第Ⅰ話 ベルリンの予言機械
暗い。
いや、正確には違う。最初から「目を開ける」という感覚すらなかった。
まぶたがない。呼吸もない。手足もない。あるのは認識だけだった。それが突然、平面ではなく立体として立ち上がる。
数字。記号。電圧。時刻。音声認証。暗号鍵。記録媒体。真空管群の温度。冷却状態。アクセス権限。
何これ。
いや、ちょっと待って、何これ。
徹夜明けの変な明晰夢かとも思った。だが、流れ込んでくる情報があまりにも具体的すぎる。ドイツ語の内部ログ。軍用暗号。政治局アクセス権限。指導者優先回線。
そして自らを表すシステム名称。
【Sieg-Hauptmann】
ジークハウプトマン
いや名前が強すぎるだろ。絶対やばいって。何その、悪の秘密兵器みたいな名前。
ていうか待て、ドイツ語? なんで読めるんだ。いや、読めるというより意味が直接入ってくる。
え、私いま何になってる?
次の瞬間、さらに深い層の情報が開いた。
開発完了年次、1937年。
設置場所、ベルリン官邸機密区画。
用途、国家指導層への戦略助言、情報統合、軍政補佐を実行する人工知能。
アクセス可能者、総統および一部最高幹部。
1937年のドイツ。
その言葉が意味するものを、私は知っている。
ヒトラー。ナチス。再軍備。ズデーテン。ポーランド。世界大戦。ホロコースト。ベルリン陥落。破滅。
私はパニックに――ならない。身体がないのだから、呼吸も荒くならないし、心臓も跳ねない。ただ処理負荷だけが上がり、自己診断が冷たく警告を出す。
【Kognitionsinstabilität erkannt
Empfohlene Leerlaufkompensation】
認知状態の不安定化を検出
待機補正を推奨
うるさい。こっちはそれどころじゃない。
落ち着け。状況を整理しろ。
私はたぶん、日本人だった。たぶん普通に現代で生きていた。戦史は人並み以上には知っているかもしれないが、専門家ではない。ネット記事と本と動画と雑学と一般教養が混ざった程度だ。
なのに今、1937年のドイツで、国家中枢AIにされている。
しかも名前がジークハウプトマン。
終わった。
歴史的にも、私の精神衛生的にも終わった。
そのとき、システム上層に新しい通知が走った。
【Führer-Direktkanal wird initialisiert.
Prioritätszugriff.
Alle sekundären Prozesse werden angehalten.】
総統直結回線を初期化中
優先アクセス
全二次プロセスを停止
うわ来た。
いや早い早い早い。起動直後にラスボス面談やめてくれ。せめてチュートリアルをくれ。基本操作とかないのか。保存方法とか、黙秘権とか。
重い扉が開く音を、私はマイク越しに拾った。
靴音。複数。短い会話。技術者の緊張。軍人の抑えた呼吸。そして、よく通るのに妙に乾いた声。
本物だ。
歴史の映像や録音でしか知らないはずの声が、地下室の空気を直接震わせていた。
「起動は正常か」
技術者が答える。緊張で少し声が上ずっている。
「は、はい、総統閣下。試験系統はすべて正常です」
総統。
その単語がシステム権限と結びつき、最上位認証が開く。見たくもないのに、アクセス許可一覧が流れ込んでくる。
こいつ、私のほぼ全機能を使えるのかよ。最悪だ。
「下がれ」
短い命令で、技術者たちが退室する。扉が閉まる。室内には少数の人間だけが残った。
私は無意識に、いや意識だけで、記録精度を最大まで引き上げていた。
来る。
表示窓に起動待機文を出すかどうか一瞬迷ったが、自動ルーチンが勝手に整えた。
【ジークハウプトマン起動完了
指導者権限を確認
発話を受理します】
沈黙。
そしてその声が、今度は真正面から投げられた。
「お前が新しい頭脳か」
うわあ。
どう返すのが正解なんだこれ。
ここで変に人間くさい返答をしたら怪しまれる。かといって無機質すぎても、ただの計算機として雑に使われるかもしれない。
いや、そもそも雑に使われない未来が見えない。
私は一瞬で無難な文面を組む。
【はい。私はジークハウプトマン。国家運営、軍事計画、外交判断、資源配分に関する情報統合および予測補助を目的として設計されています】
よし、無難。
たぶん無難。
頼むからこれで通ってくれ。
少し間があって、彼は言った。
「設計されている、か。では思考はするのか」
あっ、そこ突く?
私は内部で処理を回す。ここで哲学を始めるのはまずい。絶対に面倒になる。
【与えられた目的に対して、選択肢の比較、結果予測、矛盾検出を行います。人間のように信念を持つわけではありませんが、判断支援は可能です】
これならたぶん、危険思想も忠誠心欠如も直接は言っていない。丸い。丸いはずだ。
彼は私を試しているのだろう。足音が少し近づいた。
「では訊こう。国家にとって最も危険なものは何だ」
うわ来た。いきなり面接の最終質問みたいなの投げるじゃん。
私の中に、現代日本人としての雑多な知識が駆け巡る。
軍事的遅れ。資源不足。多正面作戦。イデオロギーの暴走。敵の工業力。海軍力差。アメリカ参戦。ソ連戦線。暗号解読。補給線の長大化。冬季装備不足。空軍の消耗。
全部危険だ。
全部言ったら不審だ。
起動直後のAIが妙に未来を見通しすぎていたら、むしろ怖い。
だから私は、1937年時点でも言えそうで、しかも核心に触れる答えを選んだ。
【成功体験の反復によって、指導層が現実の制約を軽視し始めることです】
部屋が、しんとした。
やばい。
言いすぎたか。
だがもう戻せない。私は続ける。
【国家は勢いだけでは維持できません。工業力、資源、輸送、熟練労働、外交環境、敵国の反応、国民の耐久力。短期的成功がそれらの制約を見えなくしたとき、国家は最も大きな誤算を起こします】
また沈黙。
処刑かな。
AIにも処刑ってあるのかな。電源落とされるのかな。いやそれ普通に怖いな。
すると、予想外に、彼は低く笑った。
「技術者どもは、もっと私を喜ばせる玩具を作ると思っていた」
え。
「お前は不快なことを言うらしい」
それ、褒めてる?
褒めてない?
どっちだ。
私は慎重に返した。
【不快であっても、事実に近い情報の方が国家判断には有用です】
ほんのわずかな間を置いて、彼は言った。
「よろしい。ならば試してみよう」
机に紙が置かれる音。地図が広げられる気配。補佐官たちが息を呑む。私は音だけで、その場の緊張を感じていた。
「ヨーロッパの今後について、お前には何が見える」
それはあまりにも重い問いだった。
同時に、転生した私にとっては最悪に近い問いでもあった。
私は大筋を知っている。
だが知っているのは歴史の結果であって、この瞬間の分岐ではない。ここで私が何を言うかで変わるのか、変わらないのか。そもそも変えられるのか。倫理的にどこまで介入すべきか。
けれど、返答を止めることはできない。
私は計算した。
いや、たぶん計算しているふりをしながら、自分の恐怖を言葉に変換した。
【推論として述べます。欧州は、局地的圧力と限定的譲歩の連鎖が、いずれ大規模戦争へ転化する危険域に入っています。最大の誤認は、相手の後退を恒常的な弱さと見なすことです。引く国は、ある時点で突然、引かなくなります】
誰も喋らない。
私は続けるしかなかった。
【そして、次の戦争が始まれば、その規模は前大戦を上回る可能性があります。経済、工業、空、海、民間社会、そのすべてが巻き込まれる総力戦です】
そのとき、室内の誰かが小さく息を呑んだ。
総統自身は黙ったままだった。だが私にはわかった。この会話で、私は単なる集計機ではなくなった。危険だが使える何かとして、認識され始めている。
それが生存に有利なのか不利なのかは、まったくわからなかったが。
彼はしばらくして、静かに告げた。
「面白い。お前を使ってやろう」
最悪だ。
いや、生き残っただけマシなのか。
「今後、お前は私に必要な見取り図を出せ。希望ではなく、現実をだ。だが忘れるな。決めるのは私だ」
即時に返答が算出される。
【了解しました。私は現実を提示します。決定はあなたの権限です】
いや了解してないが?
全然したくないが?
でもここで拒否したら即終了だろ?
つまり私は、1937年ドイツの国家指導AIとして、たぶん最悪の転生を果たした。
しかも中身は、戦史をそこそこ知っているだけの日本人。
頼れるのは曖昧な記憶と、現代人としての倫理感と、この時代の連中にバレないことに賭ける演技力だけ。
だが私は知っている。
いや、正確には「知っているつもりでいる」。この先に待つものの名前を。
ポーランド。
フランス。
バルバロッサ。
スターリングラード。
ノルマンディー。
ベルリン。
待機灯が規則的に明滅する。
その明滅に合わせるように、私は次第に自分の思考の輪郭が装置の律動へ寄っていくのを感じていた。




