新田束早 ⑦
誰かが泣いていた。
誰? 誰が泣いているの?
問いかけは何もない真っ白な空間に吸い込まれ消えていく。
春香は耳を澄ませた。
こっち?
歩き出す。地面も空もない。なのに春香が足を出し、踏みしめると、そこが地面になった。
白いワンピースを着ていた。子どもの頃に気に入っていたものに似ている。
泣き声が近くなる。
小さな女の子がいた。水色のスモックを着て、長い黒髪を低い位置で二つ結びにしている。
よく知っている女の子だった。
「どうしてないてるの、つかさちゃん」
声をかけた。春香は小学一年生になっていた。
幼い束早は顔を伏せ、溢れ落ちる涙を腕で何度も拭う。
「いなく、ひっく、なっちゃったの」
「だれが?」
「わからない。でも、いなくなっちゃった」
春香はわけもわからず自分まで悲しい気持ちになった。湧き上がる気持ちで胸が一杯になると、顔を上げてわんわんと泣いた。
ひとしきり泣いて、泣き疲れた。
まだ啜り泣いている束早の奥に、一羽の鴉がいるのに気づく。
目が合う。すると黒い嘴が動く。鴉が啼いた。束早は気付かず、洟を啜っている。
鴉は嘴で束早の背を指すように首を動かし、またひと声、カァと啼く。
春香はその鴉に話しかけようとした。
「あなたは―」
そこで、夢から醒めた。
◆
家を飛び出した時、外は霧雨が降っていた。
構わずに走った。
新聞配達員の自転車。電柱脇に佇む霊の影。車庫から顔だけを覗かせる野良猫。
走り抜けていった。
「はぁ、はぁ、はぁ」
大吉のアパートの前で、少しだけ乱れた息が整うのを待つ。人々は寝静まっている。足音が鳴らないよう鉄骨階段を上がった。加減に気をつけて、ドアをノックする。
「お前こんな時間に。というか、そんな恰好で」
出てきた大吉が目を剥き、顔を逸らした。
夏向きの半袖短パンのパジャマ着のままだった。薄い生地は霧雨で湿り、肌に張り付いている。
「ごめんね。でも、どうしてもすぐ束早に会いたくて」
「束早に?」
大吉と束早が二人で京都に行ったのは三日前だ。
波旬のいた痕跡を探しに行ったのだという。けれど何も見つけられなかった。
波旬が祓われた夜以来、束早は部屋に籠るのを止めた。普通に外に出かけ、顔を合わせて話せるようになった。
そんな束早に、春香は心を痛めずにはいられなかった。
束早が深い喪失感を押し殺し、普通に振舞おうとしているのがわかってしまうから。
束早から感じる寂寥は、京都から戻って一段と増した気がした。
自分を重ねた波旬が、なんの生きた証も残せず消えてしまった。
そのことが束早の心に穴を開けているのだとは、春香も大吉同様に想像できた。
「春香、束早のことはゆっくり」
「夢を」
つい声が大きくなりそうになる。
「夢を視たの」
声を押さえて、言った。
大吉は春香に真剣な眼差しを向けた。
「わかった」
夢について何も訊かずに、大吉は中へ入れてくれた。
大吉たちの母親はいなかった。以前は都内のキャバクラで働いていたのを何年か前に辞め、今は隣町のスナックでママを務めている。大抵朝方まで帰らないらしい。
「束早、起きてる?」
「ん、春香?」
「入るね」
襖を開けた。スウェットの束早が布団から身を起こす。
「こんな時間にどうしたの」
「束早、服脱いでみて」
「え?」
「確かめたいことがあるの。だから服脱いでみて」
春香は混乱する束早に詰め寄り、スウェットの裾に手をかける。
「ちょ、ちょっと。わかった、わかったわ。自分で脱げるから、ちょっと待って春香」
大吉は音もなく部屋を出て、扉を閉めた。
束早は暗い部屋の中で後ろを向き、恥じらいがちに上着を脱ぐ。
「髪、少しいいかな」
「ええ」
春香は束早の腰辺りまで伸びた髪を身体の前に流してもらう。
細い背が露わになる。
「やっぱり。束早、こっち。ほら」
春香は束早を机にある鏡の前に促す。背中を、鏡に向けてもらう。
「なんなの、一体」
困惑する束早は肩越しに鏡を見て、声を詰まらせた。
「あったんだよ。波旬が、ううん、片翼の天狗が生きた証が」
波旬という妖としての呼び名しか知らなかった。
片翼の天狗。束早が自分と重ね合わせた相手を、そんなふうな呼び方しかできないのがもどかしかった。
「これ、羽根ね」
束早は腕を背に回し、指先で肩甲骨の辺りに触れる。そこに、翼が生えた跡があった。その跡が、黒い鴉の羽のようなかたちをしていた。
「うん、羽根だ」
「羽根にしか見えない」
春香は束早と顔を見合わせた。
「「羽根だ」」
二人の言葉が重なり、噴き出した。額をこつんと合わせ、くつくつと笑う。
まずは束早が。それにつられるように春香が。
涙を溢す。
笑い合いながら、涙がぽろぽろと落ちる。
「生きた証、残ってたのね」
「それだけじゃないよ。私はもう一つ、実は見つけてたんだ」
「春香が?」
「うん」
「なに、どこにあるの?」
「ここ」
春香は束早の、胸の合間に触れる。
「束早の心にも残ってる。そのヒトを覚えてる。それって、束早の心にそのヒトが残ってるってことにならないかな?」
「私の中に」
目に見える痕跡を見つけた今だから、伝えられた言葉だった。
ずっと言いたかった。けれど索漠に囚われていた束早にこんなことを言っても、空しく響くだけだと我慢していた。
「私が忘れずに生きて、その私をまた誰かが覚えていてくれる。証は消えないのね」
束早が大切なものを包むように、腕を胸の前で重ね合わせる。
「私は束早を忘れないよ。絶対忘れない」
この束早の満面の笑顔を、きっと死んでも覚えてる。




