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蝶の舞 ー濃姫ー  作者: 麗 未生(うるう みお)
三.君主・信長
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君主・信長―⑤:喪失と怒り――信長の慟哭

理解されぬ孤独

 戦国の武士、ことに大名ともなれば、いつ、いずこへ子を人質に差し出さねばならぬやも知れぬ。子に対しての情はあれど、常に手放す覚悟が要るゆえ、いたずらに可愛がったり、情を深く注ぎ過ぎたりするは戒められておった。とりわけ長子ともなれば、親は意識して距離を置くのが習いとされていた。されば守役や乳母が、実の父母の役目を果たすことが常であった。信長にとって、政秀はまさに父同然の存在であった。


「じい……何故だ! 何故もっと……」


もっと自分の心の内を理解してはくれなんだのか――そんな憤りに似た思いが、信長の胸に渦巻いていたのであろう。そんな信長の目に入ったのは、机の上に置かれた政秀の諫死状であった。


「じいの諫死状を、これへ」


信長が原因で、政秀がこのような振る舞いに至ったことは明白である。おおよそ、書かれておることも察しはつく。それでも、政秀の最期の言葉には目を通さずにはおれぬ。次男の五郎右衛門が、静かにその諫死状を差し出す。信長は政秀の亡骸を抱いていた腕をそっと外し、その体をそこに寝かせた。


〈政秀、不肖にして度々お諫め申し候へど、我が力及ばず不甲斐なきにより、自刃仕り候。殿には、この政秀めを不憫と思し召され候らえば、次なる忠言を、たとえ一か条なりともお用いくだされば、報われし候――〉


と、始まりて、信長に改めて欲しい行状の数々が、整然と綴られておった。それは、常日頃から耳にしておることばかりで、新しき提言は何一つなかった。されど信長には、それがあたかも政秀の声として、すぐ耳元で囁かれているように感じられたという。政秀の切なる願い――それは痛いほどに分かる。だが、自らの心のうちを少しも汲んではくれなんだのかという思いも湧き、信長の胸に怒りがこみ上げてきた。


「何故だ……何故だ、じい! 何故、分からなんだ! 何故、もっと目を開かなんだ!」


そう怒鳴りつつ、信長の目からまた涙が落ちた。怒りと悲しみ、そして口惜しさ。それらがないまぜとなり、次から次へと湧き上がる。


「じいを……最上の布団に寝かせてやってくれ……」


信長がそう呟けば、政秀の妻子らが、その亡骸を清め、着替えをさせ、布団に寝かせた。信長はその顔をじっと見つめたのち、無言で玄関に向かった。慌てて見送りに出た監物たちにも目もくれず、小姓・前田犬千代が(くつわ)を取って控えていた連銭葦毛れんぜんあしげの馬に、無言で跨ると、庄内川へ向けて駆け出した。


(くそっ、くそっ、くそっ……!)


犬千代も庄五郎も後を追うたが、あっという間に引き離されてしまった。川堤に着くと信長は馬を降り、腰を下ろしてただ、川の流れを見つめておったそうだ。


「じい……すまぬ。だが、わしには他の生き方はできぬ。大名の御曹司のような暮らしをしておれば、わしはわしでなくなる。わしは古きもの、不要なものを打ち壊し、新しい世を作りたき者なのじゃ。どうして、それを分かってくれなんだ……どうして、もっと長い目で見てくれなかった……」


亡き父・信秀も、政秀も、信長をただの「ウツケ者」とは見てはおらなんだ。されど、その心の奥底までは見通しておらぬところがあった。


 その胸の内を、最も理解していたのは、きっとこの私だけであろう。

共に過ごした年月は、信秀様や政秀殿と比べればあまりにも短い。されど、信長がどうしようもない思いを抱え、しがらみの中でもがいている姿は、私の目にははっきりと映っておったのだ。


「お前は本当に面白い女だ」


と、信長はよく口にした。そばにいてくれると、心が和む、とも。――それでも、政秀にはずっと見ていて欲しかった。信長の中に、そんな想いが消し切れずに残っていたのであろう。


 政秀の顔が脳裏に浮かび、もう二度と、あの苦虫を噛み潰したような顔を見られぬのかと思うと、また涙がこぼれたという。信長の生涯において、政秀より他に「例え何があろうとも背かぬ男」と信じられる者は、おらなんだのだ。


じっと川を見つめる信長の背に、犬千代が自らの羽織をそっと掛ける。


「殿、川風が冷とうございます」


されど信長は、まるで気づかぬかのように、微動だにせず、ただ、流れゆく川の行方を見つめておった。

後に犬千代は、この時の信長の悲しみは、言葉には尽くし得ぬものであったと、私に語ってくれた。


 その後、信長は政秀の領地である西春日井郡(にしかすがいぐん)小木村(おぎむら)に、「瑞雲山(ずいうんざん)政秀寺(せいしゅうじ)」という寺を建立し、政秀の霊を弔うた。縁の深き沢彦和尚(たくげんおしょう)を招き入れたという。(この寺はのちの第二次世界大戦の時に、空襲により焼失したが戦後、場所を移し再興された)


 なお、政秀の諫死状の中には、内訌の憂いに加え、隣国の脅威に備えていない信長への叱責も綴られておった。ここでいう内訌とは、昨年の天文21年(1552年)4月、鳴海城主・山口教継(のりつぐ)、教吉父子が駿河の今川義元に通じて叛き、続けて同年、清州城にある織田本家・彦五郎信友(ひこごろうのぶとも)の家老、坂井大膳(さかいだいぜん)が信友を唆し、反信長の兵を挙げた事件である。大膳は信秀様の存命中にも叛いた前歴があり、これで2度目である。


 一方、隣国・駿河の今川義元は、三河の松平一族を従え、尾張東部をも占領しており、その勢力は駿河・遠江・三河・尾張東部を合わせ、実に百万石に及ぶ。これは信長が支配する尾張中西部の、4倍以上の力にあたる。


 また、美濃の斎藤道三も五十万石を治める、侮り難き存在である。娘たる私が信長の妻となっていようとも、いつ矛先がこちらに向かうとも限らぬ。それにも関わらず、何の備えも見えぬ信長が政秀には危うく、不甲斐なく見えたのかもしれぬ。無論、信長は信長なりに、独自の考えをもって密かに備えていたのではあるが――政秀には、そこまでは見る事が出来なんだ、ということであろう。

お読みいただきありがとうございます。

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