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jumble'ズ  作者: 井ノ上
~ひきこもり娘は片翼に遺す~
33/45

新田束早 ⑦

誰かが泣いていた。

誰? 誰が泣いているの?

問いかけは何もない真っ白な空間に吸い込まれ消えていく。

春香は耳を澄ませた。

こっち?

歩き出す。地面も空もない。なのに春香が足を出し、踏みしめると、そこが地面になった。

白いワンピースを着ていた。子どもの頃に気に入っていたものに似ている。

泣き声が近くなる。

小さな女の子がいた。水色のスモックを着て、長い黒髪を低い位置で二つ結びにしている。

よく知っている女の子だった。

「どうしてないてるの、つかさちゃん」

声をかけた。春香は小学一年生になっていた。

幼い束早は顔を伏せ、溢れ落ちる涙を腕で何度も拭う。

「いなく、ひっく、なっちゃったの」

「だれが?」

「わからない。でも、いなくなっちゃった」

春香はわけもわからず自分まで悲しい気持ちになった。湧き上がる気持ちで胸が一杯になると、顔を上げてわんわんと泣いた。

ひとしきり泣いて、泣き疲れた。

まだ啜り泣いている束早の奥に、一羽の鴉がいるのに気づく。

目が合う。すると黒い嘴が動く。鴉が啼いた。束早は気付かず、洟を啜っている。

鴉は嘴で束早の背を指すように首を動かし、またひと声、カァと啼く。

春香はその鴉に話しかけようとした。

「あなたは―」

そこで、夢から醒めた。


        ◆


家を飛び出した時、外は霧雨が降っていた。

構わずに走った。

新聞配達員の自転車。電柱脇に佇む霊の影。車庫から顔だけを覗かせる野良猫。

走り抜けていった。

「はぁ、はぁ、はぁ」

大吉のアパートの前で、少しだけ乱れた息が整うのを待つ。人々は寝静まっている。足音が鳴らないよう鉄骨階段を上がった。加減に気をつけて、ドアをノックする。

「お前こんな時間に。というか、そんな恰好で」

出てきた大吉が目を剥き、顔を逸らした。

夏向きの半袖短パンのパジャマ着のままだった。薄い生地は霧雨で湿り、肌に張り付いている。

「ごめんね。でも、どうしてもすぐ束早に会いたくて」

「束早に?」

大吉と束早が二人で京都に行ったのは三日前だ。

波旬のいた痕跡を探しに行ったのだという。けれど何も見つけられなかった。

波旬が祓われた夜以来、束早は部屋に籠るのを止めた。普通に外に出かけ、顔を合わせて話せるようになった。

そんな束早に、春香は心を痛めずにはいられなかった。

束早が深い喪失感を押し殺し、普通に振舞おうとしているのがわかってしまうから。

束早から感じる寂寥は、京都から戻って一段と増した気がした。

自分を重ねた波旬が、なんの生きた証も残せず消えてしまった。

そのことが束早の心に穴を開けているのだとは、春香も大吉同様に想像できた。

「春香、束早のことはゆっくり」

「夢を」

つい声が大きくなりそうになる。

「夢を視たの」

声を押さえて、言った。

大吉は春香に真剣な眼差しを向けた。

「わかった」

夢について何も訊かずに、大吉は中へ入れてくれた。

大吉たちの母親はいなかった。以前は都内のキャバクラで働いていたのを何年か前に辞め、今は隣町のスナックでママを務めている。大抵朝方まで帰らないらしい。

「束早、起きてる?」

「ん、春香?」

「入るね」

襖を開けた。スウェットの束早が布団から身を起こす。

「こんな時間にどうしたの」

「束早、服脱いでみて」

「え?」

「確かめたいことがあるの。だから服脱いでみて」

春香は混乱する束早に詰め寄り、スウェットの裾に手をかける。

「ちょ、ちょっと。わかった、わかったわ。自分で脱げるから、ちょっと待って春香」

大吉は音もなく部屋を出て、扉を閉めた。

束早は暗い部屋の中で後ろを向き、恥じらいがちに上着を脱ぐ。

「髪、少しいいかな」

「ええ」

春香は束早の腰辺りまで伸びた髪を身体の前に流してもらう。

細い背が露わになる。

「やっぱり。束早、こっち。ほら」

春香は束早を机にある鏡の前に促す。背中を、鏡に向けてもらう。

「なんなの、一体」

困惑する束早は肩越しに鏡を見て、声を詰まらせた。

「あったんだよ。波旬が、ううん、片翼の天狗が生きた証が」

波旬という妖としての呼び名しか知らなかった。

片翼の天狗。束早が自分と重ね合わせた相手を、そんなふうな呼び方しかできないのがもどかしかった。

「これ、羽根ね」

束早は腕を背に回し、指先で肩甲骨の辺りに触れる。そこに、翼が生えた跡があった。その跡が、黒い鴉の羽のようなかたちをしていた。

「うん、羽根だ」

「羽根にしか見えない」

春香は束早と顔を見合わせた。

「「羽根だ」」

二人の言葉が重なり、噴き出した。額をこつんと合わせ、くつくつと笑う。

まずは束早が。それにつられるように春香が。

涙を溢す。

笑い合いながら、涙がぽろぽろと落ちる。

「生きた証、残ってたのね」

「それだけじゃないよ。私はもう一つ、実は見つけてたんだ」

「春香が?」

「うん」

「なに、どこにあるの?」

「ここ」

春香は束早の、胸の合間に触れる。

「束早の心にも残ってる。そのヒトを覚えてる。それって、束早の心にそのヒトが残ってるってことにならないかな?」

「私の中に」

目に見える痕跡を見つけた今だから、伝えられた言葉だった。

ずっと言いたかった。けれど索漠に囚われていた束早にこんなことを言っても、空しく響くだけだと我慢していた。

「私が忘れずに生きて、その私をまた誰かが覚えていてくれる。証は消えないのね」

束早が大切なものを包むように、腕を胸の前で重ね合わせる。

「私は束早を忘れないよ。絶対忘れない」

この束早の満面の笑顔を、きっと死んでも覚えてる。


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