第四話
翌朝。
新宿の街は何事もなかったかのように動き出していたが、ネット上はもはや制御不能な状態にあった。
『物理OL、災害級を一撃で消滅させる』
『魔法無効の魔人を「ただのパンチ」で粉砕。人類最強の事務員か?』
昨夜の動画は、もはや「バズり」の域を超え、国家規模の安全保障会議にまで持ち出されている。
けれど、私は相変わらず、満員電車の冷たいドアに額を押し付けながら出社していた。
職場のフロアに入った瞬間、空気が物理的に重くなるのを感じた。
昨日までのような「好奇の目」ではない。
それは、もっと根源的な、捕食者を前にした群れの「沈黙」だった。
「……佐藤さん、おはよう」
山下さんが、蚊の鳴くような声で挨拶をしてくる。
彼女の手は、私の顔を見るのを避けるように小刻みに震えていた。
私は無言で席に着き、PCを立ち上げる。
そこに、高木課長が現れた。
いつもなら、彼はフロアの端からでも聞こえる大声で、私の「至らなさ」を指摘しながら歩いてくる。
だが今日は違った。
彼は私のデスクの三メートル手前で一度足を止め、喉を鳴らしてから、無理やり虚勢を張るように近づいてきた。
「おい、佐藤。……昨日の照合、まだ終わってないのか」
声が震えている。
私はゆっくりとキーボードから手を離し、彼を見上げた。
「……課長」
「な、なんだ。文句があるなら言ってみろ。事務員の分際で、その目は――」
彼の言葉が、不自然に途切れた。
私の瞳の中に、何を見たのだろう。
私は今、彼という存在を、極めて冷静に「観測」していた。
昨夜、私は知ってしまった。
物理耐性を持たない存在がどれほど脆いかを。
目の前のこの男性。
私を怒鳴り、自尊心を削り、人生を停滞させているこの「権威」という服を着た肉の塊。
私が、ほんの少し―そう、キーボードのエンターキーを少し強く叩く程度の力で彼の喉を突けば、彼の脆弱な生命維持機構は簡単に停止するだろう。
鉄柵の中にいるライオンが、飼育員をじっと見つめるような、静かな視線。
「……ひ、っ」
高木課長が、一歩、後ずさった。
彼は、自分がなぜこれほどまでに恐ろしいのか、その理由を言語化できていないはずだ。
ただ、彼の本能が、DNAに刻まれた生存本能
が叫んでいるのだ。
――『逃げろ。これは、自分と同じ「人間」という枠組みに収まるものではない』と。
「資料なら、終わっています。そこに置いてありますよ」
私は淡々と告げた。
声に怒りはない。
むしろ、慈悲に近い穏やかさだった。
高木課長は、私のデスクに置かれた資料をひったくるように掴むと、一度もこちらを振り返らずに自分の席へ逃げ帰った。
私は、自分の右拳をそっと握りしめた。
あぁ、そうか。
私は、自由だったんだ。
今まで私を縛り付けていた、社会的な立場。上司という階級。事務職という役割。
それらはすべて、私が「弱い存在」であることを前提とした、砂の上の楼閣だった。
私が、自分を「強い」と認めた瞬間に。
この閉塞感に満ちたオフィスは、ただの「箱」に変わった。
私は、強い。
その自覚は、私を狂わせるのではなく、驚くほど真っ直ぐに立たせてくれた。
夕暮れ。
私は、いつもの場所―新宿第二ダンジョンの地下五階、一番奥の暗がりにいた。
入り口には、有名ギルドのスカウトマンや、テレビ局の取材クルーが「粉砕OL」を探して張り込んでいる。
けれど、彼らは誰もどこにでもいる「疲れた事務員」に声をかけることはない。
私は、いつものスライムの前に立った。
昨夜の魔人のような、威圧感はない。
ただの、青い、ぷるぷるとした塊。
私はレンタルグローブをはめ、軽く拳を振り下ろした。
―ぷに。
冷たくて、柔らかな、あの感触。
世界で唯一、私の全力を「受け止めてくれる」存在。
「……やっぱり、君だね」
私は小さく笑った。
今日はもう、怒りを込めて殴る必要はない。
これは、対話だ。
私は今日も生きている。私は今日も、私を失わずに済んだ。
その確認のための、儀式。
ふと、背後から複数の足音が近づいてくるのを感じた。
「やっと見つけた。新宿二ダンの『粉砕者』」
振り返ると、そこには黒いスーツを着た、明らかにカタギではない雰囲気を纏った男女が数人立っていた。
ギルドの特務機関か、あるいは国家か。
彼らは、私が一撃で災害級を葬ったことを知っている。
だから、その手には、魔法の銃や、特殊な拘束具が握られていた。
でも、私は動じなかった。
彼らがこのスライムより硬いはずはない。
私は、グローブのゴムをパチンと鳴らし、彼らの方を向いた。
「……定時は過ぎているので、残業代が出るなら話を聞きますが」
その冗談のような言葉に、エージェントたちは息を呑んだ。
最強の事務員の、本当の戦いは―あるいは本当の休息は、ここから始まる。




