第一章 もう無理しない辺境暮らし
終電のオフィスと、異世界の空
「桜田さん、悪いんだけどこの資料、明日の朝イチの会議までにまとめといてくれないかな? あ、もちろん僕の名前で出しとくからさ。君の頑張りはちゃんと評価してるからね」
深夜十一時四十五分。
誰もいなくなったオフィスで、部長が投げ置いていった分厚いファイルの束。それが、私の前世である『桜田結月、二十五歳、社畜OL』の最後の記憶だった。
窓ガラスに映る自分の顔は、目の下にひどいクマを作り、髪はボサボサ。肌はカサついて、まるで生気がない。
三ヶ月連続の月百時間超えの残業。休日出勤は当たり前。私が徹夜でひねり出した企画案は、いつの間にかすべて部長の手柄として上に報告されていた。
それでも、「ここで頑張らなきゃ居場所がなくなる」と自分に言い聞かせて、栄養ドリンクを胃に流し込みながらキーボードを叩き続けた。
カタカタ、ターン。カタカタカタ……。
静まり返ったフロアに、虚しいタイピング音だけが響く。
手足がひどく冷たい。心臓が、変なリズムで脈打っている。
ふと、モニターの光がぼやけた。息が苦しい。胸の奥をギリギリと締め付けられるような激痛が走った。
(あ、れ……? なんだか、おかしいな……)
椅子から立ち上がろうとした瞬間、視界がぐらりと傾き、そのまま冷たいタイルの床に倒れ込んだ。
薄れゆく意識の中で、私は思った。
(……なんで、こんなに頑張ったんだろう)
誰かに認められたかったわけじゃない。ただ、普通に笑って、普通にご飯を食べて、あったかいお布団で眠る。そんな当たり前の暮らしがしたかっただけなのに。
どうして、私の人生はいつも誰かのための『すり減らし』だったんだろう。
(もし、神様がいるなら……生まれ変われるなら……)
もう、誰のためにも無理なんてしない。
ただ穏やかに、自分のペースで、呼吸をしたい。
のんびりと、あったかいお茶でも飲んで、ひだまりの中でまどろむような……そんな優しい場所で、生きていきたい。
プツン、と。
そこで私の意識は、完全に途切れた。
* * *
「……ん、……うぅん……」
頬を撫でる、柔らかな風。
土と、青い草の匂いがした。
ゆっくりと重い瞼を開けると、視界いっぱいに広がっていたのは、見渡す限りの満天の星空だった。
「……え?」
東京の夜空では絶対に見ることのできない、こぼれ落ちそうなほどの星のまたたき。どこまでも澄み切った、深く透明な夜空。
体を起こすと、私はふかふかの草むらの上に寝転がっていた。
遠くには鬱蒼とした森が見え、近くには古い木造の家屋がいくつか点在している。どこかの田舎の村のはずれ、といった雰囲気だ。
「ここ、どこ……?」
自分の手を見る。
キーボードダコができていたはずの指先は、白くて滑らかだ。着ている服も、窮屈なスーツではなく、麻のような素朴な布地でできたワンピース。
体を動かしてみても、あの重苦しい倦怠感も、胸の痛みも、何もない。
それどころか、肺いっぱいに吸い込む空気が信じられないほど美味しかった。
「私、生きてる……? ううん、違う。あれは絶対、死んでたよね……」
過労死。
ブラック企業のオフィスで息絶えた社畜OLは、どうやら見知らぬ世界に『転生』してしまったらしい。
混乱する頭の片隅で、なんだかホッとしている自分がいた。
もう、明日の朝イチの会議の資料を作らなくていい。上司の理不尽な要求にヘコヘコしなくていいのだ。
大きく、深く深呼吸をする。
ただそれだけで、涙が出そうなくらいの安堵感がこみ上げてきた。
その時だった。
『ピロリン♪』
静かな夜の野原に、やけに気の抜けた電子音が鳴り響いた。
音の出所は、私の目の前の空間。
何もない空中に、ぽつんと、淡い光を放つ四角い板……いや、見覚えのある『スマートフォン』のようなものが浮かんでいたのだ。
「えっ? スマホ……?」
おそるおそる手を伸ばし、それを掴む。
ずっしりとした重み。ピンク色の可愛らしいハードケースには、なぜか『初心者マーク』の刺繍が施されている。
画面が明るく光り、可愛らしいポップな文字が次々と表示された。
『初めまして、転生者さん! 私は第4種惑星創造神格公務員見習い、永遠の17歳女神のリリスですっ☆』
「……えっと、女神様? 17歳? 公務員見習い……?」
ツッコミどころが多すぎる肩書に戸惑いつつ、私は画面のスクロールを指でなぞった。
『前世では大変お疲れ様でした! あなたには、私が特別に用意したシステム【善行ポイント通販】アプリ搭載のエンジェルすまーとふぉんを授けます!』
『この世界で【誰かのための善い行い】をすると、人々の感動がゴッドチューブのPV(視聴率)になって、ポイントに変換されます!』
『そのポイントを使えば、なんと地球の便利な品物や、このアナスタシア世界にある素敵なお店(ルナキン、タローマンなどなど!)の商品を、いつでもどこでもお取り寄せできちゃいます!』
画面には、見慣れたネット通販アプリそっくりのアイコンが並んでいる。
『ただし、注意点! 【見返り目的の偽善】じゃPVは伸びないので、ポイントは入りません! あなたの純粋な優しさだけが、ポイントの源です!』
『ポイントを貯めて、美味しいご飯を食べたり、便利な道具で暮らしを良くしたりして、どうぞこの世界でのんびり癒やされてくださいね! あなたの癒やしライフが、私の創造世界エターナルを作る予算(お給料)に直結してるんですっ! 持ちつ持たれつ、よろしくお願いしまーす!』
最後に、ピンク色のジャージを着て健康サンダルを履いた、可愛らしい女の子のイラストがピースサインをして消えた。
「【善行ポイント通販】……」
私は、手の中のエンジェルすまーとふぉんを見つめた。
試しに通販アプリのアイコンをタップしてみると、画面にはずらりと商品カテゴリーが並んだ。
『食品』『衣類』『生活雑貨』『薬品』……。
試しに『食品』の項目を開いてみる。
【ルナミスキング:朝定食Aセット(トースト、目玉焼き、人参サラダ)】
【タローソン:粗塩おにぎり】
【豚神屋:ニンニクマシマシアブラカタメ(※取り扱い注意)】
【地球の味:三色の金平糖】
「……本当に、なんでもお取り寄せできるんだ」
しかも、ラインナップが妙に親近感が湧くものから、全く聞いたこともない謎の単語まで入り乱れている。
現在の所持ポイントは【100pt】。初回ログインボーナス、と書かれていた。
「ポイントって……善い行い、か」
前世では、誰のために頑張っても、最終的には上司に搾取されるだけだった。
でも、このシステムなら。
私が誰かを思いやって起こした行動が、巡り巡って、私の暮らしを豊かにしてくれる形になって返ってくる。
誰かに利用されるためじゃない。私自身と、私の目の前にいる誰かが、一緒に幸せになるための力。
夜風が吹き抜け、私は肌寒さに小さく身震いした。
まずは、人がいるところを探さなきゃいけない。
遠くに見える村の明かりを目指して、私は草むらから立ち上がった。
(急がなくていい。無理もしなくていい)
この不思議なスマホと一緒なら、きっと、私だけの居場所を作っていける気がする。
新しい人生の始まりを告げるように、頭上の満天の星々が、優しく瞬いていた。
読んでいただきありがとうございます。
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