君主・信長ー②:父の死――怒りと悲しみの焼香
重なる別離
その言葉を聞いて政秀は本堂の入り口へと飛んで行った。やっと来てくれたと胸をなでおろしたのであろうが、その出で立ちを見て立ち尽くした。
政秀は、言わずとも分かると思いながらも、信長に礼装をして参るよう幾度も進言していた。されど信長の格好は、いつものままだった。上天茶筅の髷のまま、、袴を身に付けるでもなく、胸ははだけ、腰には縄帯を巻き、そこには火打ち袋までぶら下がっている。そして四尺あまりの太刀を引きずりながら奥へと進んで行く――その姿に、皆の衆は目を剥き、固唾を呑んだ。
政秀は血の気の引いた白い顔をして、周囲の目を伺いながら信長の後に続くが、すっかり肩をすぼめて小さくなっていた。見ていて哀れでならぬ。それに、皆の視線がちらちらと私にも向けられる。
(はいはい、分かっておりますとも。「奥方がいながら、殿のお召し物の用意ひとつせぬとは」、とでも言いたいのでしょう)
用意された物を素直に着るような御方かどうか、あなた方も分かっておろうに。そう言い返したい気持ちを抑え、我関せずの顔を貫いて、そしらぬ顔でまっすぐ睨み返してやった。そうしたら政秀の袖を、林佐渡守が掴んで立ち上がり、
「若殿は、ご乱心あそばされたか」
と声を張り上げた。政秀は縮こまりながらも、震える声で答える。
「さ、さようなことはございませぬ。若殿は、大殿のご逝去を嘆き悲しむあまり、少々、取り乱されておるだけでござる」
一応、政秀なりに取り繕っているようだ。だが、その政秀自身も、信長の真意を測りかねている。そんな政秀を退けるようにして、信長は前に出た。
「退け!」
信長も、自らが焼香をなすべき番であることは分かっているようだ。いや、信長が焼香を済ませねば、誰も続けぬのである。その怒鳴り声に、周りの者は道をあけた。信長は中央をどかどかと進み、義父上様の位牌の前に進んだ。
「万松寺殿桃厳道見大禅定門」と刻まれた信秀の戒名を、信長は顔を上げて睨みつける。そして次の瞬間――香箱の香を鷲掴みにして、
「喝っ!!」
と叫び、位牌に向かって投げつけた。
(あらまあ……やっちゃった。随分と乱暴な焼香だこと)
と思わず、私は心の中で呟いた。
信長から漂う気迫に堂中の者たちは毒気を抜かれたのか、それとも想像だにせぬ所作に呆けたのか、誰ひとり声を発せぬ。場はしんと静まり返った。ただ、さすがに百戦錬磨の僧たちの読経の声だけは、何事もなきよう続いていた。まるで動じる気配もない。
私は、信長が心底、腹を立てておることを感じ取った。しばらく位牌を睨んでいた信長は、
「帰るぞ!」
と怒鳴るや否や、踵を返した。そして、太刀を引きずったまま門外へと姿を消した。何はともあれ、これにて喪主たる信長が焼香を済ませたことになり、葬儀は粛々と進行した。ただ、今の信長の行動を見て、周囲の者は信長がやはり「うつけ」であるとの思いをますます強めたようだ。父親の葬儀を壊すような真似をするとは、正気の沙汰とは思え。といったところであろう。
信長のように、周りの目など意にも介せず、己の意志に従い自由に振る舞う者は、いつの時代もはみ出し者として扱われる。このとき、信長の胸のうちを理解し得た者は、いや、そもそも察しようとした者すら、ほとんどおらなんだであろう。
されど、私には分かった。あのとき、信長の瞳には、うっすらと光るものがあった。信長は悔しかったのだ。そして、悲しかった。義父上様は、信長にとって目標でもあり、最大の敵でもあった。必ずや超えてみせる。そう思っていたのに、それを果たす前に逝ってしまった父。腹が立った。文句のひとつも言いたかったのに、とそんなところであろう。そして改めて、己の道を己の力で歩むと、厳しく誓いを立てたのだ。
(ほんに、分かりづらい御方じゃ)
あの場で信長の心の内を察したのは、私ただ1人だったであろう。信長の行動は、よくよく観察していれば、むしろ分かりやすい。だが、既成の概念にとらわれた老爺どもの目には、その所作は奇異にしか映らぬのだ。
◆ ◆ ◆
義父上様が鬼籍に入られて十日も経たぬうちに、私にもまた悲しい知らせが届いた。生みの母、小見の方が胸の病にて身罷られたという。大好きな母の死に、私は涙が止まらなかった。十二、三里しか離れていぬ地におりながらも、すでに他家に嫁した身ゆえ、葬儀に馳せ参じることも叶わぬ。
この時代、武家の娘たるもの、1度嫁げばたとえ実の親とて、死に目にも葬儀にも立ち会うことなど許されぬ。ましてやこの婚儀は和睦のための政略。いわば、私は人身御供同然。親の死とて、むやみにご領内を出ることなど、できようはずもなかった。
私はひとり、那古野城にて静かに母様の冥福を祈った。
このときばかりは、信長も私を見ても、いつものように投げ飛ばしてはこなかった。
「そちの母、どのような御方であった?」
「母様は、とても優しく、美しい人でした」
「そちに優しかったのか?」
「はい、いつも私の身を案じてくれておりました」
「そうか……」
私の言葉に、信長は遠くを見やるような、どこか羨ましげな顔をしていた。
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