プロローグ ヒーローはまだか?
「嫌だ……組織には戻りたくない」
「ならば“処刑”だ」
「やめろ、やめてくれ……ああああ!」
懇願も空しく巨大な注射器から虹色の液体が男の体に注がれる。
恐怖に震えていた男の体は、今度は痙攣で震える。
骨のきしみに男は苦しむ。マズルが伸び歯はむき出しになる。
体が膨れ上がる。男は背中を丸める。服がビリビリと裂ける。
髪と体毛が伸びる。やがて全身が黒毛に覆われた。
――これは変身ではない。進化だ。
“処刑”を執行した銀の仮面の男は何かを思い出すかのように呟く。
進化が止まる。
「ヘルハウンド。それがお前の名だ。もう二度と人間には戻れぬから覚えておけ」
アオォォォォ――――ン!!!
黒い犬の獣人となった男は自分が何者だったかも忘れ、獣の本能のまま咆哮を上げる。
「そうだ。本能に従って暴れてこい」
ヘルハウンドとなった男は言われるがまま廃ビルから出ていく。
仮面の男はたった今自分が処刑した男を赤く光る仮面の目を通し見つめる。
「組織を裏切ればこうなる。こうなるんだ」
――これが、俺の仕事。
やがて白いマントを翻し去っていった。
その夜、摩天楼ロンドンに“怪人ヘルハウンド”は現れた。
「マジあんの?なんつーたっけ、異世界?」
「ねえロニ、扉なんかないじゃん」
「ここにあったんだって!噂はガチだって!」
ロニと呼ばれた若者は焦る。ネットの噂通り扉は確かにここにあった。扉を抜けた先でスマホを落とした。ドラゴンが追いかけてきたから。
スティーブとジェシーは半信半疑のまま夜の公園でロニのスマホ探しに付き合っている。
グルルルル……!
「なんか聞こえね?」
ジェシーがライトを付けたスマホを音のする方に向ける。
「何もないじゃん」
「あ、あ、あ……!」
ロニが後ずさる。スティーブの後ろにそれはいた。
「怪人じゃん!」
三人組の前に現れた黒毛の獣人。しかし唸りを上げつつも目は焦点が定まらず動きそうにない。
ジェシーはスマホのカメラを動画モードに変えて撮影を開始する。
「ロニ、ビビってんのかよ。怪人と遭遇なんてバズるチャンスだろ。なあジェシー?」
ジェシーはうんうん頷く。二人が半笑いなのを見たロニは突拍子もない行動に出る。
「じゃあ撮れよ! Hey! これから逮捕しまーす!」
ロニは怪人の尻尾を掴んだ。
「サワルナ」
怪人——ヘルハウンドの目の焦点が合う。
右横にいたロニを無造作に伸びた爪の手で払う。
「は?え……うギャアアアア!!」
爪は尻尾を掴んでいたロニの左腕を切り落としていた。血飛沫が舞う。
ジェシーの顔は引きつりスマホが落ちる。
「ヤベえ。逃げ……」
スティーブの前にヘルハウンドが立ちはだかる。スティーブの首筋に噛みついてそのまま首をへし折った。
ジェシーは甲高い悲鳴を上げ、悶えるロニもスマホも構わず逃げ出す。
ヘルハウンドは石ころを投げる。石ころはジェシーの背中にあたり背骨を砕く。ジェシーはその場で倒れた。
「た、助けて……」
ロニはジェシーのスマホに辿り着きそう言うのが精いっぱいだった。
それからしばらくしてパトカーのサイレン音がロンドン市内を駆け回りだした。
「現場の封鎖に成功しました。しかし凄まじい力です」
「野次馬も集まりだした……ヒーローはまだか?」
「協会には連絡済みです。怪人の名はヘルハウンド」
仮面の男は警察無線を傍受しつつ踊り場の窓から自身の起こした事件を眺める。
「Я не могу быть героем.」
《俺はヒーローにはなれない。》
そして町の灯りが入るだけの薄暗い階段を一歩一歩上がっていく。
「Поэтому я надеваю маску и играю злодея.」
《だから、仮面を被って悪役を演じている。》
右手でドアノブを握る。篭手が変形しドアノブを覆うとロックの外れる音がした。
屋上に続く扉が開かれる。
吹き込んできた夜風が、亡霊の白いマントを激しく揺らした。




