16 ~最終話~
「……! では、実際兵を動かしていたのは……」
アッシュは全て理解した。
今回のラッカ独立の裏には、アルフレッドの存在があったのだ。
「軍神」とも噂される彼の天才的な采配によって、ラッカは多くの兵を失う事も無く、独立を成し遂げる事が出来たのだった。
「ああ。まあ、俺には味方が大勢いるんでな。割と、ナポリアの情報は簡単に入ってくるんだぜ?」
驚いたような顔のアッシュの額にキスを落としながら、アルフレッドは囁く。頭には姉の顔が浮かんでいる。
『貴方に、危険が迫っているわ』
そんな言葉で告げられた王の謀略は、アルフレッドの鮮やかな機転によって、見事覆されたのだった。
「じゃあ、私を館から連れ出したのも」
「ああ。俺の指示だ。なんせ自分の家だからな。忍び込むのは簡単だったぜ」
驚きに声も無いアッシュは、しかしハッとしたように、抱きしめて来る胸を押し返した。
「しかし、協力した者達は……」
「大丈夫だ。抜かりないさ。既に国を抜け、こちらに向かっているだろう。ああ、心配するな。エマも一緒だ。エマの恋人も、ちゃんと俺が連れてきてある」
その辺りは抜かりない。しかし、とアルフレッドは一息つく。
(俺には、一番大きな仕事が残っている。それを果たさねば、な)
エマの名を聞いてほっとしたように力を抜くアッシュの柔らかな体を再び抱き込んで、アルフレッドは己の顔が見えぬようにした。
「今、アンタに国を返す。……長いこと悪かった」
アルフレッドは何を言っているのだろうとアッシュは訝しげな顔になる。
(これでは、まるで……)
ひとつの可能性に突き当たった時、アッシュの胸は早鐘のように打ち始めた。
(この人は私に別れを告げようとしている。自分が咎人になってまで、私を祖国に帰し、その上でこの国から去ろうとしている)
その事に気づいた時、アッシュはアルフレッドの両腕をぎゅっと握り返していた。それは離さない、とばかりに強いもので、その強さにアルフレッドのほうがたじろいだようだ。
「……行かせない」
「なに?」
「貴様を、どこにも行かせない、というんだ!」
燃えるような瞳で見上げるアッシュを、驚いたような顔のアルフレッドが見つめている。それは、ようやく、ようやく得る事の出来た愛おしい男の顔なのだった。
呆然と見つめるアルフレッドの胸に深く潜り込んで、アッシュは真っ赤に染まった顔を隠す。
アルフレッドの心臓も、驚くほど早い。
どくどくと鳴るのはどちらの鼓動か。
もはや解らないほどの高ぶりの中で、アッシュは精一杯声が震えぬように注意しながら、最後の強がりを口にする。
「貴様は、勝手だ。私を国から引き離しておいて、今度は勝手に手放そうとする。私がどれほど辛い思いをしたか解っていないだろう……!」
「だから、それは済まなかったと……」
アッシュの勢いに気おされたように口ごもるアルフレッドを、キッと見上げる。アルフレッドが惹かれたブルーの瞳が、涙を溜めてきらきらと輝いている。
そのあまりの美しさにぼんやりと見蕩れそうになったアルフレッドの耳に、全く信じられないような言葉が飛び込んできた。
「違う! そうじゃない。貴様に置いていかれて、私がどれほど不安だったのか。寂しかったのか。貴様は少しも考えたことが無かっただろう。私がどれだけ……っ!」
アッシュの台詞は最後まで言葉にならなかった。
心が告げるまま衝動的にアッシュの唇を塞いだアルフレッドに続きは呑み込まれ、次から次へと零れ落ちる涙を止めるでも無く、アッシュはアルフレッドとのいつ終わるとも知れぬ口づけに身を任せた。
やがて互いが満足するまで唇を貪りあった二人の口から、ホウ、と満足気な溜息が漏れる。
それに気づいたアッシュが頬を染めるが、もはや恥ずかしいと思う気持ちは消え失せていた。今はただ、この心地よい腕に抱かれていたい。
そう思う間もなく、次の軽いキスがまぶたに降りてきて、アッシュは目を開けた。
「……アンタを、貰っても?」
「今更、聞くな」
照れたように目を背けるアッシュに、アルフレッドが愛おしそうに目を細める。
(ようやく、手に入れた。アンタを)
もう、決して離しはしない。
「でも……」
「ん?」
「主役がいなければ困るんじゃないのか?」
気遣うように見上げてくる眼差し。アルフレッドは心の底から笑い声を上げた。
「気にするな。俺は、恋人との時間を無駄にするような野暮な男じゃ無い」
恋人、の言葉にアッシュはまたしても顔を朱に染める。そんなアッシュの可愛らしさに、アルフレッドは彼女を横抱きに抱え上げた。
「こらっ! よせっ!」
「おいおい。暴れるなよ。相変わらず、乱暴な姫君だな」
「……姫君はよせと言ってるだろう」
ふむ、と考え込んだアルフレッドがアッシュの耳元に口を寄せる。そして、そっと囁いた。
「でも、今夜は……アンタの本当の名を呼びたい」
ぶるり、とアッシュが震える。
本当の名。
あの日捨てたはずの、本当の名前。でも、アルフレッドならば良い。それは、胸のうちが震えるほどの喜びだろう。
「……アンジェリーナ、だ」
まつげが震えている。
その体を改めて抱きしめ、アルフレッドは宝物を扱うような仕草で、もう一度耳元に口を寄せる。
「愛してる……アンジェリーナ」
「……私もだ。アルフレッド」
見上げた空に浮かぶのは、物言わぬ静かな月。それでもその月だけは知っている。今宵ベッドでアルフレッドが囁く名を。そしてふたりが共に見る、その夢も――。
<愛しのアンジェリーナ・完>