石山合戦ー⑬:安土城の完成――本願寺の影
石山本願寺ー父と子の決裂
同じ年、天正7年(1579年)。安土に、ついに天下人の居城・安土城が完成した。湖水に聳え、七層の天守が輝き、唐や南蛮の意匠すら取り入れた前代未聞の城郭であった。今で言えば、まるで異国の宮殿と要塞が一つに溶け合ったかのようなものだろう。
しかも信長は、ただ城を築いただけではない。城下に楽市・楽座を設け、座の特権を取り払った。税を免除し、誰もが自由に商いできると触れを出した。これまで高い上納金に苦しんでいた商人たちは、こぞって安土に集まった。年貢の免除までも行われ、農の民も喜び、瞬く間に安土は大都市と化した。
「胡蝶、そちの申した通りにしてみたら、人が集まり、城下が栄えたぞ」
「それはようございました」
「ふふ、やはり我が妻は賢い女子よ。何か褒美はいらぬか?」
「お褒めをいただければ、それで十分にございます」
そのときの信長は、まこと上機嫌であった。己の世を築いた、そう信じて疑わぬ顔をしていた。安土の石畳を踏みしめながら、「天下は目前」と思ったに違いない。
一方で光秀も、この年の10月までに丹波・丹後を平定し、翌8年には正式に丹波を与えられた。藤孝もまた丹後の領主となり、両者の絆は盤石となった。乳母を失って得た国、その原因を作ったのは信長、しかしこうやって領地を与えてくれたのも信長、複雑な思いを抱えたまま、光秀は栄達の道を歩んでいた。
だが、戦国は止まらぬ。安土の城壁が新たに輝くその陰で、まだ火種は燻っていた。
天正8年3月。10年近くに及んだ石山本願寺との戦も、いよいよ終わりを迎えようとしていた。だが、そこでもまた、人の心が割れた。
本願寺法主・顕如は、すでに疲弊し切っていた。幾度も信長の大軍を迎え撃ち、戦の煙と血にまみれた年月。これ以上続ければ、やがては城も民も根こそぎ滅ぼされよう、と彼は悟っていた。そして信長はそうなるまで執拗に攻撃してくるだろう。
「ここで開城せねば、一人残らず命を落とすことになろう……」
そう考え、ついに和睦を望む思いを口にした。だが息子の教如は真逆であった。
「10年だぞ、父上。10年も信長の兵を退けてきた!我らには銃も兵糧もある。強者ぞろいの門徒たちの心は折れておらぬ。なぜここで戦を止めねばならぬのか!」
若き血はたぎり、父の言葉を臆病と見下した。顕如も心中では「親に楯突くとは」と憤ったに違いないが、息子の激情は止まらぬ。
「信長の手で門徒は幾万と殺されてきた! その恨みをどう晴らすのか。毛利殿もなお支援してくれると申しておる。父上、なぜそれが分からぬ!」
だが顕如には見えていた。毛利の兵は次第に引き、援軍も減りゆくこと。信長がもし総力を挙げて押し寄せれば、二十万もの兵が城を取り囲むだろう。その半分でも包囲が続けば、兵糧は二年ももたぬ。果たして毛利がいかほどの兵を出してくれるか、はなはだ疑問である。……そのとき何が起こるか、顕如には想像できた。信長の苛烈さを思えば、女も子も生きては済まぬ。
父と子の溝は埋まらなかった。ここに至り、石山の命運はもはや尽きかけていた。
顕如という人は、ただの僧侶ではなかった。石山合戦が始まるずっと前から、信長と裏表の争いを繰り広げてきた。もう二十年に及ぶ長き抗争である。あの男の執念深さは恐ろしい。だが、これまでは信玄や謙信といった強敵が次々と信長の前に立ち塞がっていた。顕如にとっても、それは救いであったのだろう。
「まだ、わしらだけを相手にしている暇はあるまい」と。
けれども、その強敵たちもすでに鬼籍に入った。もし謙信が生きておれば、上杉と盟を結び、信長に一矢報いる道もあったかもしれぬが、その望みも潰えてしまった。
教如は「毛利が味方」と胸を張ったが、毛利の大黒柱たる元就はすでに世を去っている。息子の輝元らが兵糧の補給を続けてはいたものの、父のごとき老獪さと度量はなく、どこか心もとない。信長の勢いに比べれば、もはや釣り合わぬ。
だから顕如には見えていたのだ。今や信長に怖れるものはない。この機会にこそ、一気に石山を叩き潰しに来るに違いない、そう思わずにはいられなかったのであろう。
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