石山合戦ー⑭:本願寺退去と「残された者」――朝廷の思惑
天皇の苦悩ー勅命の重み
ただ、このとき幸いであったのは、朝廷が間に立っていたことだ。いかに惨忍な信長でも、朝廷の顔を潰すほどの振る舞いはできぬ。ここで和睦に応じれば、門徒が根絶やしにされることまではあるまい。だが、戦いを続ければどうなるか。信長の苛烈さは顕如が誰よりも知っていた。
一方の教如は、武人めいた気質が強く、父のように引くことを潔しとしなかった。
「父上は降りたいなら勝手に降りられよ。この戦いを辞めたいと申す者どもと一緒に退去なされるが良い。なれどわしは戦を続ける」
そう言い放つ息子に、顕如はもう説得は無理と悟った。
「よかろう……己が道を進むがいい」
顕如がそう答えると、教如は黙って立ち去ったという。父と子の溝は、深く裂けてしまったのだ。
時の天皇は正親町院。財政は困窮し、信長の援助に頼らねばならなかった。表向きは中立を保ちながらも、心情としては信長寄りであったと伝わる。まあ、天皇とはいえ神ではない。人とは霞を食って生きられるものではない。支えてくれる者に傾くのも無理からぬことだ。
しかしながら本願寺の側にも、公家との深い繋がりがあった。顕如の母は前大納言・庭田家の娘、妻は三条公頼の娘、息子の教如は前関白・近衛前久の猶子。つまり、皇族や摂関家と縁を結ぶ血筋でもあったのだ。だからこそ天皇にとっては、本願寺もまた簡単には切り捨てられぬ存在。信長と本願寺の抗争は、まさしく頭痛の種であったに違いない。
「どちらかに肩入れするわけにもいかぬ。だが、この戦が長引けば、朝廷の権威そのものが揺らぐ」
天皇の胸中は、そうした焦燥に満ちていたことだろう。信長の勢いは増すばかり。もう猶予はない。早々に和睦させることしか解決の道はない。
結局、正親町天皇は勅命を下した。「石山本願寺を明け渡すだけでよい」と。要するに本願寺を明け渡せば、誰の命も取らない、ということである。本来の信長なれば、絶対に皆殺しである。しかし勅命であれば如何に信長であれど逆らえない。顕如はこの勅命に従い、ついに退去を決意する。
こうして天正8年、顕如は城を出て紀伊鷺森へ移った。だが、息子の教如は城に残り、徹底抗戦を望んだ。実の父子がそれぞれ別の道を歩む。これもまた戦国の哀しき姿よ。
門跡たる顕如が退去した以上、本願寺を明け渡したことは誰の目にも明らかである。結局、講和は正式に成立した。だが、父の後を追わず石山に残った教如は、やがて信長の怒りを買い、寺中を追放されることになる。
私が聞いた話では、このとき本願寺の門徒の中にも、顕如に従う者と教如に従う者とで分裂が生じ、互いに睨み合う場面すらあったという。実質20年近くも続いた抗争の末に残ったのは、深い溝と疲弊。それはまるで「勝者なき戦」であった。
石山の戦は、ただの籠城戦ではなかった。門徒衆の背後には、雑賀の鉄砲傭兵たちがいたのだ。あの者らは、戦場を己の商い場と心得ていたのだろう。火縄を片手に金で雇われ、敵をも味方をも選ばぬ。だがその射撃の腕は群を抜き、幾度となく信長軍を退けてみせた。
「雑賀衆の銃火が鳴り響くたび、信長軍が幾百と倒れた」――と後に語り継がれている。
信長とて鉄砲を積極的に用いた男である。されど、同じ道具を相手に握られては容易ならぬ。雑賀衆の乱射は、天下人をも苦しめた。
そして、もう一つ忘れてはならぬのが海の道。毛利の援軍、村上水軍が運んでくる兵糧である。彼らが瀬戸内を押さえ、兵糧や火薬を石山へ運び込んだからこそ、この戦いは10年も続いたのだ。
陸をいかに信長が押さえようとも、海を押さえねば勝ちは遠い。村上の船が夜陰に紛れて大阪湾に入り込み、米俵を運び込む様子は、さながら影のごとく。信長の将たちも歯噛みしつつ、それを阻めなかった。制海権を握るとは、これほどまでに重いものなのだ。
だが顕如が退去を決意したことで、石山は大きく揺らいだ。父・顕如にと共に退く者もいれば、教如に従い残る者もいた。小競り合いから数えること20年戦い抜いてきた誇りが、「今さら退けるか」という意地に変わった者も少なくなかったのであろう。
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