第三話
新宿の街を切り裂いて現れたのは、スライムのような愛嬌のある塊ではなかった。
それは、ダンジョンの深淵から溢れ出した、異形の魔人――『深層の処刑者』。
三メートルを超える体躯は漆黒の甲冑に包まれ、手にはビルさえ一刀両断しかねない巨大な大剣を握っている。
「―気をつけろ、こいつは魔法抵抗力が異常に高いぞ!」
「くそっ、魔法が効かないなら物理で叩くしかない! 全前衛、突っ込め!」
駆けつけたギルドの精鋭パーティが叫ぶ。
だが、レベル100を超える重戦士が放った渾身の斧の一撃は、魔人の甲冑に火花を散らすだけで、傷一つ負わせることはできなかった。
「……バカな。俺の力は、大型トラックを跳ね返すほどなんだぞ……!」
絶望が広がる。
相手の基礎防御力がこちらの攻撃力を遥かに上回っている。
魔人が大剣を振るうたびに、新宿のコンクリートがバターのように切り裂かれ、一流の冒険者たちがゴミのように吹き飛ばされていく。
その破壊の嵐の中を。
逆流するように歩いていく、一人の女性がいた。
「おい、逃げろ! 死にたいのか!」
倒れ伏した冒険者が叫ぶ。
だが、佐藤美月の耳には、その声は届いていない。
彼女の視界には、ただ、目の前の「邪魔なデカい塊」だけが映っていた。
今日の仕事。高木課長の罵倒。終わらない照合。
それらのストレスを抱えたまま、彼女はいつもの「避難所」であるダンジョンに向かおうとして、この化け物に道を塞がれたのだ。
(…早くスライムを殴りたいのに)
彼女は、事務カバンを路傍に置いた。
そして、ポケットから取り出した、使い古されたグローブをはめる。
美月は、魔人の懐へ、音もなく踏み込んだ。
「……!?」
魔人が、初めてその赤い瞳を揺らした。
あまりにも無防備。あまりにも、殺気がない。
ただ、仕事を終えたOLが、スーパーのレジに並ぶような、あまりに平熱な足取り。
美月は、右拳を引いた。
彼女にとって、これはいつもの「ぷに」への予備動作に過ぎない。
「邪魔」
ド、ォォォォォォォォン!!!!!
世界が、爆ぜた。
物理耐性を持たない存在に対し、物理耐性を貫く拳が直撃した結果――。
衝撃波だけで、周囲のビルの窓ガラスがすべて粉砕された。
魔人の漆黒の甲冑は、防御の役目を果たす暇さえなく崩壊。
災害級の魔人の上半身が、霧のように消滅した。
残された下半身が、慣性に従って二、三歩よろめき、そのまま炭のように崩れ落ちる。
あとに残ったのは、アスファルトに深く刻まれた、彼女の足跡。
そして、空気が急激に圧縮され、そして解放されたことによる、キィィィィンという鼓膜を引き裂くような静寂だけだった。
「……あ。……あぁぁ」
生き残った冒険者たちが、言葉にならない声を上げる。
彼らが全力で挑んでも傷一つ付かなかった怪物が。
魔法を嘲笑い、物理を蹂躙した絶望が。
たった一人の、どこにでもいるOLの、何の構えもない「ただの正拳突き」で、この世から消された。
美月は、自分の拳を見つめた。
(あ……。手応え、なかった)
スライムを殴った時の、あの「ぷに」という確かな抵抗。
自分を受け止めてくれる、あの心地よい弾力。
それが、この化け物には一切なかった。
まるで、豆腐を、あるいは空気を殴ったかのような、あまりに空虚な感触。
「……やっぱり、あの子じゃないとダメだ」
彼女は、期待外れだと言わんばかりに、ため息をついた。
そのまま、立ち尽くす群衆や、カメラを向ける配信者たちの前を通り過ぎ、彼女は再びカバンを拾い上げる。
「あ、あの……!」
一人の冒険者が、震える声で彼女を呼び止める。
「あんた、何者……?」
美月は少しだけ足を止め、振り返った。
「……ただの、事務員です」
彼女はそれだけ言うと、新宿の雑踏へと続く道へ消えていった。




