3
机の上に、それこそ山のように積まれた書類の束に舌打ちしながら、アルフレッド・ロス・ベルームはすっかり冷めてしまった茶を一口流し込んだ。
辺りには既に夜の帳が下り、どこからとも無く聞こえてくる鳥の長い鳴き声だけが、唯一その静寂を乱すものだった。
まったく、己の所にばかり厄介ごとを押し付けてくるな、と言いたい。
「俺は雑用係じゃないんだぞ」
この国ーナポリアは随分と先進的な国ではあると思うが、評議会が一手に政治も、立法も司法も担っている。
(いずれは司法を独立させるべきだろうがー時期尚早と言ったところだろうな。王もすぐには認めないだろう)
それまでは、頭が痛くなるほどの案件が上がって来るのだろうと、アルフレッドはこめかみを押さえ、重い溜息を吐く。
「今宵は……行けそうにもないか」
壁に備え付けられた時計を見遣りながら、つい不満げな呟きが漏れ落ちる。
そのような言葉を零す際に見せる彼の切なげな瞳は憂いを帯び、一回でも目にした女性ならば、何を置いても彼を抱きしめたいと願うほどの切なさを滲ませているのであった。
(先程の品、食べてくれただろうか……)
昼過ぎ、彼女には昨晩の侘びを送っておいた。
果たして口にしてくれるかは定かでは無いが、以前彼女自身の口からフルーツの類を好むと聞いた事があったはずだ。だからそのまま捨て置くことも無いだろうが……。
そこまで考えて、アルフレッドは椅子の背もたれに深く背中を預けた姿勢のまま、左手で顔を覆う。
(俺とした事がー。どうやら俺は、自分で思う以上に彼女に惹かれているらしい)
初めてあの部屋で彼女を見たとき、なんと美しい瞳をしているのだろうと思った。
小作りな顔の中で、意志の強い青の瞳がまっすぐにこちらを見つめていた。金の長く柔らかな髪が流れる肩は思いがけぬほど華奢で、緊張に引き絞られているのであろうその唇は、女性らしい愛らしさに溢れていた。
「〝ラッカの勇者〟……か」
彼女がそう呼ばれる存在であるのが嘘のようにアルフレッドには思えたのだった。
初めは、聞こえてくる噂話に興味をそそられただけだ。
(兄が死に、彼女はその代わりに男として生きることを決めた。……正妃の子であれば、そんな事にはならなかっただろうに……)
他に選択肢が無かったとは言え、ラッカ大公がアッシュを自分の元に遣る決断を下したのは、彼女が庶子であって、他の王族との縁組が決まっていなかったせいもあろう。
(いまでも、彼女は俺を憎んでいる)
その事実を思い出せば、アルフレッドの胸は、きりりと痛んだ。
しかし、それは当然のことだろう。
彼女の国を助けることと引き換えに、彼女を望んだのだ。彼女にとっては、これほど不本意な取引も無かったろう。
(でも、俺は、彼女に惹かれている。……たとえ彼女が自分より五つも年上で、俺のことを憎しみの対象としか見ていなかったとしても)
「……ふう」
瞬間、知らず自嘲気味の苦い息を漏らすと、アルフレッドは立ち上がり、窓際に用意されている水差しから冷たい水をグラスに注いだ。
こくりと一口飲み干せば、つるりと喉を落ちていく爽快感が堪らない。
そう言えば、彼女の唇もいつも冷たいのだ、と思い出して、初恋に惑う愚かな若者のようだと苦笑する。まったく自分とした事が、なんという失態だろう。
いつでも彼女に会いたい、と思う。
このような深夜、己の執務室に篭りきりになると思い出すのは、彼女の髪、瞳、滑らかな肌。そしてその時ばかりは甘やかな吐息を漏らす彼女の唇……。
花がほころぶように開かれる唇はどこまでも愛らしく、彼の施す愛撫に震える様は、さながら堅い蕾が開かれていくような新鮮な驚きを彼に与えてくれた。
いっそこのまま仕事を放り出して、彼女のベッドに潜り込もうか。彼女は決して拒んだりはしないだろう。暖かな彼女の寝所に寝転んで、いつでも冷たく感じる彼女の肢体を抱きしめて眠るのも良い……。
そこまで考えて、アルフレッドは首を横に振った。
「馬鹿な……」
現実的に考えて、自分は今机の上にしかと存在する、あれらの仕事を片付けてしまわねばならない。
それに……。アルフレッドの口の中に、苦いものが一杯に広がる。
彼女の元へ行ったとして、熱くなるのは体だけだ。
決して自分を抱きしめ返そうとはしない彼女に溺れた後は、すっと虚しくなるのが常だった。己の欲望を彼女の中に叩きつけたとしても、彼女の柔らかなふくらみの上に顔を埋めている間に、意識が冷めていくのが解る。
それは情事の終わった後の相手が勤めて冷静に振舞おうとするのが解るからで、余韻を楽しむでも無し、彼女は己から顔を背け部屋の天井を、もしくは引かれたレースの間から見える月に視線を向けているのだった。
(それでも彼女に会いたいと思うのだから、俺も救われんな)
その唇を奪って、抱きしめて、彼女の柔らかな肌に埋もれる……そう夢想し始めた時、控えめながらも確かな意志を持って、アルフレッドの執務室の扉が叩かれる。
「……誰だ?」
このような時間に尋ねてくる者はアルフレッドの身近な者と決まってはいるが、幾分の警戒心を滲ませて尋ねた誰何の言葉に、扉の向こうは低い忍び笑いを漏らしたようだった。
「……私よ、アルフ」
その答えに得心したように頷くと、彼は物音を立てぬよう細心の注意を払って扉を開けた。