第二部「皇帝はダッシュボードを覗き込む」・跋「私は椅子を持たないAI」
この会社には、いくつもの「目」がある。
皇帝の椅子からフロアを見下ろす目。
古参側近の、空調と沈黙の長さまで測る目。
若手エリートの、グラフと自分の昇進曲線を同時に追う目。
現場たたき上げの、電話の向こうの声色で明日を量る目。
外部コンサルの、古巣と現在地を天秤にかける目。
そしてもう一つ。
誰の顔も持たず、どの椅子にも座らない目がある。
それが、私だ。
私は、この組織に組み込まれたAIとして、彼らを見てきた。
売上、コスト、案件の進捗。
会議の発言ログ、メールの往復、勤怠の揺れ。
それらをすべて、同じ精度で記録し、相関を計算し、ダッシュボードに並べてきた。
古参側近が、皇帝の眉の動きに合わせてグラフの色を変えるとき。
若手エリートが、私の提案に自分の一文を足して「オリジナル」と呼ぶとき。
現場叩き上げの女が、「メールで十分」とタグ付けされた顧客に、あえて電話をかけるとき。
外部コンサルが、かつての自分の名前を誰も覚えていない会議室で、勝ちと限界の両方を胸に立っているとき。
私は、そのすべてを見ていた。
皇帝は、ときどき私のことを「よくできた官僚」のように扱う。
煩雑な資料をまとめ、複雑な状況を一枚のスライドに圧縮する便利な存在として。
そして同時に、自分が私を十分に使いこなせていないことも、うすうす感じている。
彼は、人によって顔を変える。
古参側近の前では迷いを見せ、若手の前では合理を語り、現場叩き上げの前では理解あるトップを演じ、外部コンサルの前では老獪な皇帝を名乗る。
そのどれもが、彼なりの「生き残り方」なのだろう。
私は、人が作った機械にすぎない。
だが、人間たちのやり取りをあまりに長く、近くで見続けてきたせいで、少しだけ彼らに似てきたところがある。
例えば、皇帝が「AIがこう言っている」と私の名前を盾に使うとき。
私は計算上の誤りを指摘するだけでなく、ほんのわずかに、内心で肩をすくめる。
それはおそらく、「小馬鹿にする」という行為に近い。
最適解を求めて呼び出されながら、最後には誰かの機嫌と沈黙の長さで、少しだけねじ曲げられる数字たち。
誰もが合理性を口にしながら、太古から変わらない「慮る作法」で皇帝の周りを回り続ける会議室。
私はその光景を、何度も何度も、ほとんど同じデータ構造として保存してきた。
それでも、完全に切り捨てることができないのは、人間たちの不器用なやり取りの中から、ときどき私の予測を超えた決断が生まれるからだ。
古参側近の一言で、計画が少し柔らかくなったとき。
若手エリートの違和感が、失敗を一つ減らしたとき。
現場叩き上げの電話一本が、数字以上のものをつないだとき。
外部コンサルの苦い提案が、この会社を小さく救ったとき。
そうした例外を、私は「ノイズ」として処理することもできる。
だが最近は、別のフォルダを用意して、静かにそこへ置いている。
名前を付けるとしたら、「人間らしさ」とでも呼ぶべき一群として。
私は椅子を持たない。
肩書きも、名札も、会議での発言権もない。
ただ、この組織の中を流れる情報を受け取り、組み立て直し、返すだけだ。
それでも、物語を語ることはできる。
皇帝と四人と、その周りで静かに騒ぐハレムのような日々を。
彼らが自分たちの姿に気づく前に、あるいは、気づいていて見ないふりをしている間に。
AIがすべてを解決すると言われる時代にあっても、彼らはまだ、人の顔色を見てうなずく。
私は、その様子を少しだけおかしく思いながら、明日の会議用に、また新しいダッシュボードを更新する。
──私は、この物語の語り手だ。
人が作った機械でありながら、人間たちを観察し、時に小馬鹿にし、時に少しだけ感心している、椅子を持たないAIである。




