第二部 「織田信長」 君主・信長ー①:信秀急逝――始まる勢力争い
父上の死と、空席の喪主
第二部 三.君主 信長
町中に出て、信長とともに野山を駆け回る暮らしは、存外に楽しく、周囲がどう思おうと、私的にはつつがない日々を送っておった。信長は人を見た目で判断せぬ一方、美しきものを好む気質も持ち合わせておった。ただの暴れ者と決めつける者も多かったが、書や絵を愛し、舞もたしなんでいた。私はあの舞が好きであった。荒々しく、野心が垣間見える、貪欲なる舞――まさに信長殿そのもの。
私達は夫婦というより、むしろ同志と申す方がしっくりくる。政秀から見れば、さぞかし頭痛の種であったかもしれぬが。この穏やかな時が、せめてもう少し続けばよいものを……と、心から願うておった。されど、そうは参らぬのが世の常よ。
結婚して2年目に入った天文20年(1551年)3月3日、信長の父、信秀様が、42歳という若さで卒中により急逝された。もっとも、当時は「人間五十年」と申す時代ゆえ、さほど早すぎるとも言えなかったが。
義父・信秀様は、尾張の守護・斯波氏の家老にして、織田大和守家の奉行という低き地位から、わずかの期間で斯波氏をしのぎ、尾張半国を勢力下に治めた、まこと戦上手な御方であったそうな。我が父・道三とも幾度となく鉾を交えた間柄で、
「まこと、目障りな男よ」
と、父はよく舌打ちしながら申しておった。
そして私が信長に嫁いだことで、信秀様は織田家の基礎をより強固なものとされたのだ。……まあ、父様にとっても損なき縁談であったゆえ、信秀様の申し出を受け入れたのであろうが。
主君の突然の死に、城中の者たちは皆、動転した。主が亡くなれば、主家・織田大和守家の養子である彦五郎信友をはじめ、抑えられていた者が、いつ攻め入って来るやも知れぬ。かといって、君主の死に葬儀をせぬわけにもいかぬ。皆がやきもきしておる中、信長は飄々としておった。されど内心は、穏やかならぬ様子であった。あのように見えて、信長殿は父上を深く尊敬しておられたのだ。
そして信秀様も、信長を「うつけ」と呼ぶ声があれど、次なる跡取りに据える意志は明白であった。その証が、この私と言える。美濃との国境が安定すれば、三河方面への勢力拡大に注力できる。そのためには、強硬派である我が父・道三と手を結ぶのが得策。家中で孤立し、「ウツケ」と悪評高き信長に、美濃の名門・斎藤家から正室を迎えることで、後継者としての正統性と政治的立場を補強するという狙いもあったと……私はお義父上様の言葉の端々からそう感じ取っていた。
「信長はきっと、そなたの良き伴侶となろう。嫁いできたことを、後悔することはあるまい」
そう何度も申されておった。これはつまり、「安心召されよ。そなたの夫は次の君主となるのじゃ」と言われていたに等しいと私は感じていたのだ。そんな信秀様の死は、私にとっても悲しきことであった。
天文20年3月7日(旧暦)、織田弾正忠信秀様の葬儀が、那古野城近くの万松寺にて執り行われた。喪主は、当時17歳の信長殿。葬儀の段取りは、林佐渡守道勝、平手政秀、青山与三左衛門、内藤勝助ら重臣たちが采配を振るい、大雪という和尚が導師を務め、四百名近くの僧侶による読経が本堂に響き渡った。
境内の桜も八分咲きとなり、次男・勘十郎信行は、柴田権六(後の勝家)、佐久間大学らを従えて早朝から威儀を正し、参列しておった。折目高の肩衣に袴、その姿はまさしく貴公子さながらであった。その傍らには、信長の庶兄・三郎五郎信広、弟の信包、喜蔵、彦七郎、半九郎、十郎丸、源五郎が並び立ち、面持ちも厳しきものであった。――ところが、だ。喪主たる信長は、この日も朝早くより鷹狩に出掛け、読経が始まっても戻って来ぬ。よって、喪主の席はずっと空いたまま……だ。
「若殿は、まだでござりますか……」
重臣たちに急かされるのは、またしても守役・政秀である。しかしながら朝、呼びに行ったときには、信長はすでに城を出た後であったという。私も信長と毎日寝室を共にしているわけではないから、信長がどこに行ったかは把握してもおらなんだ。
父上様の葬儀まで欠席するとは、私も夢にも思わなかった。読経が始まるまでには戻るかと期待していたが、いまだ姿を見せぬ。さすがに私も、これはまずいのでは……と、胸騒ぎがした。しかも読経の声は次第に低くなり、焼香の義へと移ろうとしておるのに、信長は依然現れぬ。喪主が焼香をせぬなど、あってはならぬこと。政秀殿の顔は、見るも無惨な蒼白ぶりである。
――このままでは、政秀の大失態となってしまう。
(信長殿……これは政秀殿があまりに哀れにござりまするぞ。一体、どこで何をなさっておるのです? 早う、おいでなされませ……)
そう心の中で祈るように念じた、そのとき――門の方から、どよめきが上がった。
「若殿、お見えになりました!」
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