「……魔獣用の薬餌や補食は、一定の効果があるものと」
「一定の効果」
王妃が静かに繰り返した。
その声に、協議室の全員の視線が移る。
王妃エレオノーラは、穏やかな表情のままオスカーを見ていた。
「あなたは、あの子に何と言いましたか」
オスカーの顔がわずかに強張る。
「王妃陛下、それは」
「調合法はすでに発表されている。だから、本人にそれほどの価値があるとは思えない」
王妃の声は、静かだった。
「そう言ったのではありませんか」
ルシアは息を呑んだ。
その言葉を、王妃が知っている。
おそらく、調査の中で聞き取られたのだろう。
あの日の会話まで、すでに王室へ届いている。
オスカーは反論できなかった。
王妃はゆっくり続ける。
「調合法があるなら同じものが作れる。そう思ったのでしょう」
「……はい」
「けれど、今この国では、同じ調合法で作った補食が以前ほど効いていない」
オスカーの肩が揺れる。
「理由は分かりますか」
答えはなかった。
王妃は、机の上に置かれた一冊の記録帳へ視線を落とした。
それはルシアの記録だった。
薬草の乾燥具合。
個体ごとの食後反応。
天候による配合変更。
水分量と休息時間。
誰にも見向きもされなかった、細かな記録。
「薬は、文字だけで効くものではありません」
王妃は言った。
「誰に、いつ、どの状態で、どれだけ与えるか。それを見極める目があって初めて、薬は薬になる」
その言葉が、ルシアの胸に深く沈んだ。
ずっと、自分でも分かっていなかったことだった。
薬草を混ぜているだけではない。
餌を作っているだけでもない。
見て、考えて、調整していた。
それが仕事だった。
王妃はギルバートへ視線を移した。
「あなた方は、その目を見なかった」
ギルバートの顔が歪む。
「王妃陛下、ルシアは聖眼を持ちません。アージェント家としては、聖女の家の責務を」
「聖眼がない者に価値はない」
王妃は淡く遮った。
「その考えが、今回の失態を招いたのです」
協議室に、誰も声を出せない。
王妃は、今度はルシアを見た。
その眼差しは、あの日、王家の馬型魔獣の前で向けられたものと同じだった。
静かで、まっすぐで、逃げ場がないほど優しい。
「ルシア」
「……はい」
「私は、あなたを王室付薬剤師に推薦しました。あなたが王家の魔獣を救ったからです」
ルシアは、何も言えなかった。
「けれど、推薦しただけで、その後あなたがどう扱われていたかを十分に見ていませんでした」
王妃は、わずかに目を伏せる。
「それは、私の落ち度です」
「王妃陛下、そのような」
ルシアは思わず声を上げた。
王妃が謝ることではない。
少なくとも、ルシアはそう思った。
けれど王妃は首を振った。
「見出した才を守ることも、王室の役目です。私はそれを果たしきれなかった」
その言葉に、ルシアの胸が締めつけられる。
責められなかったことが、苦しい。
誰かのせいだと叫べれば、もっと楽だったのかもしれない。
でも、王妃はルシアを責めなかった。
自分の痛みを、なかったことにもしていない。
だからこそ、ルシアは深く頭を下げた。
「王妃陛下に、以前いただいたお言葉を覚えています」
声が少し震えた。
「よく見てくれてありがとう、と言っていただきました。あの時、私は……自分の仕事を、少しだけ信じられました」
王妃の瞳が、わずかに揺れる。
「だから、謝らないでください。あのお言葉は、私にとって本当に救いでした」
協議室に静かな沈黙が落ちた。
セシリアが、向かい側で目を潤ませているのが見えた。
マグダレナは腕を組んだまま、何も言わない。
だが、その表情はいつもより少しだけ柔らかかった。
国王が再び口を開く。
「処分を申し渡す」
ギルバートとオスカーが、同時に身を強張らせた。
「ギルバート・アージェント。王室付薬剤師の不当な離職処理、および他国との人材取引に関する調査が終わるまで、アージェント家当主としての宮廷出入りを停止する。家の財務記録も提出せよ」
「陛下……!」
「異議は調査後に聞く」
国王は続けた。
「オスカー・ヴァーダンド。そなたは王室管理魔獣に関わる一切の職務から外す。ヴァーダンド家には別途監査を入れる」
オスカーの顔から血の気が引いた。
「私が、魔獣管理から」
「そなたは、価値を見誤った」
国王は冷たく言った。
「見誤った者に、今この国の魔獣を任せることはできない」
オスカーは唇を噛んだ。
あの日の彼なら、冷静に反論しただろう。
だが今は、言葉が見つからないようだった。
ギルバートも同じだった。
欠陥と呼び、役立たずと見なし、家から遠ざけた娘。
その娘が、今や王の前で専門職として扱われている。
自分たちは、その価値を見誤った者として裁かれている。
その事実だけで、十分に重い断罪だった。
◇
処分の言い渡しが終わると、国王はルシアへ向き直った。
「ルシア・アージェント」
「はい」
「テレジア王国は、そなたに正式に謝罪する」
ルシアの呼吸が止まった。
国王が、頭を下げるわけではない。
けれど、その声は王としての謝罪だった。
「王室付薬剤師であったそなたを守れず、不当な形で国外へ出した。さらに、そなたの専門を軽視した結果、国内外の魔獣管理に支障を来した」
ルシアは、ただ立っていることしかできなかった。
「そのうえで、協力を求めたい」
国王の声は、命令ではなかった。
「テレジア、フランキス、ヴァルミア三国による魔獣移動および医療・保護の共同調査に、専門家として加わってほしい」
戻れ、ではない。
命じる、でもない。
協力を求めたい。
その違いが、ルシアには分かった。
だからこそ、すぐに答えられなかった。
自分がテレジアに協力する。
それは、この国へ戻ることとは違う。
けれど、あの日の痛みをなかったことにすることでもない。
ルシアは一度、目を閉じた。
思い出すのは、売られると知ったあの夜。
うつむいて行っても仕方がない。
自分にできることを探して進むしかない。
そう言い聞かせて、国を出た。
そして今、本当に自分で選ぶ時が来ている。
ルシアは目を開けた。
「協力します」
セシリアの顔が明るくなる。
だが、ルシアは続けた。
「ただし、私はテレジアへ戻るために協力するのではありません」
ギルバートが、かすかに顔を上げる。
オスカーもルシアを見る。
「私は今、フランキス王立魔獣医療・保護施設の薬剤師です」
声は震えていなかった。
「フランキスで必要とされ、そこで働くと決めました。ですから、三国の魔獣を守るための専門職として協力します」
マグダレナの口元が、わずかに上がる。
アルベルトも静かに頷いた。
王妃は、柔らかく微笑んだ。
「それでよいのです」
その言葉で、ルシアの胸の奥から、何かがひとつ落ちた。
戻らなくていい。
許すために帰る必要もない。
恨み続けるために離れる必要もない。
自分は、自分の仕事をする場所を選んでいい。
セシリアが立ち上がった。
「陛下」
国王が視線を向ける。
「私も、共同調査に加わらせてください」
ギルバートが何か言いかけたが、国王の視線で黙った。
セシリアは続ける。
「私は聖眼で傷を癒やせます。けれど、それだけでは足りないと知りました。テレジアの聖女として、傷つく前の仕組みを学びたいのです」
国王は王妃を一瞥した。
王妃は静かに頷く。
「許可する」
セシリアは深く頭を下げた。
そして、ルシアを見る。
銀の瞳が、まっすぐにルシアを映している。
ルシアも、そっと頷いた。
かつて比べられるだけだった姉妹は、今、同じ場所に立っていた。
銀の聖眼と、金の魔眼。
癒やす目と、見抜く目。
どちらが上でも、どちらが欠けているのでもない。
二つが並んだ時、ようやく届く命がある。
協議室の外では、王都の鐘が鳴り始めていた。
その音は、あの日ルシアが売られると知った時に聞いた鐘と、同じ王都の鐘だった。
けれど、今は違って聞こえた。
終わりを告げる音ではない。
新しい仕事の始まりを告げる音だった。
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